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13「まがいの名」

 帝都の朝は、乾いて軽い。

 洗い立ての布のように、風が角で折り目をつくっては、通りの端へ置いていく。夜の名残りは路地の奥にだけ薄く残り、店先の暖簾は湿りを失って、布目がひとつずつ見える。呼吸が軽くなる朝の空気は、読み物に向いていた。紙の繊維が膨らみすぎず、墨の黒が落ち着いて見える。


 誓約庁の会議室では、白布を通した光が机の上だけを撫でる。

 綾女は通達束を横一列に並べ、端の余白を揃えた。紙の匂いの手前に、少しだけ古い木の匂いがいる。割り箸を箱から出したときの、まだ生木の水分が残っている匂いだ。

 並べた通達は、内容よりも署名が大事だった。署名は名の骨で、骨の触れ方で、紙の拍が決まる。綾女は耳で聴くように目で追い、筆の走りを息継ぎで数える。息継ぎ——筆を紙から浮かせる一瞬——の高さは、書き手の膝の角度とつながっている。膝は嘘がつけない。


 筆勢は、ほとんど同じだ。筆運びの順、止めの位置、はらいの角度。なのに、筆圧だけが場面ごとに変わる。

 断水令の追告では深く、工房への「ご協力願い」では浅い。押し印の直前だけ、拇指球で紙を押した痕があるのに、その押しが不自然に浅い。浅さは、息を噛んだ証拠だ。

 首筋の白羽の内側で、第二紋が微かに疼いた。痛みというより、指先で軽くつつかれたみたいな合図。紙面の上に透明な二つ名の影が重なる感覚が生じる。どちらも同じ格好をしているのに、呼吸の位置が違う影。


「名は器の輪郭だ。輪郭が二重なら中味は漏れる」


 凪雪が、横で静かに言った。

 彼は白羽を一本立て、羽軸を定規にして行間の隙を測る。白羽の影が紙の上で細い直線になり、直線の両脇で墨の呼吸が浮いたり沈んだりする。

 紙は喋らない。喋らないが、押した手の呼吸を記憶している。墨は乾くと同時に、押した者の膝の角度と、喉の空気の場所を封じ込める。それを読めるようになったのは、白羽の拍を知ってからだ。


 戸口が二度だけ叩かれ、篝が古い包みを抱えて戻ってきた。

 包みの紐はすでにほどかれていて、紙の端だけが、開けた者の手の癖で少しだけ曲がっている。

「禁区周縁で昔から歌われているわらべ歌、『白い烏は名を運ぶ』の採集譜。三通り」

 篝は三枚の譜面を机に並べた。黄ばんだ紙に、黒い小さな音符が縫い目みたいに並んでいる。拍子は二拍。けれど、欠拍が三箇所あった。

 歌詞も、三文字ほど抜けている。

 〈な□は□、□□らす〉

 綾女は、息を呑んだ。欠けはただの欠けじゃない。隠すための隠し場所の記号——昔、孤児院で隠し扉の印を見つけたときの感じと、似ていた。


「童謡の欠拍は、昔の地図の“灯の位置”に重なることがある」


 篝が続ける。

「禁区の縁は常夜灯が一定間隔で立っていた。官吏は夜間、必ず灯の下で書き換えをした。——灯の下でしか、紙は入れ替えられない。だから欠拍は、灯の下の欠け目を示す」


 綾女は三つの資料——配水局の現行記録、童謡の古譜、そして戸籍簿の見出し——を三段重ねで照合し始めた。

 見出しだけで充分なことがある。見出しは意図を隠せない。見出しの並べ方は、棚の並べ方で、棚は持ち主の背丈で決まる。

 照合の指先が、ある家名のところで止まった。改名の頻度が、常識の三倍に跳ね上がる年代がある。大火の年を境に、同じ名前が三つの部署——配水局・勘定方・土木監——を回遊している。回遊は、巡回を偽装する方法。

 署名の“息継ぎ”だけが異なる。息継ぎは手を紙から浮かすタイミング。筆を持つ師の癖として伝播する。つまり、名は変えても癖は残る。

 癖の重なり方が指の腹に差さるように分かった。背中を流れた汗が、布の内側で細い帯になった。


 綾女は穢れ瓶の蓋を少し開けた。

 紙束から漂う偽りの匂いを、瓶に吸わせる。黒い瓶がひと呼吸重くなる。温度が上がり、哀しみと怒りが層を作る。恥は乾いて隅の方でかすかに光っている。

 凪雪が羽で瓶の縁を軽く叩くと、層はゆっくり回転し始め、表層に薄い文字の形が浮かんだ。

 ——祖父の名を借りた字形。

 同じ部首の打ち方、止めで呼吸を殺す癖。似せるために増やした「とめ」。

 綾女は孤児院で学んだ初歩の筆写術を思い出し、写経の線の“はらい”を指でなぞる。偽名の署名は“とめ”が過剰で、“はらい”の解放が足りない。

 名を奪う者は、名を解き放てない。

 解放の仕方を知らない線は、布目に爪を立てて止まるみたいに、紙の肌で引っかかった。


「仮説を置く」


 綾女は息を整え、紙の端に細く書いた。

「配水局・勘定方・土木監の三部署で、同一の“筆癖”が輪番している。外形的には三人、実質は一系譜」

 託された名を回す家。責任は回さない。名だけを借り、押印の場だけを踏む。

 凪雪は短く「当たっている」と言い、篝に視線を移した。

「童謡に出る“常夜灯”の位置を洗え。欠拍の三箇所が示す灯の間隔が、今の地図のどこに残っているか」

「はい」


 灯は残る。人間は灯を変えたがるが、灯の場所は変えない。変えれば、夜を歩く者が転ぶからだ。転ぶ音は、街の骨に響く。

 篝は古図の上に薄紙をかぶせ、炭で軽く擦った。灯の丸が幽かに浮き、欠拍の位置がその丸と重なる。三つの欠拍は、禁区の縁の三角形の頂点に立っていた。そこだけ、夜の風が渦をつくる地形。


「今夜、見る」


 凪雪が言った。

 見る、は短い。短いけれど、準備のすべてを含む言葉だ。

 綾女は瓶の蓋を閉め、白羽栓に頬を当てて震えの幅を確かめた。震えは穏やかで、怒りは椅子に座り、哀しみは脚を組み直した。

 名を奪う痛みは、瓶の黒の底で熱に変わり、その熱が行儀よく層になっている。層は薄い反射で、自分の顔を映した。映る顔は、昨夜よりも少し硬い。


      *


 昼前、孤児院に寄った。

 柚が樋の金具を布で拭いている。布は汚れておらず、拭うという動作のほうが仕事になっている。拭う動作は、心を整える参りのようなものだ。

「顔、こわいね」

 柚が笑いながら言い、すぐに真面目な顔で薬味の籠を差し出した。

「持っていきな。香りの束を人に渡すには、渡す側にも香りが要る」

 綾女は礼を言って籠を受け取り、子どもたちの昼寝の息の高さを一瞬だけ確かめてから、誓約庁に戻った。

 息の高さは半音低い。昨夜の配が正しかった証拠だ。半音ぶんの余白が、笑いと泣きの切り替わりをゆっくりにする。


 午後、篝が三本の細い線を地図に引いた。

 常夜灯の座標。昔と今の重なり。灯は位置を守り、灯の下だけで紙が入れ替えられるという習わし。

「名を隠す者は、光の下でしか紙を入れ替えられない。——古い官吏の習わし」

 習わしは、窮屈さの別名でもあるが、灯の下に人を集めるための礼でもある。礼があれば、紙は逃げない。紙が逃げなければ、名も逃げない。


 綾女は呼吸を整え、瓶の蓋を三分の一だけ開いた。

 偽りの匂いが細い糸になって上がり、白羽栓の震えがその糸に拍を与える。拍を与えられた匂いは、瓶の内側でねじれ、解け、落ち着く。

 名は器の輪郭。輪郭が二重なら、中味は漏れる。

 漏れたものは、足跡になる。足跡は、灯の下でよく見える。


      *


 夕刻。

 禁区の縁へ向かう道は、昼より薄く、しかし固かった。空気の密度が一段上がり、息の長さが少しだけ短くなる。

 三人は別のルートで現場に入った。篝は裏手から、凪雪は正面から、綾女は市場を抜けて遠回りをした。人に見られる角度が違えば、見えるものが違う。違いをあとで重ねるために、わざとずらす。

 常夜灯は、昔話の中の灯の形をしていた。柱は木で、笠は銅、格子は薄い。灯の中には弱い油の火が入り、火は燃え尽きるのが遅い種類の油で静かに揺れる。揺れは拍だ。拍が乱れれば、灯は人を呼ばない。


 最初の灯の前で、綾女は石の縁に腰を下ろした。

 遠くで市場の片付けの音がし、近くで犬が二度だけ吠えた。吠え方は挨拶の高さ。吠えたあと、犬は寝床へ戻る。その寝床の音の柔らかさで、今夜は雨の心配をしなくていいと分かる。

 灯の上の空は、乾いている。乾いている空に、紙の匂いが一筋だけ流れた。紙は人の胸の高さで交換される。その高さを、風が覚えている。


 人影が、灯の手前で立ち止まった。

 黒外套。裾は泥を嫌い、靴は乾いている。指の節は、紙の粉を知らない指の形。

 懐から紙を取り出し、もう一つの紙と入れ替える。

 朱印を二度、軽く打つ。

 印影は二重。二度打ちで抜けを誤魔化している。二度打ちは、紙が濡れているときにだけ許されるやり方だが、今夜の空は乾いている。乾いているのに二度。

 綾女の第二紋が、鋭く疼いた。

 灯の円の縁で、黒外套の横顔が一瞬だけ白く浮いた。昼間の役人、その人だった。名乗りの母音が、灯の縁で再び滑る。滑る母音は、祖父の名へ一瞬だけ寄ってから戻る。

 まがいの名が、灯の円に輪郭を刻んだ。


「——見たな」


 背後で篝の声が、灯の油の匂いを避けるように低く動いた。

 凪雪は正面に立ち、灯の柱に手を置いた。白羽を一本、柱と紙のあいだに差し入れ、紙が逃げる道を一つだけ塞ぐ。

 黒外套は、気づいている。けれど、灯の下を離れない。離れないのは、古い習わしに縛られているからだ。灯の外で紙を入れ替えるのは、古い官吏の恥。恥の位置を守る者は、恥を知らない者より、扱いやすい。


「名を返せ」


 凪雪が言った。

 声は低く、硬くない。灯の油を揺らさない高さ。

 黒外套は笑うでも怒るでもなく、唇だけで言葉を作った。


「……名は、形式だ」


 昼間と同じ、薄い甘さのある言い方。

 第二紋が、それに反応して焼けるように痛んだ。けれど、痛みはすぐに温に変わった。痛みは呼び鈴だ。呼び鈴のあと、来るのは灯だ。

 綾女は一歩前に出て、灯の円の内側へ入った。

 瓶の蓋を、四分の一だけ開ける。

 紙の匂いと、朱の粉の匂いと、指の皮脂の匂いが混じって一本の細い糸になる。その糸に、白羽栓の震えで拍を置く。拍は、骨のほうへ伝わる道だ。


「名は形式じゃない。——息継ぎだ」


 言ってから、骨の内側で自分の言葉が落ち着くのを待った。

 息継ぎは、名のほうから紙に現れる。息継ぎを嘘にするには、膝を欺かなければならない。膝は嘘がつけない。

 黒外套の目が、灯の縁で一瞬だけ揺れた。

 綾女は紙の端へ視線を落とし、署名の“はらい”を目で撫でた。はらいが解放されない線。解放されない線は、名前の扉を閉めたまま押すみたいな音がする。

「あなたは“はらえない”。——名を解き放てない」

 黒外套の唇が、ほんの少しだけ歪んだ。歪みは癖ではなく、反射だ。反射の位置で、その人の骨の硬さが見える。硬い骨は、折れる音が高い。


「灯の下で紙を入れ替えられるのは、恥を知るためだ」


 凪雪が続けた。

「恥は、灯が乾かす。乾いた恥は、風で剥がれる。——お前の恥は、乾いていない」

 黒外套は、視線を灯の格子から自分の靴の先へ落とした。落とした視線は、すぐには上がらない。上げる前に、口が動いた。


「——春を、早めたかった」


 その言い方は、言い訳の声ではなかった。

 乾いて、軽い。けれど、底が空洞になっている。空洞は、灯の下で音をよく響かせる。響いた音は、本物に似る。似た音のほうが人は信じやすい。

 綾女は瓶の肩に頬を寄せ、白羽栓の震えを胸へ入れた。

 地下水道で見た削られた季節刻み。春の節だけを早送りできるように、古い刻みを削っていた手。

 名を借り、印を重ね、灯の下で紙を入れ替え続けた年。

 昼間の老人の声——「その名は、わしの友を二度殺す」。

 胸の奥で、温かい熱が強くなった。熱は怒りではない。名を返したい、という、まっすぐな欲求だ。


「——灯の下で、読み上げます」


 綾女は静かに言った。

 読み上げは、押印だ。押すのは手だけではない。声も押す。

 篝が一歩進み、拓本を灯の下で開いた。二重の印影。別の筆致の署名。朱の乾き方の違い。

 凪雪が白羽の軸で、署名の“息継ぎ”の位置を指す。

 綾女は一行ずつ、低く読み上げた。

 灯の油の火が、読む声に合わせて少しだけ揺れる。揺れは、拍。拍が合えば、火は小さくならない。

 黒外套は、灯の中で身動きをしなかった。灯の外へ出れば、紙は見えなくなる。見えなくなるは慰めだ。慰めは、罪ではないが、責任ではない。


 読み終えると、風が一度だけ灯の笠の下を抜けた。

 朱の粉がほんの少し、宙で舞い、すぐに落ちた。落ちた粉は、乾いた。

 乾いた恥は、風で剥がれる。

 黒外套の肩が、ひとつ分だけ下がった。

 そのとき、角の陰から足音がした。役人隊。

 黒外套が動くより早く、灯の向こうでひとりの老人が前に出た。昼間と同じ老人。杖の先が石を一度だけ鳴らす。鳴りは、拍に合わせて短い。


「その名は、わしの友だ。二十年前の火で死んだ。……名を、返せ」


 静かな言葉が刃になり、灯の円のなかでだけ空気が冷えた。

 黒外套の喉が、乾いた音を立てた。

 凪雪は剣を抜かない。代わりに白羽を一本、灯の格子にかけた。その羽根が揺れないことを確かめてから、短く言った。


「名を返せ。返した名だけが、街に残る」


 黒外套は懐から紙を取り出し、手のひらで二度、三度と撫でた。撫でる手つきが、名に謝る手つきではない。紙の粉を落とす手つきだ。

 綾女は瓶の蓋を完全に閉めた。

 怒りが跳ねない。哀しみは座ったまま。恥は乾いて、灯の下で静かに剥がれた。

 第二紋の疼きが、息と同じ長さでやわらいだ。痛みは止み、代わりに胸の内側で温かい熱が小さく灯る。

 灯は、名のためにある。名は、灯のためにある。


      *


 役人隊は、黒外套を連れ、灯の円から外れないまま歩き出した。

 外れないのは、まだ習わしを守っているからだ。守る者は、壊す者より、灯の下で語りやすい。

 篝は拓本をたたみ、印影の重なりをもう一度だけ確かめ、帳面に短く記した。

「偽印影、二重。署名、別筆。息継ぎ——師の癖」

 それだけで、十分だった。

 綾女は灯の格子へ手を当て、油の温度を指先に覚えさせた。灯は昼間より少し冷たい。冷たい灯は、読み上げのあとで温まる。


 帰路、白羽糸の上で高い音が一度だけ鳴った。

 禁区の上に残る黒い穴が、ほんの少しだけ位置を変えた。

 凪雪が足を止め、夜の空を短く眺める。

「まだ、いる」

「はい」

 速い雨は、まだ別の場所へ流れている。役人の手の外、もっと上の文言。

 けれど、今夜は灯の下で、ひとつの名が返された。

 返された名は、すぐには街を変えない。変えないが、拍を一単位だけ深くする。深い拍は、次の雨を正しく落とす。


      *


 誓約庁へ戻ると、会議室の光は朝よりも柔らかく、紙の上の墨は朝よりも低い位置で呼吸をしていた。

 綾女は通達束をもう一度だけ並べ直し、署名の“はらい”を指でなぞった。はらいが解放されない線。解放されない線は、灯の下で読み上げられるまで、名を閉じ込める。

 凪雪が椀を置いた。椀の中には薄い出汁があり、匂いだけで輪郭が立つ。

 綾女の舌は、少しだけ味の場所を掴み直した。塩ではなく、塩の位置。香りがそっと橋を渡す。

 瓶は温く、軽い。

 拍は、整っている。

 整った拍でしか、名は呼べない。

 名を呼ぶとき、昔の童謡が遠くで短く鳴った気がした。

 〈な□は□、□□らす〉

 欠けているはずのところに、今夜だけ、言葉が入った気がした。

 ——名前は、灯が運ぶ。灯が運んで、街へ戻す。

 綾女はそれを声にしなかった。声にしない言葉が、骨の側で長く持つ。


 外で風鈴が鳴り、白い羽根が格子の影で小さく揺れた。

 揺れる羽根の影は、まがいの名を許さない。許さないのに、憎まない。

 憎しみでは、拍が乱れる。乱れた拍では、雨は濡れない。

 朝は、急がない。

 名も、急がない。

 だから、必ず、届く。

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