表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/13

12「雨の配分」

 昼の光は、暦盤室に入る前に二度薄められる。

 一度は白布の幕で、もう一度は紙と木と墨の匂いで。眩しさが仕事を貧しくすると、誓約庁の誰もが知っていた。光の過剰は心の過剰と似ていて、どちらも拍を壊す。拍を壊した先にあるのは、早取りの誘惑だけだ。


 床には帝都の地図が広がり、墨の線は谷筋や街道に重なりながら、ところどころで意味のないふりをして走っている。意味のないふりは、意味を隠すための方法のひとつだ。

 雫型の駒がいくつも置かれていて、指で触れるとひやりとする。樹脂に白羽の粉が混ぜてあるせいで、体温を奪うようにできていた。昼に冷たいものは、夜に温かさを守る。


 篝は配分表に向かい、墨の濃淡だけで優先度を視覚化していく。太く濃い線は病院へ、淡い影は市場へ。工房の列は斜めに細く塗られ、孤児院の場所は朱の気配だけを紙の下に滑らせた。朱は押していない。押すのは灯の下で、という約束がまだ空気に生きている。

 職人衆は板図の上で臨時樋の増設計画を練り、昨夜は丘の斜面に、今夜は裏路地に、それぞれ最短で水が歩ける路を重ねていく。紙の上で引かれた矢印の数は少ない。数字が多いと人は安心するが、現場の足を重くする。


 凪雪は上空の白羽糸を再調律していた。糸は見えないが、触れば指先に涼しい抵抗があり、それが弦の張りのように伝わってくる。禁区の穴を避け、必要地点へ落とす角度を作る。その角度を三度誤れば、雨はやさしさを忘れる。

 ときどき凪雪が胸の高さで手を止める。止めるという行為は、仕事の半分だ。止めるあいだに、拍は自分の位置に戻る。


 綾女は瓶を両手で抱え、眠らせておいた束を覗き込む。黒い瓶は昨夜より深い黒で、底のほうで哀しみが椅子に座り直し、怒りは膝を深く使い、恐れは長い揺れを覚え、恥は乾いて隅で光っていた。

 白羽栓の震えに頬を沿わせ、束を四つに分割していく。一つは病を薄める束。体温の出入りの端で熱を撫で、咳の拍を短くする。

 一つは怒りを沈める束。跳ぶ寸前の膝に布をかけ、沈む前の背に小さな手を置く。

 一つは地力を上げる束。土の口へ先に水の言葉を教え、吸水の梯子を一本増やす。

 最後の一つは、香りを残す束。食べ物の味が戻らない人のために、香りで食べられる救いを沿える。香りは味の骨。骨が立てば、肉が薄くても立つ。


「四つで行く」


 綾女の言葉に、篝が墨の濃淡をひと刷毛だけ変え、凪雪が指の角度を一度だけ浅くした。指の浅さが、空の筋へ伝わっていく。

 暦盤は静かだ。静かだが、黙ってはいない。盤の外周の細い針が、今日の夜が許容する雨の拍を、ひと筋の光で示す。光は強くない。強すぎない光が、今夜の限度を守る。


      *


 配は、始まりを持たない。

 誰かが合図をするのではなく、場のほうが「ここだ」と言い、そこへ人が合わせに行く。

 最初に濡れたのは、市場の端の樽だった。樽は、肩ほどの高さでひとつだけ震え、こつり、と音を短く鳴らして、表面に薄い皺を一枚作る。皺が消えるころ、天幕は軽く湿った。湿ったのに、布の目は詰まらない。布の目が詰まらないのは、濡れ方が懇切だからだ。

 次に病院の中庭が静かに満水した。音を立てない満水は、働く人の喉を刺激しない。桶の縁がひとつ、看護師の指先で薄く揺れ、それで終わる。余剰は出ない。余剰がないことが、いちばんの贅沢だということを、人は忘れがちだ。


 孤児院は、樋が三分の二だけ働いた。残りの三分の一は、柚の木の根と、裏庭の砂の呼吸に回す。子どもたちは口を開けない。指の腹で雫の重さを覚え、匂いを胸へ入れて、ゆっくりと吐く。吐くことが、もったいなくない。

 工房の屋根は、火の都合に合わせて濡れ、炉の火は一度だけ背伸びをやめ、深い息に切り替わる。深い息は熱を長く持たせる。市場の乾物は布の下で静かにやせ、やせた分の塩が角を収める。


 人々は驚きより静けさで受け止めた。

 驚きは派手で、静けさは仕事だ。過剰がないことの安心が、街にゆっくりと広がる。拍手はほとんど起きない。拍手がない夜は、翌朝が優しい。


 綾女は瓶から四つの束を順に駒へ含ませていく。病の束は、病院の石の下に先に入る。怒りの束は、井戸端の声の高さの端へ薄く置かれる。地力の束は、裏路地の土の口の端に梯子を立てる。香りの束は、市場の香草の籠へいちどだけ触れ、その香りが、味の戻らない舌に道を作る。


 白羽糸は、禁区の穴を礼儀正しく避けていた。

 避けながら落ちる角度は、羽衣の端を持ち上げるみたいに柔らかい。柔らかい角度は、雷を遠ざけ、湯気を招く。

 凪雪は音のない合唱を続け、篝は朱を押さずに朱の気配だけを紙にすべらせ、職人衆は樋の口を一歩分だけ動かし、足元の石は足音を吸って、必要なときだけ返す。


      *


 妨害は、いつだって「間」に入ってくる。

 配の中段、禁区の縁に、人の気配がひっそり立った。配水局の役人。灰の衣は乾き、靴は泥を嫌い、胸元には朱印の紐が新しい。目は濡れていない。濡れない目は、灯の下でよく擦れる。

 彼は禁区の縁に、偽の暦盤を据えた。薄い金属と紙とで作られた、小さな盤。盤の縁には、春の節だけ深い溝が切ってある。白羽糸を偽拍で揺らすための装置。揺らし方は粗いのに、遠目には本物に似せてある。


 綾女の第三紋が激しく拍落ちした。

 視界が瞬間白くなる。白さは恐れの白ではなく、怒りの白でもない。拍が飛んだ隙間の白だ。隙間で、瓶の底の椅子がいっせいに鳴り、束が立ち上がろうとする。

 綾女はひと呼吸で白羽栓を押さえ、哀しみの束を先に寝かせ、怒りの束にもう一枚薄布を掛ける。布の重さは、指先の温度で決める。温度は拍。拍は、呼吸で生まれる。


 凪雪が駆けた。

 偽盤を斬り捨てるのかと思ったが、彼はそれを持ち上げ、ためらわずに本物の暦盤の上に重ねた。

 二枚の盤が軋む。

 嘘の拍は、正しい節で粉砕される。粉砕の音は鳴らない。鳴らないのに、部屋の空気の密度だけがいちど増し、その増したぶんがすぐに抜けていく。

 篝が記録する。「偽盤押収。印影は二重、署名は別筆」。筆圧の抜ける場所、止めの高さ、朱の乾き方。灯の下で読むための材料が、板の上で行儀よく並ぶ。


 役人は逃げようとした。

 退く足は速い。速さは、名の位置を軽くする。名の軽さは、声を高くする。

 人の輪から、老人が一人、前へ出た。

 杖の先が床を一度だけ鳴らす。その鳴り方は、練習した音ではない。骨の音だ。


「その名は、わしの友を二度殺す」


 静かな言葉が刃になった。

 名を奪うことは、二度目の死を与える行為——第二紋の内側が、痛むのをやめた。痛みの代わりに、胸の内側で温かい熱が灯る。灯は強くない。強くないぶん、長持ちする。

 役人の顔から笑いが抜け、目だけが濡れないまま残った。濡れない目は、灯の下で居場所を失う。居場所を失った目は、人の背中で小さくなる。小さくなった背中は、風のないのに揺れた。


 偽拍が消え、白羽糸はふたたび本来の張りを取り戻す。

 綾女は瓶から最後の束——香りを残す束を、市場の片隅へひと撫でで置いた。

 香り包みの籠から立つ薄い匂いが、宙でいちど止まり、舌に戻らない誰かの鼻へ、ゆっくりと道を作る。香りで食べる術は、贅沢の代用品ではない。明日を整えるための橋だ。


      *


 配は成功した。

 暦盤の針は今夜の最後の刻みに触れ、室内の空気がいちど柔らかく沈んでから、静かに上がった。

 渇水区は息を取り戻し、井戸の縁に座っていた者が立ち上がり、何も言わず胸に手を当てる。礼の拍は、言葉より先に来る。

 凪雪は短く宣言した。「三段式、完了」。

 綾女は深く息を吐いた。瓶は温く、軽い。温さは、無理に冷やさなかった証拠。軽さは、必要な分だけ渡せた証拠。

 篝は達成の文字を小さく記し、その末尾にだけ、別の筆で薄く書き加えた。


「——ただし、禁区へ落ちていた速い雨、儀式の最中に別の場所へ移動の形跡」


 移動。

 誰かが、どこかで、速さの行き先を変えた。偽盤を据えた役人の足の速さでは追いきれない、もっと上の手。

 春の前借りを制度に組み込もうとしている。上位の文言に、すでにそれを受け止める穴が空いているのかもしれない。穴は紙より先に、呼吸の位置に空く。


      *


 夜半、門楼へ戻る道は、昼より細く、しかし長かった。

 白い塔の呼吸は、起きている者にだけ聞こえる音でゆっくりし、常夜灯の格子はひとつだけ減って、それでも光は足りている。足りていると感じられるのは、今夜、過剰がなかったからだ。

 凪雪は門の白に掌を置き、もう片方の手で白羽栓の振動を、綾女の抱える瓶の口へ渡した。羽根は綾女の脈に合わせて細く震え、震えを瓶が覚え、瓶の中の束の輪郭がさらに丸くなる。丸くなると、重さが均等になった。


 常世の座に戻ってから遅い食事をとる。

 柚から分けてもらった香り包みの端と、薄い出汁の陰影とで、味の輪郭を作る。

 綾女の舌は、少しだけ輪郭を掴み直した。塩そのものではなく、塩の場所が分かる。場所が分かると、香りはそこへ橋を渡す。

 薬味の香りに、安堵が落ちる。落ちた安堵が、拍の底でゆっくり座った。


「次は名だ」


 凪雪が短く言う。

「偽名官僚の正体を確定する。——灯の下で」

 灯の下で読む、押す、配る。三つを外さないやり方だけが、早さに負けない。


「はい」


 綾女は頷き、三誓の第二——名を奪わぬ誓い——に手を添え、胸の前で一度だけ拍を刻んだ。刻む音は出ない。出ない音のほうが、骨に届く。

 白羽栓は穏やかに震え、瓶の黒は夜よりも深いのに、重くない。

 眠りは、すぐには来ないかもしれない。来ない眠りは、悪い知らせと同義ではない。

 来ないなら、拍を数える。

 四。

 八。

 十二。


 遠く、禁区の上に残る黒い穴が、わずかに位置を変えた気がした。気がしただけだ。気がしたことを、今は信じすぎない。明日、灯の下で確かめる。

 篝は紙を抱え、眠りの前に一度だけ朱を指で撫でた。朱は深く、乾くのが遅い。遅さは、呼吸のためにある。

 夜風が白布の縁をやさしく揺らし、揺れた布の影が床に落ちる。影は濃くない。濃くない陰影のほうが、朝にやわらかい。


 門楼の外で、小さな風鈴がひとつ鳴った。風と合うタイミングで。

 合う音は、明日の拍の前触れだ。

 明日は、名を呼ぶ。

 名を呼び、押し、渡す。

 名を捨てた行いは積もらない。名を持った返礼だけが、街に残る。

 朝は急がない。

 だから、必ず、来る。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ