11「破られた誓い?」
朝が、街を細かい布で拭っていった。
配の翌朝の市場は、泥の匂いではなく、洗い上がりの匂いで満ちている。濡れた縄の繊維が太陽でぬくもり、木箱が軽く軋み、葉物の背が一段高く起き直る。露店の天幕は手のひらで撫でると水滴がすぐに逃げ、逃げた水が石畳の目地へ吸い込まれる。
鍋の底からは昨日より薄いが優しい湯気が立ち、檜のまな板の匂いがふっと浮く。安堵の細い波が屋台から屋台へ伝い、波は人の肩のあいだで少しずつ広がって、どこかで自然と消える。消えるやり方が、良かった。
——掲示板の前だけを除けば。
朝一番で貼られた紙は、昨日の文とほとんど同じだった。末尾にだけ細い針のような文が足されている。
〈春期配当の調整、近日実施〉
軽い字体。軽さをわざと出したような筆致。昨日の署名と微妙に違う。ひらがなの丸み、止めの高さ、筆圧の抜ける場所。指先で紙の端をつつくと、朱の粉がわずかに浮いた。
首筋の内側で、第二紋が鋭く刺す。刺すだけでなく、微細な波を引く。波は喉の奥の紙片へ触れて、紙片の端を湿らせた。湿りは、語の形を変える。
「……名の息が、昨日と違う」
綾女の呟きに、隣で凪雪が掲示ではなく人の呼吸を見てうなずく。紙を読む前に、紙の向こうに立つ人の呼吸を聞く。呼吸の位置が変わっていれば、文字の骨は同じでも別物だ。
紙の前に集まる人々は、昨夜ほど苛立ってはいない。代わりに、慎重な沈黙が多い。沈黙は、よく働いた夜の翌朝にふさわしい。けれど、沈黙の底に、針の先が沈んでいるのが見えた。
*
誓約庁に戻ると、篝が待っていた。帳面の端は擦り切れず、角度だけがきっちりしている。形が整っているのに、疲れの色は指の節にだけ薄く出ていた。
「禁区へ流れる“速い雨”、追跡した。——配水局地下への縦穴に落ちている」
速い雨。昨夜、禁区の上だけを突くように落ちていた、あの速度の違う雨だ。上空では白羽糸を礼儀正しく避けていたのに、地中で別の道が開いている。
凪雪は返答に一字分の間すら置かない。
「潜る」
ことばは短い。短いのに、部屋の温度が少し下がった。下がった温度が心の余分を削ぎ、綾女は瓶の白羽栓に指をかけて頷いた。
*
配水局の裏手に、柵の意味を忘れた柵がある。出入りの回数を数え過ぎて、数そのものが穴になってしまった場所だ。篝が鍵を二度回し、扉を開けると、冷たい地下の匂いが頬を撫でた。
石積みの古い水道が網の目のように張り巡らされている。壁には旧い技法の刻印、石と石のあいだには苔が薄く息をしている。かつて祭礼の水を静かに回した管も、井戸を結んだ路も、今は混ざり合い、濁りの方角を覚え始めている。
斜路の途中で、綾女の第三紋が不整脈を打った。
拍の抜け。空の禁区で感じた、あの薄い痛みが肩の内側へ走る。
壁面の季節刻みの刻線が一目飛びになっていた。春の節だけ硬い小刀で削り落とした痕、夏の節に改めて印を打った痕。刻みの腹にわずかに新しい粉が詰まっている。触れば指に白い粉が移る。古いものの皮を剥き、新しいふりをかぶせた匂い。
誰かが、春を早送りできるように、古い刻みを削っていた。
「……ここだ」
凪雪の声は低い。低いのに広い。広さは、怒りの速度を殺す。
奥のほうで、人の立つ音がした。濡れていない靴の音。乾いた衣の擦れる音。
薄暗がりの奥で、例の役人が黒い布を外し、石棚に置いた朱の札に別の札を重ねている。名の札。
名の交換。
本来は、家督を渡すとき、病み床で祈りを受け渡すときにしか許されない儀だ。そこでは責任の重さごと名を渡す。——いま彼がしているのは、責任を札とともにどこかへ滑らせるための、名前の“交換もどき”。
第二紋が焼ける。焼ける熱は皮膚に出ない。出ないぶん、喉の紙片が端から焦げる。焦げた紙の匂いは、地下の湿りで強くなる。
凪雪が一歩進み出る。剣は帯びているが、鞘から一寸も出さない。白羽の刻のある袖口を静かに落として言う。
「三誓の第二を破った罪、重いぞ」
役人は笑った。笑うとき、頰の片側だけが上がる。上がり方が昨日よりも滑らかだ。昨夜の“形式だ”の言葉が、口の奥で発酵して甘くなっている。
「誓いなど形式。国を動かすのは数だ。春を一週間先に取れば、経済は回る。店も人も笑う。誰も困らない。——理屈では」
「誰も?」
綾女の口に出た声は自分でも驚くほど小さかった。小さいのに、奥へ落ちた。
孤児院の粥の椀。香りで食べる術。塩の輪郭を思い出せない舌で、温度と匂いで輪郭を作った朝。足りないものを足りないまま受け入れる学び。膝を折りながら、笑って食べる子どもの横顔。
足りなさは、悪じゃない。足りないことを足りないと言える場所を守るために、昨夜わたしたちは配をした。
それを踏み越えて「回る」と言い切る口。回る輪に、膝の高さの低い者の足が仕組まれていることを、意図的に見ない眼。
凪雪は剣を抜かない。代わりに、白羽を一枚指で摘んで、水面へ落とした。
羽根は沈まない。沈まず、地下水の薄い波の上でくるりと回って止まる。止まった位置が、拍の正しい間だ。羽根の周りで、水の音が書き直される。
地下水の音が正しいテンポへ戻る。壁の刻みが、いったん無音になり、また控えめに鳴り出す。
「春を急ぐ者よ、名を捨てるな。名を捨てた行いは、積もらない」
凪雪の声は、怒りを連れていない。連れていないから、地下の湿りが声に染み込まない。染み込まない声は、長く持つ。
役人は肩をすくめ、退くふりをして足を後ろに引き、そのまま縦穴へ導かれる速い雨の導管を踵で蹴った。
ひときわ高く、短い音。
導管が破裂し、眠っていた水が牙を剥いた。
地下水が暴れる。石積みの継ぎ目からあぶくが吹き、斜路の段の間に薄い渦がいくつも立つ。
哀しみが瓶の中の椅子から立ち上がり、怒りが膝を忘れて跳ねようとする。瓶が喉で咳をした。咳は暴走の前の合図だ。
「綾女」
凪雪の声だけが、細い橋のように一本渡された。
綾女は瓶を抱き締め、白羽栓に頬を当てる。頬の皮膚で震えの幅を測り、喉で数を作り、胸で歌を低く敷く。
——受けて、束ねて、寝かせる。
哀しみをまとめて寝かせ、怒りの肩へ薄い布をかけ、恐れの揺れを長くする。恥の乾きへちょっとだけ湿りを足す。
壁の刻みに指を当て、三行をなぞる。
「待て、巡れ、戻れ」
刻みの溝に指先の温が入り、石が呼吸の仕方を思い出す。
水は渦を描き、地の浅いところからまず回り、それから深いところで大きく円を描いた。円に吸い込まれた速い雨は、速度だけを残して形を失い、泡になって壁に沿って昇り、すぐにしぼんだ。
自壊。
人の手で作った早送りは、人の手で切れる。切るためには、拍が要る。拍を持つためには、誰かが待つ必要がある。
その合間に、役人の気配が斜路の影へ消える。逃げ足は早い。早い足は、名の位置に重さを残さない。
綾女の胸が、拍落ちの反動で痛む。痛みは短いが、骨の背で長く響く。膝がひとつ崩れ、視界の端の光が二重になった。
凪雪の腕が、崩れる前に綾女の肩を支えた。支えるだけで、引き上げない。引き上げない支え方は、回復の拍を奪わない。
「……よくやった」
言葉は短い。短いのに、地下の湿りの奥まで届いた。届いて、戻ってこない。戻ってこない言葉は、借り物ではない。
*
地上に戻ると、風が掲示板の紙を捲った。
紙の裏に、もう一つ署名がある。
表の署名は太政の名を借りたもの。裏の署名は、見たことのない名。二つの違う筆致。——二重署名。
紙の嘘は、もう露わになりつつあった。
紙の前の人だかりは、昨日までの怒り方と違う。声が高くならない。代わりに、目が一人分ずつ長く紙を見て、見たことを覚える気配がある。
老人が一歩前に出て、震える指で裏の名を指した。
「その名は、わしの友だちの名だ。……もう、二十年前に死んだ」
場の証言が、紙の嘘を崩し始める。
言葉は証拠ではないが、呼吸は証拠になる。呼吸の位置は、真似ができない。
篝が拓本を広げ、重なりを示す。朱の乾き方、筆の入りの角度、押印のときの指の高低。——灯の下での読み上げは、押印だ。押すのは手だけではない。声も押す。
役人隊が言い逃れようとするが、声が裏返る。裏返った声は、灯に弱い。弱い声が、場に二度、三度跳ね返って、すぐに沈む。
凪雪は剣を抜かず、暦盤の針のような声で短く告げた。
「二重印影、二重署名。——押すなら、灯の下で」
誰かが拍手をした。昨夜の拍手よりも乾いている。乾いた拍手は、怒りの拍手ではない。読む準備の拍手だ。
綾女は喉の奥で紙片が静かにほどけるのを感じた。ほどけた紙は、言葉になり、骨の近くで灯になる。灯は強くない。強くない灯ほど、長持ちする。
*
昼前、孤児院に寄ると、柚が樋の口を布で拭っていた。布はほとんど濡れていない。濡れていないのは、配が「ちょうどよかった」という証だ。
子どもたちは、朝の粥で余った香りを掌に乗せて、鼻の前で嗅いでいる。嗅ぎ方が昨日よりゆっくりだ。ゆっくり嗅ぐと、香りの順番が見える。順番が見えると、腹が静かになる。
綾女は椀を手伝いながら、地下で見た刻みを思い出した。削られた季節の線。飛ばされた節。飛ばされた節の上で滑る足。
足りないまま受け入れる、ということの硬さと柔らかさ。受け入れるのは諦めることではない。順番を守る方法だ。順番は拍。拍は、骨の仕事。
「顔色が悪い」
柚が短く言う。
「地下で、速い雨の穴を閉じました。……少し、拍が遅れて」
「遅れるのは、生きている証拠だよ」
柚の声は、いつも骨だ。
「戻る。戻す。戻せないときは、待つ。——待つのは仕事だ」
綾女はうなずいた。うなずくたびに、白羽栓の震えが胸でやわらぐ。
*
夕刻前、誓約庁の一室に戻ると、篝が新しい拓本を机に広げていた。
「例の役人、名の札を二重に使っていた。祖父の名と、上役の名。どちらも本人の呼吸がない」
凪雪が短く目を細める。
「名を奪わぬ誓い。——二つ、破った」
破ったのは、彼一人なのか、手の数はどれだけか。問いはすぐには答えが出ない。答えが出ない問いを灯の下へ置き、場の呼吸で読み上げる準備だけを進める。
綾女は瓶の肩に頬を寄せ、ゆっくり数えた。四、八、十二。
第三紋はまだ、時おり薄い痛みを差し込む。痛みは、方向の標識だ。痛みがなければ、速さに流される。流されるのは楽だ。楽は、悪ではない。
——けれど、春は急がない。
急がない春は、来る。必ず来る。来るから、待てる。待てるから、配れる。
「明日、禁区の上へ灯を持っていく。二頁三行は、こちらで用意する」
篝が帳面の端を叩いた。
「“形式ではない誓いの読み上げ”。……言葉は短く、恥は乾かし、拍は落ち着かせる」
「剣は不要だ」
凪雪が言う。
「羽根で十分」
綾女は白羽栓へ軽く口づけるように額を寄せた。羽根は軽いのに、持つのは重い。重みは、場のための重みだ。
地下で切った速い雨の残滓が、指の腹にまだ残っている。残っているのに、指は震えない。震えないのは、恐れが眠っているからだ。眠らせ方を覚えた。覚え方を忘れないように、今夜は長く眠る必要がある。
*
暮れかけの空に、薄い線がひとつ走った。禁区の上の黒い穴は、昨日よりわずかに小さい。小さいぶんだけ、周囲の雲がこちらを見ている。見ているだけで、寄っては来ない。寄せるのは明日の仕事だ。
掲示板の紙は、二重署名のまま、風で角をひらひらさせていた。角が、誰かの指で折られるのを待っている。折れば、折り目は灯の下でよく見える。
夜を前に、綾女は孤児院の庭へ立ち寄り、柚の木の下で軽く祈った。祈りは短い。短い祈りは、拍に寄り添う。
「——待て。巡れ。戻れ」
地下でなぞった三行を、今度は空へ向けて置く。
置いた言葉は風に薄く混じり、柚の葉の裏でいちど止まり、止まったまま、誰にも見つからない灯になった。
その灯が、明日の灯の下で、少しだけ強くなる。
強くなる灯は、強すぎない。強すぎない灯だけが、名を照らし、名を逃がさない。
夜は、急がない。
だから、眠りも、急がない。
綾女は瓶を抱き、四、八、十二。
胸の内の拍は、大きくも小さくもなく、ただ正しく、ほどけ、結ばれ、またほどける。
ほどけるたびに、世界は少しだけやさしくなり、結ばれるたびに、すこしだけ厳しくなる。
その間に、人は息をする。
息をするから、誓いは形式じゃない。
形式でない誓いは、破られたふりをしても、骨に残る。
骨に残ったものだけが、明日を立てる。
明日は、急がない。
だから、来る。必ず。