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10「配の地図」

 常世の朝は、はじめから夜の仕事の準備をしている。

 常夜灯の格子は二枚だけ消され、白布の間の奥――誓約庁の暦盤室には、昼の光が意図的に薄められて入っていた。眩しさは判断を鈍らせる。鈍らない程度の明るさが、ここには用意されている。


 床一面の地図。

 墨の海に、色を持たぬたくさんの線が走る。線は道であり、川であり、見えない境界の骨でもある。ところどころに置かれた雫型の駒は、樹脂に白羽の粉を微かに混ぜて作られていて、触れると軽い冷たさを返す。

 篝が帳面を開いた。筆の先を二度、静かに紙端で払う。払うその間に、室内の呼吸が揃っていく。


「優先順位一位。病院、井戸端、孤児院。二位。市場、工房」

「了解」


 凪雪が短く頷き、暦盤の前へ移動する。円環の盤面には三つの誓いの小さな刻印があり、内側の指針は春夏秋冬の境を、外側の指針は一夜の拍を示している。

「供給の合唱を始める」


 合唱と言っても歌はない。呼吸の高さとを合わせ、白羽糸を束ねた“見えない弦”の張りを、盤の上の指で調律する。凪雪が弦の位置に指先を滑らせるたび、部屋の空気の密度がほんのすこし上がったり下がったりする。

 綾女は、瓶の蓋を半分だけ緩めた。黒い瓶は昨夜からよく眠っており、哀しみは低い椅子で静かに座り、怒りはまだ微熱を残しながらも、跳ぶ前の膝を長く使っている。

 受けて、束ねて、寝かせる。

 今夜は、そこからもう一歩――「配る」。寝かせた束を、少量ずつ取り、地図上の雫の駒へ染み込ませる。束は水の落下角度を緩め、土の吸水力を高める。すなわち、濡れ方を“懇切”にする。乱暴に降らせないための、前処理だ。


「病院、中庭へ一点。……落下角度、四十五から三十二へ」


 凪雪が応じ、上空の白羽糸が見えないところでわずかにたわむ。暦盤の節が、金の細い針先のような光をひとつ鳴らし、「今夜この街が許容できる雨の拍」を示した。

 篝はそれを見届け、二頁三行の読み上げ文の端に小さな朱を打つ。朱は深く、乾くのが遅い。遅さは、灯の下で呼吸を残すための工夫だ。


「井戸端、二筋。孤児院、樋へ三分の一だけ漏斗」


 綾女は雫の駒を三つ、親指と人差し指で挟み、瓶から移した束を微量に含ませる。駒は色づかない。色づかないのに、冷えが指先へ伝わって、地図のその場所の土の姿勢が視界の端で変わる。

 市場は、天幕を湿らせる程度。工房は、火の仕事を妨げぬ程度。弦の張りと駒の冷えと、暦盤の針と――三つが合うと、部屋の床がすこしだけ呼吸を始める。呼吸する床は、不気味ではない。安心の音だ。


 地図の北縁に、禁区の刻みがある。墨は薄い。薄いけれど、ここにだけ「触れるな」という音が残っている。

 綾女が雫の駒を滑らせ、その端に差し掛かったとき、駒が二重の影を落とした。影は光のせいではない。駒自体に、わずかな、ずれが生じたのだ。ずれは、二重行政の干渉でよく起きる。


「停止」


 綾女が即座に声を落とす。瓶の蓋を閉じるほどではない。閉じれば、起き上がった椅子が倒れるだけだ。代わりに、瓶の内側で、今使わない束の寝床に重石を足す。

 篝は迷いなく別ルートの小旗を立てた。「裏路地配水」。

 裏路地へ水を誘導するのは、地図の上で簡単でも、場では難しい。けれど、ここには職人衆の臨時の樋がある。昨夜、丘の斜面に敷いたやり方を、今夜は裏路地に複製し、人の配慮で神の配当の隙を埋める。

 小旗の影は細く、頼りない。頼りないのに、そこだけ空気が温かい。温かいのは、人の手の温度が先に置かれているからだ。


「再開」


 凪雪の声が落ち着いている。白羽糸の張りが、禁区の縁を礼儀正しく避け、裏路地へゆるやかに折れた。

 やがて、雨は必要な場所にだけ濃く降り出す。

 市場の天幕は、軽く湿るだけで、商いの声は濡れない。

 病院の中庭は、音を立てない満水。浮かべた木枡が、看護師の手の甲で静かに震える。

 孤児院の屋根は、樋から三分の一だけ漏斗で桶へ導かれる。子どもたちの手は、桶の端に触れるだけで、口は開かない。招の夜の約束の続きが、配の夜にも守られる。

 広場の隅で、誰かが最初の拍手を始めた。拍手はすぐには増えない。増えないほうが、場が崩れない。やがて二人、三人。拍手が拍と一致したところで、綾女は瓶の肩を撫で、ひと息、長く吐いた。


 そのとき、戸口が荒く揺れた。

 配水局の役人が、役人隊を連れて乗り込んでくる。背筋は伸び、靴は泥を嫌い、衣の裾は乾いている。手に提げた朱印の紐は新しく、指の節は紙の粉を知らない。


「勝手な配水操作は規約違反だ」


 言葉は固い。固さのわりに呼吸が浅い。浅い呼吸は、灯の下で躓く。

 凪雪は静かに印璽を掲げた。常世側の押印。深い朱は、乾くのが遅い。遅さは、押した手の呼吸が紙に残るための時間だ。


「常世側の押印はここにある。そちらの朱印は色が浅い」


 篝が前に出て、拓本を広げた。紙を重ね、匁の等しい炭で擦り、印影の重なりを出す。二重印影は、軸の細工による偽造――密偵の報告のとおり、薄い輪郭が重なっている。

 人々のざわめきが変質する。戸惑いの音が、冷えに向かう。冷たい視線が、水の流れのように役人隊の背中へ沿っていく。沿っていく冷えは、恐ろしいものではない。場が自分の輪郭に戻るときの温度だ。


「印影に重なりがあるだけだ。正当な手続きにより――」


 役人はなおも強弁した。強弁の声の高さが、さっきより半音上がる。半音は、祓で落としたばかりの高さだ。戻してはいけない。

 綾女は、第二紋の疼きを言葉に変えた。言語化は、灯の下へ引き出す手段だ。


「あなた、名を二つ持っている。片方は祖父の名。筆跡は真似。……発音が、たまに、祖父のほうへ滑る」


 部屋の隅から、老人が立ち上がった。杖の先が床を一度だけ鳴らす。

「その名は、わしの友だちの名だ!」

 老人の手が震え、その震えが、不意に場の証言の骨になる。

 紙の嘘は、灯下の証言に弱い。嘘は、個人の呼吸を持たない。呼吸のない文字は、拓本で増えるほど薄くなる。薄さは、恥のためではなく、乾くためにある。乾いた恥は、風に弱い。


 役人の頬が、わずかに強張った。

 凪雪は追い打ちをしない。追い打ちの代わりに、暦盤の針へ指を戻し、拍を正しく下げる。場の怒りが跳ねないように、床の呼吸を厚くする。怒りは悪ではない。今夜の怒りは、配の拍に乗せて寝かせるべき怒りだ。

 役人隊は、うしろ足を先に動かした。退く、ではなく、退かざるを得ない歩幅。場は見ていた。見て、覚える。覚えたことは、次の灯下で読み上げられる。


      *


 配は続いた。

 暦盤室の床は、見えない海流のようにゆっくり動き、地図の雫は、その動きと呼応してわずかに冷えを増したり減らしたりする。

 孤児院の桶は、三分の一だけを満たし、余剰は裏庭の柚の木へ細く流れ込む。柚の木は、今日、葉の裏でだけ濡れて、表の光沢は乾いたままだ。葉の裏で濡れると、虫が迷う。迷う虫の通り道が変わる。小さな変化の積み重ねが、街の骨を支え直す。

 市場では、野菜の腰が一段持ち直し、干物の棚にはまだ布が掛けられたまま。工房では、炉の火が一度だけ小さくなり、その小ささが、熱の深さを変える。

 病院では、夜番の看護師が手を洗い、手拭いを一枚だけ余らせた。余った一枚は、明朝に病室の窓辺で乾く。その乾き方が、床の湿りの嘘を暴く。湿りの嘘は滑りだ。滑りは転ぶ。転べば、骨が折れる。骨は、折れる前に高い音を出す。高い音は、美しい。美しさに騙されないために、配はある。


 やがて、渇水区がひと山、息をついた。

 井戸の縁に座っていた者が立ち上がり、夜空を見上げ、片手を胸に当てた。「ありがとう」の拍は、言葉の前に来る。拍で礼を言えば、言葉が嘘をつかない。


 暦盤の針が、今夜の最後の細い刻みに触れる。

 綾女は、瓶の蓋をゆっくり閉めた。閉める音はしない。音がしない閉じ方を、瓶は覚えた。

 篝が「達成」と小さく記す。達成の文字は簡単だ。簡単な文字は、場を騙さない。


「……終わった」


 誰が言ったのか、分からない。分からないのに、室内の呼吸がいちどに緩んだ。緩んだ瞬間、第三紋の奥で、薄い鈴のような音が鳴る。

 空の禁区の穴だけは、まだ黒い。

 そこへ落ちる雨は、速すぎる。

 誰かが春を急がせている。

 綾女の胸が、ひと拍、遅れた。痛みは短い。短いのに、骨の棚で響く。響きの形で、方向が分かる。帝都の南――配水局の裏口の板札。その向こう、もっと向こう。年号と“技術的措置”の順番を入れ替えた紙の匂い。


 凪雪が、綾女の肩に手を置いた。

 置くだけ。押さない。

 その手の温度は、今夜の雨の温度より少しだけ低い。低い温度は、拍を落ち着かせる。


「配は成功だ」


「はい」


「禁区の穴は、明日の灯下で呼ぶ。——名を」


 呼ぶ、という言葉が、綾女の喉の紙片をやわらかく撫でた。紙片は、言葉になる寸前の柔らかさを持つ。柔らかい言葉は、骨に届く。届いた言葉は、眠りを呼ぶ。


      *


 暦盤室を出ると、街は想像よりも静かだった。

 静けさは、よく働いた夜の音だ。過剰な歓喜は、翌朝の拍を削る。今夜の拍は、削られていない。

 孤児院へ寄り道すると、柚が井戸の横で腕を組み、月の位置を測るみたいに顎を上げていた。綾女を見つけると、彼女は何も言わず、指で桶の水面を軽く揺らす。水面が輪を描き、その輪が樋の口まで届いて、そこで止まる。止まる場所が、今夜の“ちょうどよさ”だ。


「配は、うまくいったのね」


 綾女は、うなずいた。

 子どもたちはもう眠り、寝息の高さは昼より半音低い。半音低い眠りは、よく効く。

 柚がわざとらしく咳払いをして、ふと真顔になる。


「役人のこと、聞いたよ」


「灯の下で、拓本を見せました。名は、逃げませんでした」


「逃げない名だけが、明日に残る」


 柚の言葉は、いつも骨だ。骨に紙を貼るとき、紙が皺にならない。


      *


 常世へ戻る道で、風が一度だけ方向を変えた。

 変えた風の中に、濡れていない雨の匂いが混じる。降っているのに、誰も濡れていない――そんなおかしな匂い。

 白羽糸のどこか、見えない結び目のところで、誰かが速さを足している。足された速さは、鈍い者には心地よく、骨に拍を持つ者には薄く痛い。

 第三紋が、また、かすかに拍落ちをした。

 綾女は立ち止まり、四、八、十二。呼吸の棚へ戻す。


「明日、禁区の上に、灯を持っていきます」


 自分に言い聞かせるように呟くと、凪雪がゆっくり頷いた。


「灯の下で、読む。読むことで、押す。押すことで、配る。三つを外さない」


「——三誓を、守ったまま」


「うむ」


 短い言葉のあいだに、常夜灯の格子がひとつ増えた気配がした。

 眠りは、今夜もすぐには来ないかもしれない。来ない眠りは、悪い知らせと同じではない。

 配の地図は、床から胸へ畳み込まれた。畳まれた地図は、灯の下でふたたび開く。そのとき、名は逃げない。

 綾女は瓶を抱き直し、白羽栓の微かな振動に耳を傾けた。瓶の中で哀しみが静かに座り、怒りは膝を深く使い、恐れは長い揺れを保ち、恥は乾いて隅で光った。

 拍は、整っている。

 整った拍で、夜を越える。

 越えた夜だけが、朝を配れる。

 朝は、急がない。だから、必ず、来る。

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