1「贄の印、白い羽根」
井戸の蓋が鳴った。
乾いた風が路地の角を曲がり、干し魚の並ぶ縄を揺らし、湯屋の湯気をいっときだけ薄める。夕刻の帝都下町は、いつも同じ音を重ねては崩し、また同じ音を作り直している。子どもが笑う声、皿の触れ合う高い金属音、遠くの太鼓、誰かの小さなため息。重なるたびにうっすらと波打って、やがて夜に沈むはずの音だ。
綾女は古井戸の横で、桶の底を布で拭いていた。布は朝に干したが、乾いたはずの繊維が掌に少し湿り気を残す。井戸端はいつでも、季節と関係なく水の匂いがする。古い綿布の匂いと、土の匂いと、塩の匂い。
首筋が、ふっと熱を持った。自分の皮膚の下に、小さな火をともされたみたいに。
手を止め、一拍遅れて布を桶に置く。指先が勝手に首の後ろをさがり、触れた。
そこに、それはあった。薄い白の羽根の形をした痣。輪郭だけで、まるで誰かが絵筆で一度だけ撫でて、色を置くのをやめたみたいな、未完成の印。
古井戸の蓋が、もう一度鳴った。
「……出たのかい」
背後で声がして、綾女は肩をすくめる。振り向くと、孤児院の年寄りの柚が、壁に手をついて立っていた。腰は曲がっているが、眼は動物のように鋭い。長年の癖で、水場に近いときは息を浅くする。滑って転んだら骨が割れると知っているからだ。
綾女はうなずいた。
「はい。さっき」
「年に一度。季節の節が変わる合図だよ。……今年は、出る前に言ってくれればよかったのに」
「言わずとも、見えるでしょう?」
「見えないことにしてやれることもあるんだよ」
柚はそう言うと、濡れた桶の縁に指で線を引いた。指の跡の濃さで、水の量を測るのが癖になっている。
綾女は目を逸らした。痣の白は、彼女にとって、ただの模様ではない。じりじりと集まるように痛む、小さな拍の合図だった。
柚が低く唸る。
「常世に連れていかれる。昔からそう言う。昔話だと笑っても、連れていく駕籠は、笑わない」
柚の声の中に、自分の名前がないことが綾女には少し救いだった。柚はいつも「お前」「おまえさん」「あんた」と呼ぶ。名を呼ぶのは、最後のときだけだ。
綾女は口を開きかけ、やめる。たぶん、今、何を言っても正しくない。彼女は、水面に落ちた小石の輪のように、自分の内側で広がる熱を数えた。いち、に、さん。拍は波のようにゆっくりだが、確かに胸の奥と首筋を結んでいる。
「痛むのかい」
「……痛む、というより、鳴ってます」
「鳴る?」
「井戸の底で、誰かが指で石を叩いている感じ。遠いけど、こちらを呼んでいる」
「それは呼び水っていうのさ」
柚は笑わない声で言った。
孤児院の裏庭では、秋を早取りしたように、子どもたちが落ち葉を集めている。火を使うのは、誰か大人がそばにいるときだけ。綾女はまだ、火を任されない子の目を覚えている。泣いたときに、煮物の湯気を嗅がせると泣き止んだ子。
自分の胸の中の瓶のような場所に、そういう記憶が少しずつ溜まっている。ときどき熱くなり、ときどき冷えて、夜になると重みを増す瓶。
綾女は桶に残った水を半分捨て、背中のほうに視線を投げる。夕陽が、屋根の鉄の釘を赤く舐めている。薄い陽の色は、夏の終わりと同じ匂いがする。その色の中で、自分の影だけが濃い。
「柚さん。私、逃げません」
自分でも驚くほど、声は乾いていた。
柚は眉を上げ、舌打ちしそうな顔になって、結局しなかった。
「逃げないのかい」
「ええ」
「怖くない?」
「怖いです。ずっと」
正直に言うと、少しだけ痛みが薄れた気がした。
柚はしばらく黙って、井戸の蓋の端に指を置く。優しい音がする。木の端に、爪で軽く触れたときの音。
「お前さんの器は、祓って空にする器じゃない。溜めて、寝かせて、重さで静める器だ。……それは厄介でもあるけど、強くもある」
綾女はうなずく。自分の身体の中にある見えない棚に、怒りの粒や哀しみの小さな欠片が積もっていくのが、昔からわかっていた。誰かが泣いているとき、叱られているとき、病が歩いているとき、針の先ほどの粒が飛んできて、自分の皮膚の下に沈んでいく。
祓えば楽になるだろう。けれど、祓ってしまうと、残るのは空っぽの響きで、そこに風が吹き込むと音が大きくなる気がした。だから彼女は祓わない。集めて、束ねて、寝かせる。柚が教えた古い言葉を真似して、そうしてきた。
「……柚さん」
「なに」
「もし、私が行って、戻ってこられたら。井戸の釣瓶を新しくしましょう。もう、繋ぎの麻縄じゃ、怖いから」
「戻る支度を考えるのは、いいことだ」
柚はそのとき、初めて綾女の名を呼んだ。
「綾女」
音が、胸の奥の瓶に落ちた。名は、落ちると沈む。沈んだものは、簡単には腐らない。
その名をふたたび拾い上げるのは、たぶん、もっと後のことだ。
*
夜は、いつもより早く降りてきた。天の川はこの街からは見えないが、瓦の上を滑っていく風の筋が、やけにくっきり見える。
下町の角に、黒塗りの駕籠が止まった。提灯は吊らず、車軸に油を差した匂いだけが生々しい。
駕籠の脇に立つ男は、灰の着物に黒の羽織を重ね、胸には小さな銀の徽章を付けていた。禁裏詰めの神使にだけ許される印。表立って威嚇しないのに、通りの空気が半歩引く。
「綾女殿」
名を呼ばれ、心臓が一拍遅れる。神使の声は、乾いた紙を丁寧にめくるときの音に似ている。礼を尽くすこと自体が、命令になるような声。
綾女は柚の背で扉を閉める音を聞き、前に出た。小さな包みを持っている。布団針と、糸巻き。柚は「戻る支度」をさせてくれた。
神使は目を細め、顎をわずかに引く。
「召し出しの旨、伝えに参った。干ばつと疫を鎮めるため、白鴉の婚儀を再開せよとの御沙汰。器を呼べ、とのこと」
器。
綾女は、その言い方に反発を覚えたが、飲み込んだ。「器」であることは、ずっと前から、彼女自身が一番よく知っている。自分の中に棚があり、瓶があり、そこに人の残した温度が溜まるということを。
神使は駕籠の幕を上げ、そこに乗れ、と目で指した。彼の目は、綾女の首筋の白い羽根の形に一瞬だけ留まり、すぐに離れた。
綾女は乗った。揺れる座面に座り、膝の上の小包みを撫でる。床の畳は新しい匂いがして、綾女の指に絡む。
駕籠が動き出す。路地の石畳の段差が、肩の骨に細かく響く。子どもの頃、祭りの山車に触れたときの、胸が高鳴って落ち着かない感じに似ている。
幕の隙間から、街が斜めに流れていく。夜店の甘い匂い、煤けた軒、いまにも崩れそうな塀。手を伸ばせば掴めそうなものが、次々と遠ざかる。
綾女は自分の胸に問いかけた。
——本当に、行くの。
返ってきたのは、遠くの井戸を叩く音だった。優しく、しかし執拗に、一定の間で。
駕籠は橋に差し掛かる。下を流れる川は、今年は細い。水面は浅く、夜の光を押し返せない。欄干の木目が、風に触れて鳴る。
神使が駕籠を止めるよう合図した。前方の空気が、少しだけ変わったのだ。冷たく、澄んで、乾いているのに湿っている匂い。
雲が裂け、白銀の羽が、ひらりと落ちてきた。音はしないのに、確かに何かが地面に触れた気がした。
そこに、男がいた。
人の背丈を超えるほどの長身。髪は月の色、瞳は夜の深いところの色。甲冑は無骨で、飾りがない。胸に白羽の紋だけが浮いて、呼吸に合わせてごくわずかに上下する。
綾女は見た瞬間に思った。この人は、「怖い」だけの存在ではない、と。怖さが器の形をしているのではなく、器の底にすでに沈むものがあって、それを見えてしまった誰かが、怖いと名付けてしまっただけだ、と。
男はゆっくりと、綾女のほうを見た。視線は静かで、刺さらない。刺さらないのに、確実に届く。届いてから、遅れて重さを伝える視線。
「白鴉の神、凪雪」
神使が名を呼び、膝をつく。
男は神使を一度も見ず、綾女の首筋に浮かぶ白い羽根の痣を見た。
「呼ばれたのは私だが、決めるのはお前だ。契るか、帰るか」
声音は低く、橋の木目に吸われていく。
選択を奪わない言い方だった。綾女は、驚きと、それに続く解放のような痛みで、胸の内側が一度きゅっと縮むのを感じた。今まで、誰かが彼女に「選べ」と言ったことがあっただろうか。孤児院では、配膳の順番は年の小さい者からと決まっていたし、仕事もだいたい誰が何をするか決まっていた。決まりごとは人を安心させるが、選ぶ筋肉は育たない。
彼は、選べ、と言った。選んでいい、と言った。
そのこと自体が、少し泣きたいくらい嬉しかった。
「契れば、人は救えるの?」
綾女は自分に驚く。この問いは、子どものようにまっすぐだった。
凪雪はわずかに頬の筋肉を動かした。笑ったのかもしれない。彼の表情は、夜の水のように、あるようで、ない。
「うむ」
短く頷いたのち、続ける。
「ただし、条件がある」
「……条件」
「三つの誓いを守れるなら」
「三つ」
「嘘をつかぬ。名を奪わぬ。春を急がぬ」
凪雪の声が、ひとつひとつ、橋板の上に石を置くみたいに、ゆっくりと落ちる。
綾女は、その言葉が自分の中の瓶にどう響くかを確かめた。嘘をつかぬ——瓶の表面の泡が寝る。名を奪わぬ——底に沈んだ名の石が、ひとつずつ輪郭を取り戻す。春を急がぬ——棚の上に置いた未熟な果実に、手を伸ばしかけた手が止まる。
誓いは、彼女を窮屈にはしなかった。むしろ、自由にする種類の約束に思えた。自分の内側の拍と合う。自分の拍が、約束を必要としているのがわかる。
「橋の欄干をご覧」
凪雪が顎で示した。木の欄干に、白い羽根が三枚、突き立っていた。風に震え、同じようでいて、震え方が微妙に違う。
綾女は目で追う。ひとつは、短く、細かく震えて、すぐに収まる。ひとつは、長くゆっくり震えて、そのうち自分の影と同じ速度になる。もうひとつは、最初は動かず、やがて、遠くの太鼓に合わせたみたいに、深い間で震える。
胸の拍と、どれが合うか、身体が答える。綾女は自分の喉の奥を通る空気の速度を意識し、どこにも無理がない場所を探した。
——この拍だ。
彼女の眼は、三枚のうちの一枚に吸い寄せられた。もっとも地味な震え方をする、深い間の羽根。遠い太鼓の拍に似ている。
「あなたは」
綾女は問いを続けた。
「私を器として見るのではなく、拍の合う器として、見ているのですか」
自分でも、妙な問いだと思った。
凪雪は驚いたように、ほんの少しだけ目を見張り、それから、うなずいた。
「器であることは事実だ。だが器にも、調律がある。お前の拍は、いまこの国の歩幅に近い。だから呼ばれた。お前が、選べ」
選べ、とまた言う。繰り返して言う。
綾女は自分の中の声を一つひとつ拾って、布で拭くみたいに整えた。怖い。帰りたい。井戸の釣瓶を新しくしたい。子どもたちに香草の匂いを嗅がせたい。干ばつがこれ以上ひどくなると、孤児院の土がひび割れて、手のひらを怪我する。誰かが泣く。それを寝かせる場所が、自分の中にもう、足りない。
彼女は、選ぶべき方向を知っていた。
選ぶこと自体が、彼女の器の一部だ。逃げない、と昼間に言ったのは、虚勢ではない。首筋の熱が、嘘のつけない体温を守っている。
「……契ります」
綾女は言った。自分の声が、思っていたより低く、乾いていることに気づく。乾いているのに、どこか甘い。乾いた果実のような甘さ。
凪雪が手を差し出した。手の甲に薄い傷がいくつもある。剣の傷もあるが、それより古い、紙で切ったような細い傷が多い。おそらく、条文をめくるときに指先を酷使した人の傷だ。神であっても、紙で切れるのだと思うと、綾女は少し安心した。
自分の足で、一歩、前に出る。手を伸ばして、彼の掌に触れた。温度は、人の温度だった。
その瞬間、欄干の三枚の羽根が、同時にたわんだ。音はしないのに、橋板がわずかに響いた気がした。
橋の先に、門が開く。
空ではなく、夜の厚みの中に切れ目ができる。香の匂いが、薄く遠くから届く。新しい紙、洗った布、古い木、雨上がりの土。見たことのない町の匂いなのに、懐かしい。
常世の門だ、と誰かが囁いた。誰か——たぶん、自分の中にいる、子どもの頃からの、もう一人の自分。
「行こう」
凪雪が言い、歩き出す。神使は慌てて道を開け、駕籠は静かに後ずさった。
綾女は振り返らないと決めた。振り返らなければ、涙は出ない。涙は、歩幅を乱す。
門の向こうに足を入れる。地面は、少し柔らかい。水気はないのに、乾いていない土。白い石粉が靴底に付き、音を鈍らせる。
——ここが常世。
綾女は胸の中の瓶に耳を当てた。瓶は、静かだった。静かなのは、空っぽだからではない。満ちているのに、暴れていないからだ。たぶん、この国の拍が、瓶を眠らせてくれている。
*
門の内側の空は、夜と朝の間だった。色は薄く、どこまでも遠い。星は見えないが、灯りはある。灯りは、白くて、揺れている。常夜灯だ、と綾女は思う。
遠くで水の音がする。川ではなく、布を絞る音に似ている。空気が、洗い立ての布の匂いで満ちている。
凪雪は歩幅を綾女に合わせて歩く。甲冑の軋み音は少ない。歩き慣れている人の音。
道の縁に、低い社が並ぶ。ひとつひとつ、見たことのない文字で名が記され、前には小さな皿と紙が置かれている。紙には、人の字で何かが書かれている。
綾女は立ち止まり、読んだ。
——「待ちます」。
——「待てます」。
——「待ちたい」。
文字は、どれも短い。短いのに、重い。「待つ」という言葉は、書いてあるだけで重さが出る。書いた人の肩の荷が、紙に移ったのがわかる。
凪雪が立ち止まった綾女を振り返る。
「読めるか」
「はい。わかります。どれも、よくわかります」
綾女は自分が微笑んでいるのに気づいた。笑うのは、ここ数日、あまりなかった。笑うのは、瓶に空気を入れる行為で、寝かせるには邪魔だと思っていた。けれど、いまは違う。笑うこともまた、瓶の仕事だ。
社の脇に、細い棚があり、そこに小さな瓶がいくつも並んでいた。瓶は透明で、蓋は白い。中には何も入っていないように見える。
綾女の指先が勝手に伸びた。一本の瓶を持ち上げると、瓶が、かすかに震えた。震えは音にはならず、掌の皮膚の裏でだけ鳴った。
「それは『穢れ瓶』だ」
凪雪が言った。
「お前の器に入りきらぬ分を、一時預ける。だが瓶は、強い感情に共鳴しやすい。扱いには段取りがいる。段取りを、手順に変えるのは私の役だ」
「段取りを、手順に」
「そうだ」
綾女は瓶を棚に戻し、白い蓋に軽く触れた。指先に伝わる、薄い凹凸。蓋の縁に、白羽の小さな刻印がある。
道の先に、ひときわ高い建物が見えた。門楼。白い石で作られ、上に円い板が乗っている。その板が、ゆっくりと回っているのがわかる。
凪雪は、門楼のほうには向かわず、別の方角へ折れた。
そこに、白い布で仕立てられた小さな間があった。四隅に柱が立ち、天井は低い。空気は冷たく、澄んでいる。
凪雪は靴の砂を払ってから、戸口で一礼し、綾女に目で合図した。
「誓約の間だ」
綾女は息を吸い、吐いた。
間に入ると、香の匂いが濃くなった。嫌な香りではない。古い紙が日向に干された匂いと、雨上がりの土の匂いと、絹の衣の匂いが混じっている。
中央に、白布を掛けた台があり、その上に、白羽の束と、黒い小瓶がひとつ置かれている。瓶は、先程の棚のものより少しだけ大きい。黒いのは、光を入れないためだろう。
凪雪は台の前に立ち、綾女の前に振り向いた。
「誓いは三つ。嘘をつかぬ。名を奪わぬ。春を急がぬ。お前は、守れるか」
綾女は、守れるか、と問われたことに、また胸が少し温かくなるのを感じた。問うてくれる人は、責める人ではない。問うてくれる人は、同じ重さを持っている人だ。
守る、と言う前に、一つだけ確かめたくなった。
「春を急がぬ、は……」
「季節配当の節だ。待てば、美しく巡る。待たねば、骨が折れる」
「私、待つのは、得意だと思います」
「得意なことを、誓いにしていい」
凪雪は白羽を一本取り、綾女の左の掌に置いた。羽は、温かかった。身体より、ほんの少しだけ温かい。羽の軸が、皮膚を押し、皮膚の下に沈んだ。痛みは、針先ほど。
二本目の羽は、鎖骨の、心臓に近い場所に。三本目は、首筋の白い痣の、中心に。
刺された場所が、順に、ゆっくりと明るくなり、その明かりが、部屋の明るさではなく、体内の明るさであるのがわかる。
綾女の耳は、遠くの音を拾い始めた。市場の呼び声、紙をめくる音、雨雲がゆっくりと重なる音。音は混ざらず、層になって聞こえる。
凪雪は黒い小瓶を持ち上げ、綾女の目の前に差し出した。
「穢れ瓶。お前の器が、これを必要とするときが来るだろう。だが、瓶は危うい。怒りと強く結ぶ。哀しみとは、静かに結ぶ。恐れとは、揺れて結ぶ。恥とは、乾いて離れる。——扱いは、これから教える」
「はい」
綾女は自分の声が、いつもよりもしっかりしているのに気づいた。
凪雪は盃を二つ取り出し、台の端で軽く触れ合わせた。薄い音が、白い布の間に吸い込まれる。
「常世と現世の水を混ぜた薄い酒だ。儀の後、お前は私の名の一部を返す。私は、お前の名の一部を返す。名を奪わぬために、名を分かち合う」
「名を、分かち合う」
「うむ」
盃の酒は、香は強くないが、舌の上で温度の輪郭がはっきりしている。綾女は一口だけ飲む。凪雪も飲む。
凪雪は「雪」の音を、お前に返す、と言った。綾女は、自分の名の「綾」の字を、彼に返した。
名が動いた瞬間、部屋の空気が一瞬だけ澄んだ。澄んだのは、誰かが窓を開けたからではなく、部屋にいた「嘘」が一度だけ息を止めたからだ。
凪雪は白羽を盃の縁に立て、綾女の額に軽く当てた。
「よくやった」
言葉は短く、過不足がない。短い言葉は、長い言葉の代わりをしない。短い言葉は、短い言葉でしか届かない。
綾女は、胸の中で、昼間柚が呼んだ自分の名を、もう一度拾い上げた。瓶の底で、名が、沈んでいる。
「戻れるでしょうか」
思わず出た問いだった。
凪雪は、少し考えるふうの間を挟んでから、言った。
「戻る道を、最初に作る者が、戻れる。お前は、戻る支度をしてきた。釣瓶のことまで考えている」
「見えましたか」
「見えた」
恥ずかしくて、綾女は笑った。笑うと、目尻に小さな皺が寄る。その皺に、これまでに寝かせてきた哀しみが薄く染みて、目が少しだけ温かくなる。
そのとき、外で、小さな気配がした。
凪雪が目だけで振り向く。戸口の陰に、白い衣に黒い帯の、細身の男が立っていた。顔の半分は影になっている。
記録係の神使、篝だと、綾女は直感した。紙の匂いがするからだ。
「式は、無事」
篝は言った。声は高くも低くもない。水の面に落ちた小石が作る波の、最初の輪のような声。
彼の手に、薄い帳面がある。帳面の端に、見覚えのある印が押されていた。印は、二重にぶれている。
「……印が、揺れています」
綾女が言うと、篝は目を細めた。
「見えるのか」
「いえ、見える、というより、首が……」
綾女は首筋を押さえた。白い羽根の痣の中心が、針で軽くつつかれたように疼く。
「名を偽ると、痛むのです。まだ、ほんの少しですが」
「なるほど」
篝は、納得したようにうなずいた。
凪雪は、その様子を横目で見て、短く言った。
「行こう」
綾女はうなずき、白羽の栓が嵌まった黒い小瓶を、両手で受け取った。瓶は軽い。軽いのに、責任の重さがある。
誓約の間を出ると、外の空気は、もう夜の色ではなかった。夜の色と朝の色の間。いつか見た、雨上がりの朝の井戸端の匂い。
門楼のほうから、低い拍が聞こえる。拍は二拍三連。心臓の音ではない。町の心臓の音だ。
橋はそのまま、そこにあった。欄干の羽根は、もう突き立ってはいなかったが、風に混じって、白い羽根の粉が、かすかに舞っていた。
柚の顔は見えない。孤児院の扉も、見えない。見えないほうが、いまはいい。見たら、戻りたくなる。戻りたい気持ちを、瓶に入れるには、まだ早い。
綾女は一歩、外へ出た。足音は、思ったよりも軽かった。軽いのは、重さを捨てたからではない。重さの置き場が、増えたからだ。
*
門の縁に立って、綾女はもう一度だけ、振り向かずに、下町の方向へ向かって、息を吐いた。吐いた息が、白い羽根の粉をすこしだけ揺らし、粉は、朝日の気配の中で、目に見えない高さまで上がり、消えた。
彼女は心の中で、短く言った。
——必ず、戻る。
言い切ることは、祈りと似ている。祈りは、誰かに向けられるだけではなく、未来の自分に向けられるものだ。
凪雪は横で、何も言わない。言わないことが、言葉よりもずっと大きな肯定になることを、綾女はまだ知らない。
常世の朝が、静かに開いた。
拍は、歩幅に合わせて、少しずつ速くなり、しかし、決して急ぎはしない。春を急がぬ、という誓いが、もう、彼女の骨の中にしみ込んでいる。
これから始まる長い歩きの、最初の一歩が、いま確かに、音になった。