第9章 氷の皇子の決断と共犯者の選択
毒を盛られたメイドが苦しみに顔を歪ませて倒れ込んだ瞬間、会場の熱狂は凍りついた。セドリック殿下の演説は中断され、人々は呆然と立ち尽くしている。私の視界の隅で、リリアーナ嬢が膝から崩れ落ちるのが見えた。彼女の透き通るような青い瞳には、恐怖と困惑、そしてかすかな痛みの色が浮かんでいた。
「リリアーナ!」
アルバート殿下が、セドリック殿下を睨みつけ、彼女のもとへと駆け寄る。彼の顔には、怒り、そして絶望の色が浮かんでいた。彼は、自分の愛する人が、目の前で苦しんでいることに、ただただ絶望しているようだった。
(なぜ…!? こんな展開、脚本にはなかった…!)
私の頭の中は、再び混乱に陥った。私たちの計画では、毒を盛られるのは、アルバート殿下の支持者の一人、オルコット公爵夫人のはずだった。彼女に毒を盛り、その混乱に乗じて、ルドルフ殿下の死の真実を公にすることで、アルバート殿下を追い詰める。それが、私とセドリック殿下が練り上げた完璧な**『脚本』**だった。
しかし、毒は別の人物に盛られ、しかも、リリアーナ嬢まで巻き込んでしまった。これは、単なるアクシデントではない。私たちの計画を、誰かが、そして何かが、狂わせようとしている。
セドリック殿下は、舞台の壇上から、冷静に状況を見つめていた。彼の表情には、一切の動揺がない。まるで、この事態すら、すでに予測していたかのようだ。
「衛生兵! 至急、衛生兵を!」
私は、冷静さを装いながら、大きな声で叫んだ。この混乱の中で、私が最も早く行動を起こすことで、この場を支配しなければならない。私は、倒れたメイドに駆け寄り、彼女の顔を覗き込んだ。彼女の唇は、不気味な紫色に変色している。
「…青色草の毒。これほどの量が使われるとは…」
私は、メイドの口元から漂う、独特の甘い匂いで、毒の種類を即座に判断した。それは、この国では流通が厳しく制限されている、非常に強力な毒だ。解毒には、非常に稀少な薬草が必要となる。
「エレーナ様、彼女は…!?」
リリアーナ嬢が、恐怖に震える声で尋ねた。彼女の足元は、毒入りのグラスの中身で濡れている。彼女は、痛みに顔を歪ませながらも、倒れたメイドの安否を気遣っていた。
「大丈夫ですわ、リリアーナ嬢。わたくしが、すぐに解毒薬を…」
そう言って、私は懐から小さな小瓶を取り出した。そこには、私がルドルフ殿下の資料を研究する中で、予期せぬ事態に備えて調合していた、解毒剤が入っている。この毒が使われる可能性を、セドリック殿下と議論したことがあった。彼は、この国で最も危険な毒物であり、よほどのことがなければ使われないだろうと冷静に分析していたが、万が一に備えて、私が事前に調合しておいたのだ。
しかし、私が小瓶を取り出した瞬間、リリアーナ嬢が悲鳴を上げた。
「エレーナ様! おやめください!」
彼女の声に、私は驚いて顔を上げた。リリアーナ嬢は、私の手元にある小瓶を見て、恐怖に顔を歪ませていた。彼女は、私がこの事件の「犯人」であると疑っているようだった。
「リリアーナ…? 何を言っているんだ!」
アルバート殿下が、彼女を抱きかかえながら、私を睨みつけた。彼の瞳には、憎悪と、そしてわずかな失望の色が浮かんでいた。彼は、私がこの事件の「真の悪役」だと、確信したようだった。
「殿下…! あの方が、毒を持っていらっしゃいます! もしかして、この毒は…!」
リリアーナ嬢は、恐怖に震えながら、アルバート殿下にそう訴えた。その言葉は、まるで鋭い刃のように、会場中に突き刺さった。人々の視線は、再び私に集中する。それは、好奇の目ではなく、明確な敵意と、恐怖の視線だった。
(しまった…! 解毒剤を持っていたことで、私が犯人だと疑われてしまった…!)
私の心臓は、警鐘のようにけたたましく鳴り響いた。私は、自分の「ポンコツ」な性格が、最悪の形で裏目に出てしまったことを悟った。私は、言葉を失い、ただその場で立ち尽くすことしかできなかった。
「兄上。落ち着いてください」
その時、セドリック殿下が静かに壇上から降りてきた。彼は、私とリリアーナ嬢の間に立つと、その圧倒的な存在感で、会場の空気を一変させた。彼の瞳は、氷のように冷たく、しかし、その奥に潜む強い光が、私の心に希望の光を灯した。
「エレーナ嬢は、予期せぬ事態に備えて、解毒剤を携行していただけだ。毒を盛ったのは、彼女ではない。そして、その犯人は…」
セドリック殿下は、そう言って、会場の奥に立つ一人の貴族に視線を向けた。それは、アルバート殿下の最も忠実な支持者の一人、オルコット公爵だった。彼の顔は、見る見るうちに青ざめていった。
「セドリック殿下…何を根拠に…!?」
オルコット公爵が、動揺を隠せない様子でそう叫んだ。
「証拠は、すでに手元にある。この夜会が始まる前、あなたは、メイドの一人に、毒を盛るよう指示していた。そのメイドは、すでに拘束している」
セドリック殿下の言葉に、オルコット公爵は言葉を失った。彼の顔には、敗北の色が濃く浮かんでいた。
「…なぜだ…オルコット公爵…!」
アルバート殿下が、絶望に満ちた声でそう呟いた。
「アルバート殿下! これは、あなた様をお守りするためです! セドリック殿下は、この場であなた様の地位を奪うつもりでした…! だから、私は、彼が用意した『毒』を…」
オルコット公爵は、そう言って、私を指差した。
「…あなたが、殿下を嵌めるための『毒』を、私たちに渡したのだと…!?」
私の頭の中で、すべての点と点が繋がった。オルコット公爵は、私たちの計画をどこからか聞きつけ、私たちの「脚本」を逆手に取ったのだ。彼は、私たちを毒殺未遂の犯人に仕立て上げ、アルバート殿下の支持を固めようとした。しかし、彼が毒を盛るよう指示したメイドは、私たち側が事前に買収していた人間だった。だから、彼女は毒を盛るタイミングを誤り、計画が狂ったのだ。
(そうか…私たちは、オルコット公爵に、そして、彼を操っていた見えない黒幕に、利用されていたんだ…!)
私は、この国には、私たちが知るよりも、はるかに深い闇が潜んでいることを悟った。それは、ルドルフ殿下の死を巡る陰謀だけではない。この国の王位をめぐる権力闘争は、私たちが想像していたよりも、ずっと複雑で、危険なものだった。
「セドリック殿下…! オルコット公爵を…!」
アルバート殿下が、憤慨した様子で叫んだ。彼は、自分の支持者に裏切られたことに、怒りを通り越して、絶望を感じているようだった。
「兄上。この事件は、単なる裏切りではない。この国の王位をめぐる、血と欲望の歴史が、今、再び繰り返されようとしているのだ」
セドリック殿下は、そう言って、再び壇上へと歩みを進めた。彼の瞳は、先ほどよりもさらに強く、光を放っていた。そして、彼は、ルドルフ殿下の遺した書物を掲げ、会場に集まった貴族たちに語りかけた。
「我が兄、ルドルフは、この国の腐敗を正そうとした。だが、その理想は、闇に葬られた。それは、一部の貴族たちの私利私欲のためだ。彼らは、兄の死を『病死』と偽り、この国の歴史を書き換えた。だが、真実は、ここに記されている!」
セドリック殿下の声は、会場全体に響き渡り、貴族たちは、息をのんで彼の言葉に耳を傾けていた。そして、彼は、ルドルフ殿下の死の真相を、そして、その背後に隠された汚職事件の全貌を、次々と明らかにした。彼の言葉は、貴族たちの心を揺さぶり、彼らの顔は、見る見るうちに青ざめていった。
(よし…! この調子で、アルバート殿下の虚像を打ち砕く…!)
私の心は高揚していた。これは、私たちの計画通りだ。オルコット公爵の裏切りは、私たちの計画を狂わせたが、同時に、セドリック殿下がルドルフ殿下の死の真実を公にするための、完璧な舞台を作り上げてくれた。私たちは、この状況を最大限に利用しなければならない。
しかし、その時だった。私の背後に立つリリアーナ嬢が、突然、小さな呻き声を上げた。
「エレーナ…様…! 体が…熱い…」
彼女の顔は、苦痛に歪んでいた。彼女の足元には、先ほど毒入りのグラスの中身がこぼれたままになっている。
(まさか…!?)
私は、ぞっとした。青色草の毒は、肌に触れただけでも、軽度の火傷と、発熱を引き起こす。彼女は、毒に直接触れたわけではない。しかし、彼女の足元のドレスの裾が、毒に触れてしまっていた。
「リリアーナ嬢! 大丈夫ですわ! すぐに…!」
私は、彼女に駆け寄ろうとした。しかし、私の手首を掴んだのは、セドリック殿下だった。彼の瞳は、私を射抜くように見つめ、静かに首を振った。
「…待て、エレーナ。彼女を助けるな」
彼の言葉は、まるで氷のように冷たく、私の心臓を強く締め付けた。
「なぜ…!? 彼女は、毒に…!」
「…そうだ。彼女は、毒に侵されている。だが、ここで貴女が彼女を助ければ、貴女の『脚本』は破綻する」
セドリック殿下の言葉に、私の頭は混乱した。
「…どういうことですの?」
「彼女は、兄上の弱点だ。ここで彼女を助ければ、兄上は貴女に恩義を感じ、彼女を失う恐怖から、この国の真実から目を背けるだろう。それでは、私たちの計画は成功しない」
彼の言葉は、あまりにも残酷だった。彼は、私の「脚本」の完成を優先し、リリアーナ嬢の命を見殺しにしようとしている。
「…しかし…!」
私は、リリアーナ嬢の苦しむ姿を、ただ見ていることなどできなかった。彼女は、この国の闇に全く関係のない、純粋な存在だ。彼女を、この汚れた物語に巻き込むわけにはいかない。
「エレーナ嬢。これは、貴女の『自由』のための、最後の試練だ。貴女は、自分の目的のために、目の前の人間を見捨てる『悪役令嬢』を演じ切れるか? それとも…ただの『優しい公爵令嬢』に戻るか?」
セドリック殿下の言葉は、私に、残酷な選択を迫っていた。私は、自分の「自由」のために、リリアーナ嬢を見捨てるのか? それとも、彼女を救うために、この「脚本」を破り捨てるのか?
その時、私の脳裏に、ルドルフ殿下の遺した書物の記述が甦った。
『この国を変えるには、犠牲が必要だ。だが、その犠牲の上に築かれた理想は、決して本物ではない』
ルドルフ殿下は、腐敗した王家を正そうとしたが、そのために誰かを犠牲にすることを拒んだ。だから、彼は暗殺されたのだ。セドリック殿下は、兄の遺志を継ぐために、兄が成し遂げられなかったことを、どんな犠牲を払ってでも成し遂げようとしている。
しかし、私は、ルドルフ殿下の言葉に、別の意味を見出した。真の革命とは、誰かを犠牲にするのではなく、皆を救うことだ。
私は、セドリック殿下の手を振り払った。そして、リリアーナ嬢のもとへと駆け寄った。
「…わたくしは、自分の**『脚本家』**としての信念に従います」
私は、セドリック殿下にそう告げた。彼の瞳には、一瞬、驚きと困惑の色が浮かんだ。しかし、彼はすぐに無表情に戻り、私を静かに見つめていた。
「リリアーナ嬢。わたくしが、あなた様を助けますわ」
私は、リリアーナ嬢の額に手を当て、彼女の熱を確かめた。そして、懐から解毒剤の小瓶を取り出し、彼女の口元へと運んだ。
「エレーナ様…?」
リリアーナ嬢は、困惑した表情を浮かべていた。彼女は、私が「犯人」であると疑っていたはずだ。しかし、私は、彼女に微笑みかけた。
「大丈夫ですわ。わたくしは、あなた様を裏切りません。この国の闇を、一緒に暴きましょう」
私の言葉に、彼女の瞳が、かすかに揺れた。
「…何を言っているんだ! やめろ、エレーナ!」
アルバート殿下が、私の行動に激昂し、叫んだ。彼は、私が彼女に毒を盛ろうとしていると、まだ信じているようだった。
その時、セドリック殿下が、静かに声を上げた。
「兄上。エレーナ嬢は、貴女の命を救おうとしている。そして、彼女は、兄上を裏切った貴族たちの真実を、この場で明らかにするだろう」
セドリック殿下は、そう言って、私に視線を向けた。彼の瞳には、怒りや失望の色はなかった。そこには、私の「脚本家」としての選択を、尊重する光が宿っていた。
(ありがとう、セドリック殿下…!)
私は、心の中で感謝を伝えた。彼は、私が彼とは違う道を選んだことを、理解してくれたのだ。そして、彼は、私の選択を尊重し、私の「脚本」を新たな方向へと導いてくれた。
私は、リリアーナ嬢に解毒剤を飲ませた。彼女の顔の苦痛が、少しずつ和らいでいく。そして、私は、立ち上がった。会場の貴族たちは、私とセドリック殿下、そしてアルバート殿下の三角関係に、ただただ息をのんで見守っている。
「皆様。わたくしは、アルバート殿下を裏切った、悪役令嬢ではありません」
私は、静かに、しかし、はっきりとそう告げた。その言葉は、まるで夜空を切り裂く雷のように、会場全体に響き渡った。
「わたくしは、この国の真実を、皆様にお伝えするために、セドリック殿下と協力し、この『舞台』を準備しました。そして、今、この舞台の真の『主役』は、皆様自身です」
私の言葉に、貴族たちは困惑した。彼らは、私が何を言いたいのか、理解できなかった。
「この国の王座を狙う、見えない黒幕がいます。その者は、ルドルフ殿下の死を隠蔽し、アルバゾト殿下を操り、そして、今、私たちの計画を邪魔しようと、毒を盛りました。しかし、その毒は、私たちではなく、アルバート殿下を真に愛する、リリアーナ嬢に、向けられたのです」
私の言葉に、リリアーナ嬢は、はっと顔を上げた。そして、アルバート殿下の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「…まさか…オルコット公爵…! 貴様…!」
アルバート殿下は、オルコット公爵を睨みつけた。彼の顔には、怒り、そして、自分が操られていたことへの、深い絶望の色が浮かんでいた。
私は、静かに微笑んだ。それは、完璧な悪役令嬢の笑みではない。それは、自分の「脚本」を信じ、この国の未来を賭けた、一人の脚本家の、揺るぎない決意の笑みだった。
「さあ、アルバート殿下。真実の舞台の幕は、今、開けました。あなたの**『物語』**を、ご自身の言葉で語ってくださいまし」
私の言葉に、アルバート殿下は、セドリック殿下を、そして、リリアーナ嬢を、そして、私を、見つめた。彼の瞳には、もはや憎しみや嫉妬の色はなかった。そこには、深い悲しみと、そして、かすかな、しかし確かな、未来への希望が宿っていた。
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