第8章 革命前夜の共犯者たち
ルドルフ殿下の死の真実を知った私は、セドリック殿下の言葉通り、この国の未来を書き換える**「脚本」**の執筆に取りかかった。それは、ただの物語ではない。王政の腐敗を暴き、アルバート殿下の虚像を打ち砕くための、綿密な計画書だった。書斎の暖炉では、薪がパチパチと音を立てて燃えている。その炎の揺らめきが、私の書く文字をまるで血のように赤く染め上げた。
セドリック殿下は、私の書斎に、ルドルフ殿下が密かに集めていた資料や、彼の活動を支えていた協力者たちのリストを運び込んだ。分厚い紙束からは、古びたインクと、時を超えた真実の重みが漂ってくる。その中には、王都の貧しい地区で診療所を運営していた医師、孤児院を支援していた商人、そして、王室警護隊の分隊長を務める騎士など、意外な人物の名が連なっていた。ルドルフ殿下は、貴族社会の枠を超え、市井の人々と深く関わりながら、国を変えようとしていたのだ。彼の理想は、私が前世で知っていた、この世界のどんな物語の主人公よりも、よほど高潔で美しいものだった。
「ルドルフ殿下の『死』は、王家にとって都合が悪い。ですが、彼が市民から慕われていた事実を公にすれば、アルバート殿下の甘い統治が、いかに上辺だけのものか、白日の下に晒されるでしょう」
私は、セドリック殿下の前で、書斎の大きな地図に、協力者たちの拠点を赤い線で繋いでいった。それは、まるで新たな王国の地図を描くかのようだった。私のペン先が触れるたびに、地図の上の王都が、血の通った生き物のように見えてくる。私の言葉に、セドリック殿下は静かに頷いた。彼の瞳には、かつてないほど強い光が宿っていた。それは、兄の遺志を継ぐ者の、揺るぎない決意の光だった。
「そのための**『舞台』**は、もう準備できている。次なるは、兄上の誕生日の記念式典だ」
セドリック殿下の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。それは、王族や有力貴族が一堂に会する、一年で最も重要な行事だ。その場で真実を公にすれば、この国に計り知れない衝撃を与えるだろう。それは、アルバート殿下にとって、もはや敗北を意味する。
(…本当に、これでいいの?)
私の心に、ふと迷いが生まれた。これまで、私は自分の「自由」のために、悪役令嬢を演じ、アルバート殿下を断罪することを望んできた。しかし、今、私が書いている脚本は、一人の人間を、彼の愛する人の前で、完全に打ちのめす物語だ。
リリアーナ嬢のことだ。彼女は、この王宮の闇を何も知らず、ただ純粋にアルバート殿下を愛している。もし、私たちが真実を公にすれば、彼女の愛する人は、地位も名誉もすべて失うことになる。彼女の純粋な瞳に、悲しみの影が差すことを想像すると、私の心はチクリと痛んだ。
「セドリック殿下…リリアーナ嬢には、この計画のことを話すべきではないでしょうか?」
私は、書斎の窓から見える、王宮の庭園でアルバート殿下と談笑するリリアーナ嬢の姿を見て、静かに問いかけた。庭園には、彼女のシンボルである白い薔薇が咲き誇っていた。その可憐な姿が、私の心をさらにざわつかせる。
「…必要はない。彼女は、この国の真実を知るには、あまりにも純粋すぎる。彼女の知性は、この腐敗した貴族社会の裏側を理解するには、あまりにも無垢だ」
セドリック殿下は、冷たい声でそう告げた。彼の言葉は、リリアーナ嬢への侮蔑ではなく、むしろ、彼女の純粋さを守ろうとする、ある種の優しさのように感じられた。彼は、彼女を傷つけたくないのかもしれない。
(そう…彼女は、この物語の**『ヒロイン』**であり続けるべきなのね。決して、この汚れた舞台の『共犯者』にはならない…)
私は、リリアーナ嬢の役割を再認識した。彼女は、私たちの計画の**「観客」**であり、同時に、アルバート殿下の唯一の心の支えだ。彼女の存在は、アルバート殿下を甘くし、判断を鈍らせる。そして、その鈍りが、私たちの計画を成功へと導く鍵となる。
そして、記念式典の日がやってきた。会場は、第一章の舞踏会よりも、さらに豪華絢爛な装飾が施されていた。天井には、いくつもの巨大なシャンデリアが吊るされ、その光は、床に敷き詰められた大理石に反射し、眩いばかりに輝いていた。私は、セドリック殿下にエスコートされ、会場へと足を踏み入れた。今度は、派手なフリルやレースのドレスではなく、洗練された深い青色のシンプルなドレスを身につけていた。それは、セドリック殿下が私のために選んでくれたものだ。
私の登場に、会場は再び静まり返った。人々の視線は、もはや私を「哀れな元婚約者」として見るものではなかった。そこには、畏怖と、そして期待が混じり合っていた。彼らは、これから始まる「脚本」の、最初の言葉を待っているのだ。
「エレーナ嬢…今度は、どのような道化を演じるつもりだ?」
アルバート殿下が、私に近づいてきて、冷たい声でそう呟いた。彼の瞳には、以前のような焦りだけでなく、私への明らかな憎悪が宿っていた。
(…ごめんなさい、殿下。あなたを本当に悪役として憎めたら、どれほど楽だったか)
私は心の中で謝罪した。しかし、悪役令嬢としての仮面は、もう私の一部となっていた。私は、静かに微笑んだ。
「あら、道化を演じるのは、わたくしではありませんわ。殿下。真実の舞台の幕が、今、開けようとしていますのよ」
私は、静かに微笑んだ。その言葉は、アルバート殿下を激昂させ、彼はその場で声を荒げた。
「何を言っている! 貴様、いい加減に…!」
「静粛に、兄上」
その時、セドリック殿下が静かに声を上げた。彼の声は、会場全体に響き渡り、アルバート殿下の言葉をかき消した。
「本日、私は、この国の未来のために、貴族の皆様にお伝えしなければならないことがあります」
セドリック殿下は、そう言って、壇上へと歩みを進めた。彼は、その手元に、ルドルフ殿下の遺した書物を抱えていた。会場の貴族たちは、息をのんで彼の言葉を待った。
(さあ、セドリック殿下。あなたの**『主人公』**としての舞台の始まりよ…!)
私は、心の中で叫んだ。そして、セドリック殿下の、この国の未来を賭けた**「演説」**が、静かに始まった。
「この国には、隠蔽された歴史がある。病死とされた第二皇子、ルドルフ殿下の死の真実だ。彼は…この国の腐敗を正そうとし、そのために…」
セドリック殿下の言葉は、まるで鋭い刃のように、貴族たちの心を切り裂いていった。彼の言葉に、貴族たちは動揺し、ざわめきが起こる。アルバート殿下の顔は、見る見るうちに青ざめていった。
そして、その時だった。会場の奥、給仕用のテーブルから、一人のメイドが、悲鳴を上げて倒れた。彼女の手元には、毒が盛られたグラスが転がっている。周囲のメイドたちが、彼女に駆け寄った。
「いったい、何が…!?」
私の頭が、混乱に陥った。これは、私たちの計画にはなかったことだ。毒を盛られたのは、別の人物のはずだった。私たちの「脚本」を、誰かが、そして何かが、狂わせようとしている。その瞬間、私の視界の隅で、リリアーナ嬢が、給仕用のテーブルのそばに立ち尽くしているのが見えた。彼女の透き通るような青い瞳には、恐怖と困惑の色が浮かんでいた。
「大丈夫ですわ、エレーナ様。グラスを、そちらに移しましょう」
彼女は、まるで夢遊病者のように、倒れたメイドのそばに転がる毒入りのグラスに手を伸ばそうとした。その時、私の脳裏に、リリアーナ嬢の純粋さが、この腐敗した貴族社会の罠に利用されるのではないかという、セドリック殿下の言葉が甦った。もし、彼女がこの場で毒に触れれば、彼女は毒殺未遂の犯人として、あるいは、私たちが仕組んだ陰謀の共犯者として、祭り上げられるかもしれない。
「リリアーナ! やめて!」
私は、思わず叫んだ。私の声に、リリアーナ嬢ははっと我に返り、手を引っ込めた。しかし、その瞬間、彼女の足元が、倒れたメイドが運んでいた別のグラスの飲み物で濡れていた。彼女は滑ってバランスを崩し、その場で、苦しみに顔を歪ませながら、膝から崩れ落ちた。
「リリアーナ!」
アルバート殿下は、セドリック殿下を睨みつけ、彼女のもとへと駆け寄った。彼の顔には、怒り、そして絶望の色が浮かんでいた。
(なぜ…!? こんな展開、脚本にはなかった…!)
私の頭の中は、再び混乱に陥った。私たちの計画を、誰かが、そして何かが、狂わせようとしている。この事件は、単なるアクシデントではない。それは、この物語の**「脚本家」**である私自身が、予測しきれていなかった、新たな物語の始まりを告げていた。
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