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その14


 家族が二人でなく三人に増えたとき、ペトロ・コスタはとうとう住む部屋を変えた。一人のときは部屋のことなど気にしたこともなかった。仕事は朝早く夜遅かったし、退屈なら外に出ればよかった。マリサが来て二人になり、彼女はもう少し広い、住みよい場所を望んでいたようだが、独立のための準備もあったし、相変わらず仕事は朝早く夜遅く、慣れてしまえば何の問題もなかった。アーサーが来て三人になり、部屋で、家で過ごすことが多くなって、このままでは不便……いや、ちょっとちがうな……そう。彼と遊んだり、勉強を見てやったり、時には自分がオヤジとしたようなケンカをしたりすることを考えたとき、なんだかそこは「家らしくない」と、彼はそう考えたのだった。そうして彼は、すこし無理をして、住む部屋を変えた。いまの部屋は、レストランの常連だった不動産屋に紹介してもらったものだった。そいつはとてもいいやつで、いくつか酒を奢ることにはなったが、それでもそこはとてもいい物件で、マリサもアーサーも、とても気に入ってくれていた。そうして――、


 トォオォォウゥォオゥォオゥオォオォン。


 という、何かのすきま風か細いネオン管が出すうねり声のような音で彼は目を覚ました。夜中。数週間ぶりに帰宅した我が家で。その寝室で。


「マリサ?」となりに眠る妻に声をかけたが、彼女はそこにいなかった。


「マリサ……?」彼女の姿を探そうとベッドのうえに起き上がり、彼は息を呑んだ。


「マリ……サ……?」寝室の片すみ、出口扉のすぐそばに、ほそい光の糸、それを何十・何百・何千とより合わせてはつむぎ合わせたほそい紐、そうしてそれらを更により合わせてはつむぎ合わせて作られたであろういくつもの光のロープ、それらが円筒形の渦を描きながら、それでもゆっくりゆったりと、そこに、寝室の片すみに、立ち上がろうとしていたからである。


「これか?」と彼は訊いた。その光の渦《結界》からすこし離れた場所に立つ彼の妻に、「……お前がやっているのか?」と。


 そう。それは彼の知る光の《壁》――天台烏山の手下たちを何処かへと飛ばしたアレ――とはまた違うなにかであり、彼は恐怖の中にいた。何への? その光の《結界》と、それを出現させているであろう彼の妻への。


 そう。なぜなら彼の直感は、その《結界》が彼の知る《壁》と同種の、そうして一段も二段も強力なものであることを報せていたし、また、それを出現させているであろう彼の妻が、こころここにあらず、といった状態に見えたからでもあった。


 そう。マリサ・コスタの意識は、いまこの部屋にはいなかった。それは多分に、昨夜、山岸富士夫を何処かへと飛ばしてしまった罪悪感と、そうしてふたたび今夜、名も知らぬ少女を何処かへと飛ばしてしまった(らしい)恐怖によって、彼女の意識が彼女の記憶の奥深いところ――『この宇宙』での彼女の記憶よりも更に深いところ――へと沈み込んでしまっていたからなのだが、


「おい!」とペトロが彼女に呼び掛けた瞬間、最悪のことが起こった。


 と言うのもここで、「おじさん?」と寝室の扉を開け、彼らの甥、アーサー・ウォーカーが中へとはいって来たからである。「なんかずっと、へんな音が……」


 彼もペトロと同じく、この《結界》が出すうねりに目を覚ましていたのである。すると、


「おば……さん?」と彼がマリサと彼女の《結界》に気付くか気付かないかのタイミングで、


「え?」と彼は、その光の渦――というよりは、その下に開いた深くふかい、闇よりも暗い《穴》の中へと引きずり込まれたのである。


 グッ、


 グッ、


 グッ、


 と大量の砂が押し固められつつ奈落へと落ちて行くような音とともに。


「おじさん!」アーサーが叫び、


「アーサー!」ペトロも叫ぶと彼は、我知らずのうちにそこへと、闇よりも深い《穴》の中へと飛び込んでいた。甥の後を追い、ゆっくり、厳粛に、まるでなにかの信仰あるいは信念を持っている者のように。下へ、下へ、下へと。そうして、


 キュッ。


 という奇妙な音が寝室内に鳴り響いてはすぐに消え、それとともに穴は閉じられひかりは消えた。そうして、


 うん?


 とマリサ・コスタの意識はこちらへともどって来たが、しかし、もどって来たそこはあまりにも静かで、またあまりにも暗い夜の寝室であったので、彼女はすぐにベッドへもどると、ゆっくり、厳粛とも言える深さで眠りへと落ちて行った。こちらも下へ、下へ、下へと。そうして――、


     *


 カチッ。


 と気が付くと石橋伊礼は、ステージ正面のイスに座っていた。ステージには、空色の垂れ布とピンクの装飾で飾り立てられた背景があり、その上空では、巨大な金の時計が深夜の3分前を示し……いま、2分前へと変わったところであった。きっと、舞台裏で大道具役の誰かが針を動かしたのだろう。


 ふっと左右を見ると、舞台の下手には垂れ布と同じ空色のドレスを着たお姫さまが、舞台の上手には背景と同じピンクの服を着た王子さまが立ち、ふたりで愛を語り合っているところだった――こう、歌いながら。


 『ほんの五分前、貴方に会った。

  ほんの五分前、小声でご挨拶。

  ほんの五分前、それで分かった。』


 『ほんの五分前、貴女に会った。

  ほんの五分前、初めて想った。

  おおきな声で、それを伝えたい。』


「なるほど」と石橋伊礼は理解した。自分がいま座っているのは、キシキシと鳴り続ける学校の学習椅子で、自分はきっと預言の夢を見せられていて、目の前でくり広げられているこの舞台は、誰もがよく知る物語『シンデレラ』のミュージカル版なのだろうと――フレーズがくり返された。


 『ほんの五分前、貴方に会った。

  ほんの五分前、小声でご挨拶。

  ほんの五分前、それで分かった。』


 『ほんの五分前、貴女に会った。

  ほんの五分前、初めて想った。

  おおきな声で、それを伝えたい。』


 それからふたりは、手を取り合うと見つめ合い、互いに、ささやき合うように、


 『見つけたわ。』


 『見つけたよ。』


 とやって歌い終わり、今度は、互いの顔と顔、口と口とをゆっくり近付けようとしたのだが、


 ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、

 ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、


 とここで、絶妙のタイミングで鳴り始めた巨大時計(作り物)に邪魔をされることにもなった。


「まあ、大変」シンデレラは叫んだ。「時計が鳴ってしまったわ」と急に本来のバリトンボイスに戻って、「ああ! もう! クッソ!」と、あまりにもプリンセスらしからぬ口調で、「ついてねえったらありゃしねえなぁ!!!」


 が、ここで観客はやんややんやの大喝采である。


 と言うのも、なんとこの劇中のシンデレラも王子さまも、なんなら他の女性陣(意地悪な継母や太っちょの魔法使い等々)も全員、このクラスの男子生徒が演じていたからである。


 そうして、その中でも特にシンデレラ役の彼の演技……と言うか笑わせっぷり――可憐なプリンセスソングからの雄々しきバリトンボイスなど――は、それを期待していた男子生徒はもちろん、BL趣味でキャーキャー言っていた女子生徒たちをも大いに沸かせ、笑わせ、中には絶叫させ、呼吸困難にまで追い込むほどであった。


「やれやれ」石橋伊礼はつぶやくと、いまだ熱狂の中にある――シンデレラの歌唱はついに継母たちとのラップバトルへと突入していた――教室を脱け出し廊下へと出た――が、すると瞬間、あたりが急に暗くなった。


「そうか」とここで伊礼は想い出した。「これは預言の中だった」


 いまのシーンにどんな意味があるのかないのか、たぶん作者の気まぐれだろうが(注1)、ここでは、この預言の中では、時間と空間の境界や認識は曖昧になるのであった。きっと今、やっと、預言は本来見せたいシーンへと彼の意識を移動させたのであっ――、


 ぞくっ。


 とここで伊礼の背中を、いや、身体全体を、なにか、途轍もなく暗く冷たいなにか、ふかい穴のような、永久に残る氷柱のようななにかがつかみ、えぐり、とおり過ぎて行った。


 はっ。


 となって彼はうしろをふり返った。するとそこにはひとりの男が、闇にまぎれ込むように廊下を移動し、電気の消えた、音のない――いや、これは雨の音か?――教室のひとつへとはいって行くのが見えた。


 男は細身で、背が高く、くすんだ色のシャツを着ていて、頭にはグレーのハンチング、その手足はひょろっとしていて長かった。


 男が教室へはいって行くとき伊礼は、よく見えないその横顔を見て、色がしろく、そうして彼と同じ預言者だった男、そうしてそのため高い木の上へと釘付けにされた男、その男によく似ている――と、そんなことを想った。そうして、


 ふっ。


 と時間と空間は進んだ――ほんの五分か十分ほど。


 はっ。


 となってそれから伊礼は壁を見た。その教室の壁を。


 それは、白い壁に釘付けにされた――いや、男の能力で身体中の血を抜かれ張りつけにされた――ひとりの少女であった。


 ぞくりっ。


 とふたたび伊礼は、身体全体になにか途轍もなく暗く冷たいものを感じると、そのうしろをふり返った。そこには、その原因、悪意や殺意ですらない時空に開いた暗い穴、混沌、虚無、ひかりを失くした暗晦、のようなものが、ひとのかたちを取って立っていた――「おまえは!」伊礼がさけび、


 にやっ。


 と男が口の端だけで笑おうとした。そのとき――、


 ブー、ブー、ブー、ブー、ブー、ブー、ブー、ブー、


 と枕もとのスマートフォンが鳴り、彼は目を覚ました。事務所の電話からの転送だった。


 彼は、石橋伊礼は、その電話に助けられたと想うと同時に、いま見たことを、男の特徴と、殺された女の子の特徴を、すぐにでも書き留めようと想いながらも、しかし、文字通り、呼び出されるかのように、その電話に出ることになった。


「もしもし?」伊礼は言った。声が、すこしぎこちなかった。「石橋伊礼、行政書士事務所です」


『石橋伊礼さんですか?』相手は応えた。まるで砂糖をまぶしたヴェルヴェットのような、甘くやわらかい声だった。『私、小紫かおると申しますが、実は、樫山ヤスコさまのことで一度会ってお話したいことが――』



(続く)

(注1)

 石橋さん、正解。

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