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その5


「ほっわー」と小さな子どもが立てるような声を上げ、佐倉八千代はその木を見上げていた。すっくと伸びた高い枝に、立ち姿も美しく、空に近いところでは緑の葉が、風にざわざわ、さわさわと揺れていた。


「はっにゃー」と続けて八千代は声を上げた。更に幼児へと退行したかのように、「きょうもおっきいですねー」と。


 秋の黄葉や冬の木立、春の芽吹きも確かに素敵だが、それでも夏の緑陰、特に、夏が始まり出したこの時期の緑とそれが作り出す光と陰のコントラストが彼女は何よりも好きだったからである。すると、


「ほんとねー」と今度は、彼女の横に立ちながら木花エマが言った。風の動きや光の加減、枝の先にとまった白い小鳥の羽根の動きまで把握するような、絵描きの目になって、「スケブ持って来ればよかったわ」と、そのままそれら風景を、すべて記憶しようとでもいうように。


「きれいよね」エマは続け、


「ほんとにね」八千代は応えた。「世界って美しいわ」


 ここは、前回更新分の最後にも書いた東京都立石神井公園けやき広場。そこでも取り分け目立つというか背の高いけやきの木、所謂“ケヤキのボブ”の目の前である。


 前にも書いた通り、彼女たちは現在、『世界の終わりの直前の夢』で八千代が見たというルートを見て歩いているところなのだが、この広場をとおり過ぎる際八千代が、


「ねえねえ、エマちゃん」と問題のルートからすこし離れたこの木を見ようとエマを誘ったのであった。


「なに? なにか気になることでもあるの?」


「え? うん? いや、とくになんにもないけどさ、好きなの、あの木」


 と八千代は言うが、きっとこれも、彼女の能力がなにか妙なもの――それは具体的には、昨晩、山岸富士夫がここ、“ケヤキのボブ”の上に落ちて来たときに残した時空の歪みみたいなものを言うのだが――を感じ取ったためだろうが、そんなことは彼女もエマも気付きはしないし、またここで、例えば例の警察署長・小張千秋のように、推理・探偵能力に優れた人物がいたとしたら、昨夜、その問題の山岸富士夫を祝部ひかりの父・優太が撃ち損なった銃弾の痕なども――もちろんそれは、優太の部下・深山千島によりきれいに片付けられてはいたが――発見出来たかも知れないが、もちろんそんなご都合主義的に話が進むほど世の中甘くないし、もっと言えば、


『そうそうそれでな、お嬢さん。昨夜の結構遅い時間に、真っ裸の中年男が、ワシの頭の上にドッシン。と落ちて来てな、どうもなにやらその男、奇妙な時空間の隙間を通って来たらしいのだが、それはそれこそひょっとして、あんたが夢で見たという光る壁のようななにかと関係があるのではないか?』


 みたいなことを、この“ケヤキのボブ”自身が、彼女たちに(植物的テレパシーで)話しかけてくれていたりもしたのだが、エマにはそんなものちっとも感じ取れないし、八千代は八千代で、


「なんか、今日はおしゃべりですねー」


 と何やら話し掛けてくれているのは分かるものの、流石の彼女も、ケヤキ語を解せるほどの能力は有していなかったので、


「ねえ、そろそろ行きましょうよ」というエマの言葉に、


「あ、そう、そうよね」と向きを変え、そのまま公園の西側、ひょうたん池の方へと向かって歩き出すのであった。「じゃあまたね、“ケヤキのボブ”さん」と。そうして――、


     *


「“妙なこと”?」とマリサ・コスタはつぶやいていた。昨夜起きた――というかここ最近立て続けに起きている――彼女のまわりの“妙なこと”を想い出しながら、「借金取りにヤマギシさん。それにこの人」と、目の前で眠る彼女の夫、ペトロ・コスタの横顔を、いつかどこかで見た絵画――オランダのなんとかって画家が描いた聖書の一場面――に登場する聖人あるいは漁師のそれになんだかとてもよく似ているな、とそんな風に想いながら。


 ここは、彼らとアーサーが暮らすマンション。そこの夫婦の寝室で、レストランでの食事を終えたふたりは、会話はまだまだ途中であったが、


「ところで、ペトロ」


「なんだ? マリサ」


「あなた、ちょっと匂うわよ」


 というマリサの言葉に従いこちらへ移動。


 途中、例の警官たちのことが気になりはしたものの無事到着。熱いシャワーと清潔な肌着、それに家へと戻れた安堵感からだろうか、それとも《結界》による空間移動の影響だろうか、ベッドに座るやいなやペトロは、急激な眠気を催し、そのまま泥のように眠り始めたのであった。


「“妙なこと”?」マリサはつぶやき苦笑した。妙なことなら、いまのこの状態こそが妙ではないか。ある日突然消えた夫が、今日またこうして、突然目の前に現れたのだから。しかも、彼女が彼のことを、強くつよく想い出した瞬間に。


「借金取りにヤマギシさん。それにこの人」三つともよく似た、“妙なこと”ではあったが、先の二つと今日のこれは、それでも明らかに違った“妙なこと”であった。何故なら、先の二つは彼女の前から人が消え、今日のこれは、彼女の前に人が現われたのだから。


 そう。そうして更には、先の二つでは、彼女もその場から消え、鏡の世界に閉じ込められていたが、今日のこれでは、彼女はたしかに、いまだそこにいた。鏡の外の世界に。


「“妙なこと”?」ふたたびマリサはつぶやくと、寝室の窓に映る自分の姿を見詰めた。ひょっとすると、鏡の向こうの彼女が何事か言い出すのでは? そう考えたからである。であるが結局、ここでは何も起きなかった。


「“妙なこと”?」借金取りや山岸富士夫の消失に関して彼女は、確かにそのことを妙なことだと感じ、考え、自分のせいではないかと苦悩もしたが、しかし今日、ペトロのことを考え、と同時に彼が彼女のもとに戻って来たことに関して、彼女はそれを、すこしも妙なことだとは想わなかった。そう。それはとても自然なことであった。


「“妙なこと”?」彼女は微笑し、ふたたびペトロの横顔を見た。愛しさが溢れ、そのまま彼にキスしたい気持ちになった。このままベッドで、彼の横に寝転んで。


 彼女はふたたび、窓の向こうの彼女を見詰め、彼女がなにもしないことを確かめると、そのまま眠る彼の横へと――、


 ピンポーン。


 とここで、玄関チャイムに邪魔をされた。


「あん、もう」と彼女は毒づきそうになったが、すぐにそれを止めるとベッドを下りた。「そうね、そうよね、そうだったわね」


 彼女の甥、アーサー・ウォーカーがちょうど学校から戻る時間であった。



(続く)

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