その6
山岸富士夫は、無口で不愛想で偏屈そうな見た目にも関わらず、一貫してよき友人、よき父親、よき夫、そうしてなにより、よき兄であろうとして来たし、その想いと態度は、この物語が終わるときまで変わることはないだろう。
そう。
山岸富士夫はいつも、自身の力の及ぶ範囲でだが、他人のために良かれと想い尽くして来た。
それは、彼の父親が、そうすることが結局自身の幸福に――具体的には彼が経営する会社の利益に――なると富士夫に強く教え指導して来たからなのだが、富士夫はもっと単純に、
「他人のために良かれと想うことを、他人のために良かれと想い行おう」
そう考えていた。
多分にこれは、彼の祖母――花盛りの家に住むあの老婆――の影響でもあろうが結局、父と子のこの微妙な溝は、その父の最期の時まで埋まることはなかった。彼の父親は、この物語の数ヶ月前に、癌を患い他界していた。
「それでも結局、いちばん大事にされてたのは兄さんじゃないか」
山岸まひろは言った。非難と云うよりは、亡き父親を擁護する格好で、
「鷹士兄さんとは口も効かなかったし、茄夫兄さんや僕とも距離を置いていた。会社も結局、すべて兄さんに任せたものね」
前にも書いたが、山岸の家に子供は四人。長男の富士夫をはじめとして次男の鷹士、三男の茄夫、長女のまひろと続く。鷹士は作家で各地を放浪しており、茄夫は千葉で、まひろはこの地で、普通の会社員として暮らしていた。
山岸の父が興し遺したその会社は、食品の卸売りを中心とした物産会社で、この数十年の不景気の中にあっても変わらず堅実な成長を続けていたのだが、それは山岸の父の実直かつ狡猾、賢明かつ懸命な会社運営がもたらしたものであり、その方針・性格は、彼の長男・富士夫にしっかり引き継がれてもいた。まひろは続ける。
「うらやましかったんだからね、実際」いくら父が富士夫に厳しい教育を施していたとしても、それは結局、「末っ子で女の僕には絶対にしてくれないことだったんだからね」と。富士夫本人の気持ちはさて置いても、「それは父さんが、兄さんを大事に想ってたってことだろう?」と。
*
さて。
少々戸惑われている方もおられるだろうから、ここで、山岸まひろの性別について、一応の補足をしておく。
と言うのも、これまでの記述からもお分かりの通り、この世界における山岸まひろの身体的性別は「女性」である。
であるが、彼女自身の性自認は「男性」……と書くと微妙に違うし、そのどちらでもない「ノンバイナリー」……と書くのも誤解を招きそうなので困るのだが、それでも他に良い言葉も見付からないので、取り敢えず、この物語の中における彼女の性別は、カッコ付きの“ノンバイナリー”ということにさせて頂くことにする。
大変分かり難く、且つ、余計に戸惑われた方も多いとは想うが、この辺の事情・理由については、今後の物語でいくらかご説明出来ればとも想う――話をもとに戻そう。
*
「それはもちろん分かってるさ」山岸富士夫は答えた。
ここは、彼が父から引き継いだ物産会社の一室。その社長室で、今日まひろを呼んだのは、父の遺産の分割協議を始めるに当たり、居場所のつかめぬ次男・鷹士に対し、彼女の方からアプローチをして貰えないかと頼むためだった。だったのだが、
「ただ、死んでから分かって来ることも色々あってな」
と、どうやらまひろが来る直前、問題の次男と同じかそれ以上の難問を彼は抱えてしまった様子であった。
「いろいろ?」まひろが訊き返した。
「うん」富士夫は答えようとし、「正直、俺も戸惑っ――」と言い掛けたところで、彼女には聞かせない方がよいとでも想ったのだろうか、「いや、なんでもない」
が、しかしこれでは、訊くなと言う方が無理である。まひろは訊き返す。ふたたび、
「戸惑うって何にさ?」
「なんでもない。これは俺の問題だ」
「兄さんの問題ってなんだよ。父さんと関係があることだろ? 僕も知っておきたいよ」
「いや、この件は、家長たる俺が引き受ける」
「だからっ! そのひとりで全部抱えようって態度が――」
と、こうしてふたりの問答は数分間続き、結局富士夫が折れる形になった。ただし――、
「ただし、勝手なマネはするなよ」と彼女に釘を刺しながら、「お前に何かあったら、それこそ親父に顔向けが出来ない」
「もちろん」まひろは答えた。ちょっと嬉しそうに。不愛想な兄が、自分を心配してくれているのが分かったから、「兄さんの言うとおりにするよ」
「分かった」富士夫は続けた。まひろにだけ聞こえる声で、「天台烏山だ」
「天台?」まひろは訊き返した。「ってあの?」
「ああ」富士夫は応えた。椅子に深く掛け直しながら、「親父のヤツ、あの悪魔とも付き合いがあったらしい」
*
「天台?」と丁度これと同じころ、マリサ・コスタは質問を受けていた。友人の女性から、「どうしてまた、あんなヤツから?」
「知らないわ」マリサは答えた。「そりゃ、お店の資金繰りは苦しかったけど、あんなとこから借りないといけない程ではなかったはずよ」
彼女はいま、店回りの資料を整理する間、アーサーを預かって貰えないかと、この友人・ミセス・アメリア・リンディのアパートを訪れているところだった。続けてアメリアが訊いた。
「まさかペトロさん、博打やクスリとか?」
「いいえ」マリサは答えた。はっきりと。「そんなのしてたら、料理の味が落ちてただろうし」それなら自分も気付いたはずだし、「なによりあの人、そういうのをいちばん嫌ってたから」
天台烏山あるいは天台烏薬とは、主に東京北西部を中心に活動する実業家・不動産王のことだが、彼の出発点はいわゆる金融業・高利貸しであり、その頃からいまに至るまで、こちらもいわゆる暴力組織、ひと昔前ならヤクザやマフィアと呼ばれていた連中とも付き合い、それを従えていることは、この辺りでは半ば常識であった。
「でも」続けてアメリアが訊いた。「こう言ってはなんだけど」と一応ことわった上で、「どうしてペトロさんのお店を?」
天台が狙うには立地もサイズも微妙、というか、あまりに小さすぎるのではないか? と。
「それも不思議は不思議なんだけどね」マリサは答えた。「あいつの部下、細身の、蛙みたいな顔の男、そいつの言い方だと、天台本人が、あそこに執着してるみたいなのよ」
が、これは細身の男も含め、マリサもペトロも天台の意図を勘違いしていた。
と言うのも、そもそも天台が欲しがっていたのは、ペトロ・コスタの店ではなく彼本人、マリサやアーサーも含めた、彼ら三人の“能力”だったからである。
(続く)




