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その3


『もしもし?』スマートフォンから彼の声が聞こえて来たとき祝部ひかりは、おどろくとともに胸を詰まらし、このまま自分は泣いてしまうのではないかとすら想った。彼は続けた。『どうかしたの? ひかりちゃん』


 きっとあちらも学校なのだろう、声をひそめ、どこか人目に付かない場所でも探しているかのようだった。


「ごめんね、突然」ひかりは応えた。なみだをこらえ、胸の詰まりをほぐすように、そこに手を当てながら、「ほんとは、留守電に入れるつもりだったんだけど――」


 こっちはいま休み時間で、だけどそっちの休み時間は分からなくって、最初はラインかメールにしようかとも想ったんだけど、なにを、どう書けばよいか、どう伝えればいいかよく分からなくて、もちろん、お父さんにも連絡しようとはしたんだけど、なんか全然つながらなくて、それにもちろん、朱央に話してよい話か、話して信じてもらえる話か分からなかったけど、だけどお父さん、ぜんぜん繋がらないし、きっとお仕事なんだろうけど、でも、そしたら朱央もきっと学校だし、電話なんかかけても困るだろうし、でも、でも、いますぐ誰かに話したいし、声を聞きたいし、でも、でも、だけど、他に話せる、話したい人って――、


『ひかりちゃん』とうとう彼――清水朱央は言った。彼女の言葉をさえぎるように。だけれど優しく、ほほ笑むように、『ぼくもさっき、ひかりちゃんの声が聞きたいって想ってたところなんだ』


 彼女は顔を上げ、空を見上げ、ふたりの間の時は止まっ――ってって、あ、いや、ちがうな。


 うん。実際問題、ふたりの会話と思考と意識は止まっていたけれど、時間は確実に動き続けていた。


 そう。それはもう、ひかりのスマホの電話代がきちんと積み上がっていくことからも分かったし、彼女の手の先、耳の先が紅潮していくことからも分かったし、電話向こうの朱央の心臓の音が速く、高くなって行くことからも分かった。


 きっとこのまま放っておけば、互いの呼吸を聞くだけで、一時間でも二時間でも、数千字でも数万字でも、互いにそのまま、そこに突っ立っていられるふたりであったが、それはそれでひかりのお母さんが(電話代的な意味で)許さないだろうし、もちろん作者であるこの私も(お話の進行上)許すわけにはいかなかった。


 なのでそのため、ここで突然、作者であるところのこの私は、古式ゆかしき紙製ハリセンをどこからともなく取り出すと、自分の言った言葉に自分で驚きフリーズしている清水朱央くん(17才)の背後にそーっと近付き、そのまま彼を、


 ぱっしーん!


 と軽くはたいて、また何処かへと消えて行くことになるのであった。そうして――、


「な? なに? いまの音」とひかりは訊いた。よっぽどツッコミハリセンの音がよろしかったのだろう、「大丈夫? 朱央? なにかあったの?」と、ショート寸前だった思考回路をどうにかこうにか回復させつつ。


『え? あ? あれ?』清水朱央は答えた。あたりをきょろきょろ見回して、『う、う……、うん? 大丈……夫?』それでも誰も、なにもいないことを確認しながら、『あ、あー、いや、ごめん。なんか、変なこと言っちゃったみたいで――って、そうそう、なにか、なにか話したい、相談したいことがあったんだよね?』と。


「あ、う、うん」と祝部ひかりも答えた。すこし残念な気持ちになりながら、それでも誰かに、さっさと話を進めろと言われているような気にもなりながら、「実は――」


 と、そうして彼らは結局、直接会って話したい、電話ではむずかしい、というひかりの意向を受け、放課後、いつもの古書店兼貸本屋『ウィリアム書店』で落ち合うことにした。ひかりの方は文化祭の準備が残っているはずだったが、「今日は大丈夫よ、たぶん」内海の件は朱央にはまだ言わなかったが、それでもきっと、みんな彼の話題で持ちきりで、準備どころではないだろうから、と。そうして――、


     *


 ぱっしーん!


 と丁度その頃、というか、このお話の作者が巨大ハリセンとともに何処かへともどって行ったころ、


「ほへ?」と佐倉八千代はうしろをふり返っていた。


 なにかどこかのツッコミ音と、これまたどこかの物書きが、こちらの世界に潜り込んだ奇妙な気配を察知したからである。であるが、


「なに? どうかした?」と木花エマが声を掛け彼女は、その奇妙な音と気配をふいっと忘れることになる。


 どうせ人畜無害なナニカだろうし(正解)、どうせ話の本筋とは無関係なただのお遊びだろうから(大正解)、と彼女の直感・本能が教えてくれたからである。八千代は応えた。前を行くエマに向かって、


「あ……え?」とそちらに向き直りながら、「あ、いや、うん。いや、なんでもない」


「そう?」エマは応えた。この子のなんでも受信してしまうクセ、能力には慣れているつもりだったが、「“なんかイヤ”とかだったら、早めに言ってよね」


 と、言うことで。


 こちらは、毎度お馴染み東京都立石神井公園、その東側、公園通りからはいって石神井池を右手に、ふくろう広場から野外ステージの方へと向かっているところであった。


「あ、えー、いや、うん」八千代は言った。「なんかそういう“なんかイヤ”とはまた違ったし……まあ、たぶん大丈夫よ」


 本日彼女たちは、ここ数日の懸念事項であった『世界の終わりの直前の夢』、佐倉八千代が見たというその夢について、その調査の手始めに、先ずは彼女が夢で見た、通ったという場所、そこを歩いてみようとしているところであった。わざわざふたりとも、大学を休んで。


「ほんとかなあ?」とエマ。「あなた昨日の全裸男すら、“なんかイヤ”には入れないんでしょ?」


 と言うのもひとつは、この件をバイトの前後や休み時間に話そうとしても、ここ数日の『シグナレス』は連夜の「商売繁盛笹持って来い」状態であり、そんな話をする余裕がなかったからであるし、またもうひとつは、問題の全裸男・山岸富士夫の突然の出現とエマによる彼への暴行、ならびに突然の消失を目の当たりにしてしまったためでもあったし、またそうして、


「うーん?」と言って八千代は答えた。「たしかに驚きはしたけどさあ、“イヤな感じ”“わるい感じ”はしなかったのよね、あの人」


「うーん?」とエマもうなった。「まあ、悪人って顔でもなかったけどね」気絶している富士夫の横顔を想い出しつつ、それでも、「善人・悪人はさておいて」八千代の夢もそうだけど、「あんな不思議なことが起きたんだし、なにかが起きたか、起ころうとしているのは確かっぽいわよね」


 と、当初彼女たちが考えていた以上に、事態は進行・進展しているのかも知れない。そう想えたからでもあった。



(続く)

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