その2
承前。
「お前はなにも、悪くなかったってことさ」と言った父の言葉を想い出しながら、それでも祝部ひかりは、こころの中で首をふりつつこう考えていた。「ひょっとしたらこれは、やはり私のせいなのではないか?」と。
ぐぉぉおぉおぉぉ。
そう。それは確かにそんなうなりをあげていた。いくつかの獣が混ざったようなそんな声で。その波動に合わせ放たれる奇妙で複雑な色や光や描線のようなものと一緒に。そうして、
「窓?」と確かにそれは、彼女にそう想わせるようなものでもあった。うなり、ひかり、桟も鍵も、枠らしいものも何もなかったけれど、それでもそれは、彼女に、直観的に、「どこかに向かって開かれているもの」のように認識されていた。そうして、しかもそれは、
「生きてるの?」と彼女に勘ちがいさせるものでもあった。
もちろん。普通に考えればそれは、光や時間や量子の揺らぎの集合体のようなものでしかなく、意識もなければ、我々が理解するところの生命というようなものも持ってはいなかったが、しかしそれでもそれは、少なくともひかりが最初のパニックを収め、父親に電話をかけてから後、それ自らがゆっくり静かに消えて行くまでの間、それでもまるで、生命を持ち動いているかのように、祝部ひかりに想わせるものでもあった。
何故ならそれは、彼女の動きや感情に合わせるようにゆらぎ、ひかり、うねっていたからであり、そのゆらぎやうねりやひかりは彼女に、それらを生命のそれと勘ちがいさせてもいたからである。そうして、
「あ、あれはひょっとして」と。そのこと――《窓》が自身の動きや感情に合わせて動いていたこと――を祝部ひかりがはっきり認識するのは、家へともどり、内海祥平の無事を知り、「お前はなにも、悪くなかったってことさ」という父の言葉に安堵をおぼえ、床に着いてからであった。
「ひょっとして」眠りに落ちる直前、彼女は想ってしまった。「ひょっとして、内海くんを消したのは、私だったのかも知れない」
何故なら彼女は、あの時自分が――皆に清水朱央とのことを知られた自分が――その恥ずかしさのあまり、彼を、彼の記憶を、どこかへ消してしまいたい。と、そんな風に強く願い考えていたことを、想い出していたからである。そうして――、
*
祝部ひかりが《窓》の記憶を想い出していた丁度その頃、マリサ・コスタは、「実は、たいへん言いにくいんですがね」と言った中年警官の顔を想い出していた。「ペトロに限って、そんなこと」と、こころの中でゆっくり首をふりながら。
ペトロ・コスタは背がたかく、肩幅もひろく、まるで古い映画に出て来る警察官のような風貌をしていたが、それでも彼は、マリサなんかよりずっと他人に親切にしていたし、キリスト教的博愛精神に富んでもいれば、とても優しい声と笑顔を持ってもいた。
「ペトロさんに、ふたりの男を殺した容疑が掛けられているんですよ、いま」ふたたび、例の中年警察官の言葉が想い出されたが、それでもマリサは首を振った。今度は実際に、「そんなこと、絶対にあり得ない」と断言しながら。
ペトロ・コスタは、そのあまりの誠実さ親切さから、同じコミュニティの仲間や、特に彼の母親などから、一種聖人視されるほどの人物であった。もちろん。多くの聖人がそうであるように、彼もまた同時に、激昂しやすい人物ではあったけれども。それでも、マリサが妹の息子のアーサー・ウォーカーを引き取ると言ったときにも、いやな顔ひとつせず笑ってくれたのは彼だったし、例えばそう、好きで得意だったボクシングを、「本気すぎるなぐり合いにはついていけない」とあっさり辞めてしまうのも、たしかに彼だった。マリサは想い出す。彼がアーサーにボクシングを教え、じゃれ合っていた場面を。
*
「だめだめ、きちんと右足を揃えるんだ」そうペトロは言っていた。「左足から出て、すり足で、そこに右足を揃える」それがボクシングの基本なのだと。
彼にボクシングを教えてくれとせがんで来たのはアーサー・ウォーカーだった。誰から聞いたのか、彼がほぼ負け知らずのファイターだったことを知り、若いころの彼のビデオを、彼の母親から見せてもらったとのことだった。
「足は絶対に浮かせない。リードは左のパンチで行う」
ペトロは最初嫌がっていたが、それでもアーサーにねだられ、まとわりつかれ、また嫌われたくもなかったのだろう、
「外では絶対使わないこと。ひとには絶対言いふらさないこと。いそいで全てを覚えようとしないこと」
この三つを条件に、お店が休みの日、お店のフロアを使って、彼が教わり学んで来たことを、彼はアーサーに教えて行った。少しずつ。
「よし。いいぞ、さすがは俺の甥っ子だ」
と彼はよく言っていたが、ふたりの遺伝子の差は明白で、ペトロが得意とした小刻みな右のジャブや、風を切るような左フックをアーサーに教えるのは、まだまだずっと先のことになるだろう。と、そんなことくらいは、素人のマリサの目にも分かった。が、しかし、それでも、
「そう。足のうらで地面を感じろ。それを拳に伝えて行くんだ」
そんなことを言いながら、アーサーのパンチを受けたりかわしたり、スウェーやダッキングの見本をみせたりするペトロはとても楽しそうだったし、そんな彼をアーサーも尊敬と憧れの眼差しで見ていたこともマリサにはよく分かった。そうして――、
*
「ペトロさんに、ふたりの男を殺した容疑が掛けられているんですよ、いま」とみたび、例の中年警官の声が想い出され、
「そんなこと、絶対にあり得ない」とふたたび彼女はつぶやいた。彼のことを、彼の声や笑顔や、アーサーにやさしく接する態度なんかを想い出しながら、くり返し、「そんなこと、絶対にあり得ない」と。
彼女はいま、誰もいないレストランのフロア――それは丁度ペトロが、アーサーのリードパンチを受けていた場所だが――にすわり、目になみだをため、それを肩にかけておいたタオルで隠そうとしているところでであった。彼女はつぶやいた。もう一度、「そんなこと、絶対にあり得ない」
そうして、彼女がそうつぶやいたとき、“それ”は現われた。
そう。
それは昨夜、山岸富士夫との面会で現れた、《壁》とは違うなにか、しかしきっと、それによく似た、あるいは同種のなにか、彼女のまわりを取り囲む光の糸のようななにかであった。それは音を立てていた。
トォオォォウゥォオゥォオゥオォオォン。
と、何かのすきま風か細いネオン管のうねりのような音を。そうして、これがもっとも重要なことなのだが、この“なにか”は、
「生きもの?」と一瞬、マリサに勘ちがいさせてしまうような“なにか”であり、これはもちろん、先述の祝部ひかりのケースと同様、彼女の動きや感情に合わせるように、この光の糸はゆらぎ、ひかり、うねっていたからである。
そう。つまりこれは、祝部ひかりの《窓》によく似ており、マリサが誰かと、あるいはどこかと繋がるための、彼女のための《結界》のような“なにか”なのであった。そうして、
「……ペトロ?」
とマリサはつぶやいていた。我知らずのうちに。何故なら、彼女を取り囲む《結界》の向こう側、いや、まだ重なり切っていない《結界》のこちら側に、彼の、彼女が愛する夫の気配が感じ取れたからである。そうして、
「……マリサ?」
と直後、彼女は声を聞いた。ようやく重なり合った《結界》のこちら側で。彼女が愛する夫の声を。
(続く)




