その10
「この、“ひかり”というのは?」と樫山ヤスコは訊いた。石橋伊礼のマンションの、彼のベッドの枕もとで。キッチンから持って来た、ちいさなイスにすわりながら、「誰かの名前?」
「分かりません」石橋伊礼は答えた。ベッドの上であお向けになったまま、しばらく間を置いてから、「あ、いえ、すみません」と訂正しつつ、「わかい、おんなの子です」と。
彼らはいま、「実は、先生にもお聞きしたいことが」と言った伊礼のことばを受け、彼が受け取った未来、ノートに必死で書き留めたビジョンについて、それについて話そうとしているところであった。
「おんなの子?」ヤスコは訊き返した。
「八千代さんくらいの、」と伊礼は返そうとしたが、またしばらく間を置くと、「あ、いえ、もう少しわかい、中学生? いえ、高校生くらいのおんなの子です。誰かが? 何人かが? 彼女を、そう呼んでいました。“ひかり”とか“ひかりちゃん”とか」
が、見てのとおり、その「先生にもお聞きしたいこと」へ辿り着くまでの前段として、ノートの読み方、時系列などを整理、ヤスコでも理解し易いよう、確認しているところでもあった。と言うのも、樫山ヤスコを含めた一部の人間たち――佐倉八千代やカトリーヌ・ド・猪熊といった一部の人間たち――が、石橋伊礼の預言あるいは予言の能力を知っているとは前にも書いたが、それでも彼の預言あるいは予言はあまりに痙攣的、ランダム的、行き当たりばったり的であり、それを書き留めた彼のノートの内容も、痙攣的且つランダム的且つ行き当たりばったり的であったため、その内容や文体はもちろん、時系列や登場人物も、そのまま読んだだけでは意味不明――とまではいかないまでも、理解に苦しむのが常であったからである。であるが、しかし、
「でも、まあ、すべて、まちがいなく当たるのは当たるのよね」
と、これはカトリーヌ・ド・猪熊のことばだが、その痙攣的、ランダム的、行き当たりばったり的な記述を整理し、並び替え、行間を埋めて行きさえすれば、何かしらの一貫した出来事、ストーリーが見えて来ることも確かではあった。ヤスコはつぶやいた。ノートに目を落としたまま、
「高校生?」とそうして、橋の上で別れた例のエイリアンを想い出しながら、「“女子高生”“文化祭”…………“ロミオとジュリエット”?」
「え?」伊礼が訊き返した。おどろいた声で。天井に向けていた目を、ヤスコの方に向けながら、「どうして、それを?」
「それ?」
「たしかに。そう。学校。あ、いや、夜の? いや、それもちがう? うす暗がりの学校。ごちゃごちゃとしていて、雨? 雷? 遠くからのざわめきが聞こえ……そう。そうか。あれは、文化祭の時の学校だ!」
「そこで、その子を見たってこと?」
「ええ、は――」伊礼は言った。それから、自分でも忘れていた、未来の記憶の洪水の下に押し隠していた、出来れば見たくない、そんな記憶を想い出したのか、「あ、」とおどろき、つぶやきながら、「たしかに。そうか。あれは、ジュリエットだ」
「え?」ヤスコは訊き返した。
「あの映画。ずっと昔の、“ロミオとジュリエット”」伊礼は続けた。「そうか、あの子は、あの子はあれと同じ、似た衣装を……あ、ああ、どうしましょう? ヤスコ先生」
「え? なに? なにが? 石橋さん」
「そう。そうだ。女子高生。文化祭。それから……、そう。ロミオとジュリエット。彼女は着ている。ジュリエットのドレスを。教室で。ひとり。誰かを待ってる? 誰を? 分からない。……暗闇? そう、暗闇から誰かが」
「ちょ、ちょっと、石橋さん、落ち着いて」ヤスコは叫んだ。小さく。慌てながら、彼をなだめながら、がしかし、
「どうしましょう? ヤスコ先生」伊礼はくり返した。ベッドのうえに起き上がり、ヤスコの手をつよく握って、「彼女を、救わないと」
「救う?」ヤスコは訊き返した。
「ジュリエットのドレスを着た彼女」伊礼は続けた。「彼女が、彼女は? 誰だ? 何者? 男? 暗闇に……? 顔は? くっそ、見えない。だけど、だけど、だけど――」
「だけど?」
「彼女は、」とうとう伊礼は言った。この未来は避けられないのでは? という強い不安とともに。「彼女は殺されます。その、暗闇から出て来た何者かの手によって」と。そうして――、
*
そう。そうしてようやく夜は明けた。ながく、奇妙だった夜が。そのため――、
「え?」と左武文雄はうしろをふり返った。そんな夜の端に立って。渡り終えた歩道橋は、そろそろ赤に変わろうとしていた。
「すみませーん。わたりまーす」と、そんな彼の横を、ジャージ姿の中学生が駆け抜けていった。ふたり。
「あ、おい、こら」と左武は、そんな彼らを注意しようとしたのだが、そことはまた別の通りから車のブレーキ音が聞こえ、
「ああ、くそっ」彼はつぶやき、足をとらわれよろめくと、彼らが無事わたり終えたのを確認してからハッとなり、内ポケットの警察手帳を探した。――あ、いや、大丈夫だ。失くしてはいない。
そうしてそれから彼は、右の空を、彼ら中学生のジャージによく似た色の小鳥が数羽、公園の方へと向かって飛んで行くのを見付けた。二日酔い……とはまたちがうボヤけた頭のままで。なんとか彼らと反対方向、どうにもすっきりしない感じだけれど、すでに動き出している街の中、行き交う人やどこかのクラクションに急かされ動かされ、そんな彼らともすれ違いながら、彼の職場、この通りの先にある警察署へと向かうことにした。
*
「あの子もいつかは」ひとりの女性が話していた。入り口横の長椅子の上で、「あの子もいつかは、きっとこころを入れかえて、わたしの方をふり向いてくれると想うんです」相手をしているのは交通課の月島こよみだった。「帽子を脱いで、あの黒いサングラスも外して、そしたらあの子、最初になんて言うと想います?」
「さあ、なんて言うんですか?」こよみは訊いた。音楽的な、温かみのある声で、「息子さんは、なんて言うんですか? お母さまに」
月島こよみは背のたかい、男子警官の間に立っても遜色のない、どころか彼らよりもいく分堂々とした、がっちりとした体格の女性警察官で、その見た目もあってか(しかも女性の警察官だ)、特に若い男どもから怖がられる存在ではあったが、しかしそれでも彼女は、先述の温かみのある声と、彼女特有の思想――それは、顔を会わせる人みんなに積極的な共感を抱けば、世界はきっとすこしはよくなる、という極楽観的思想――のおかげで、地域住民からの受けはよく、例えば小さな女の子だとか、例えば色々行き詰った年寄りなどの相談相手、話し相手になることがよくあった。長椅子の上の女性は答えた。
「まずはかるい挨拶をするんですよ、きっと」と。希望あるいは妄想を捨て切れないと言った様子で、「『やあ』とか、『よお』とか、ひょっとすると、『ひさしぶりだね、お母さん』とか」
彼女はどこにでもいる年老いた女性で、肩はまるく、髪はうすく、無知による善良さだけが取り柄のような顔をしていて、いまにも泣き出しそうだった。
「それからすこしわらって、だけれど目をそらしながら、『よく来てくれたね、ありがと』って、そう言うんですよ、きっと、あの子は」彼女は続けた。
「ええ、はい、いつかは」こよみは答えた。心底そう信じるかのように、「いつかはきっと、そう言ってくれますよ、息子さん」
「わたし、毎日お経をあげているんですよ、あの子のために」彼女は言った。「朝と昼と夜。毎日欠かさず、三回も」
「それはいいことですね」こよみは応えた。
「勉強をさせ過ぎたのかも知れません」女性は続けた。
「でも、息子さんのことを想ってのことだったのでしょう?」こよみも続けた。
「はやくに父親を亡くしたのがいけなかったのかも知れません」
「それは、ご苦労も多かったことでしょう」
彼女たちのデュエットはこんな風に信仰――ちがった。進行していった。まるで果てしのない祈りか願いのように。あるいは何かの哲学的対話劇のように。結局、彼女の息子が男性警察官ふたりに連れられ現われ、彼女にここに書くのも憚られる罵声を浴びせかけるまでは。
「よう、おはよう」
とここで、左武文雄が月島こよみに声を掛けた。こよみは、息子と一緒に去って行く女性を見送っていたところだったが、そんな彼女を見ながら左武は、「あれ?」と言って一瞬考え、「おまえ今日、日勤だっけ?」そう彼女に訊いた。
「先輩?」が、しかし、驚いたのはこよみである。「どこ行ってたんですか?」と、振り向きながら彼に訊いた。
彼と彼女は二個ちがい。地元が近く趣味も合い、例の休憩室でどうでもいい長話をするような仲であったが、
「どこって、家に決まってんだろ」笑いながら左武は応えた。「独身貴族なめんじゃねえぞ」
「いやいやいやいや、マジですか?」こよみは訊き返した。「右京さんとか大変だったんですからね、昨日。先輩と連絡取れないって」
「は?」
「昨日一日、出て来るはずの先輩が出て来ないんで、皆さん本気で心配してたんですよ?」
(続く)




