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転生者たち~時空の終わりとソウルフルネス・ワンダーランド~  作者: 樫山泰士
第五話「もしも、間違いに気がつくことがなかったのなら?」
80/92

その9

     *


 『秘めたる結びに、誓いのことばはなく、

  秘めたる結びは、壊されることもない。』


 『教会の祝福も、まちへの届け出も、

  おやの許しも、仲人への謝礼金も。

  そこにならべ、られることはない。』


 『秘めたる結びに、誓いのことばはなく、

  秘めたる結びは、壊されることもない。』


     *


 とおくの何処かで、

 高く澄んだ声の少女が歌っていた。


 彼女は歌う。

 眠りの中で目覚め、

 その目覚めを受け入れるべきだと。


 彼女は歌う。

 おそれから離され、

 その運命をこそ感じ取るべきだと。


 彼女は歌う。

 行くべき所を知り、

 その場所へこそ向かうべきなのだと。


     *


 とさっ。


 とかるくベッドの跳ねる音がして、山岸富士夫は目を覚ました。


 彼の意識はたしかにそこにあったのだけれど、その目覚めや運命と言ったものが現実かどうか――なんだかとても奇妙な長い夢を見ていたような気がする――受け入れ感じ取るべきなのかどうか、いまだ分からないようすであった。


 目の前には、先ほどまでの夢で――夢の中で?――見ていた、さまよっていた、この町の夜景がひろがっていた。


 なるほどここは、天台烏山に呼ばれて来た例のホテルのようだ。


 ベッドの硬さ、やわらかさを確認し、まさかと想いうしろを向いたが、そこにはもちろん誰もおらず、いた形跡もなかった。


 暗闇の中、シーツの上の身体を確かめて驚いた。なぜなら彼は――これも先ほどまでの夢と同じく――身体に何も着けていなかったからである。


 ガバッ。


 と跳ね起き、取り敢えずベッドのシーツを腰に巻いた。それから彼は――ひたいに残るフライパンの痛みは無視したまま――自身の衣服を探しはじめた。


 スーツはすぐに見つかった。クローゼットの前に、シャツと一緒に掛けられていたから。


 下着と靴下はすこし手間取ったが、それでもバスルームに新品のものが置かれていた。


 シャツを着、ズボンを履き、ネクタイを締めようとしたところでハッとなった。妻からもらったネクタイピンが見当たらなかった。あわてて枕の下やナイトテーブル、テレビの横のちいさな箱などを探そうとして、


 ぷるるるるるる、

 ぷるるるるるる。


 と鳴る電話の音にはっとした。


「もしもし?」ためらいながらそれに出た。


『山岸さん?』若いような年老いたような、そんな女の声だった。『どうやら、起きられたようですね』


「そちらは?」ふたたびためらいながら富士夫は訊いた。なんだかさっきの、少女の歌声を想い出しながら。


『友枝です』女は応えた。今度ははっきりと、年老いた女の声で、『天台の秘書の』


「あ、ああ」富士夫も応えた――トモエダ? そんな名前だったか?――どうやらしっかり現実に戻ったようだが、「すみません。なんだか飲み過ぎたのか、ひょっとしてわた――」


『あ、いえ、』富士夫のことばをさえぎるように友枝久香は続けた。なんだかすこし、芝居がかった調子で、『どうやらこちらのご用意したお酒がわるかったようで』


 彼女の説明によると、今夜富士夫は、天台烏山を待つあいだ、こちらも同じく天台に用事・相談のあった外国人の女性と、友枝たちが用意した食べ物や飲み物を喫しながらおしゃべりをしていたのだが、そこで突然、酔いがまわったのか、テーブルに突っ伏するように倒れたということだった。


『一応、ホテルの医者にも診せましたが、ただの飲み過ぎだということで、失礼とは想いましたが――』


 水と塩分を摂らせ、汚してはまずいだろうと服や靴を脱がせたうえで、その部屋のベッドに寝かせたのだという。


「それは、大変なご迷惑を」富士夫は言った。自分の中の記憶を必死で書き換えながら、「いつもならあの程度の酒、なんともないのですが――」


『あ、いえ、ですから、それはそれこそ』友枝久香は応えた。電話の向こうで、彼女の頭が下がっているのが分かった。『きっと、こちらのご用意したお酒が合わなかったのでしょう』


 富士夫の酒豪ぶりは友枝も知っていたが、好みも聞かずに勝手に出したのはこちらの不手際である。しかも、さらに大変恐縮なことに、


『実は結局、天台が来られなくなってしまいまして――』


 この埋め合わせは必ずするし、よければ是非、今夜はここに泊まって行って頂きたい。


『今夜の結果には、天台もいたく満足しておりまして――』


「うん?」とここで富士夫は首を傾げた――いま、変なことを言わなかったか?――がしかし、


『あー、そう、それにですね』と続ける久香の声にそれは不意に流された。『ここの朝食、けっこういけるんですよ。ビュッフェ形式ですけれど。ぜひ食べて行って下さい』


 そうして結局、富士夫はひと晩泊まることにした。夢の中で見た景色や人々は、何故だか遠く、勝手に背景へと消えて行くようだった。家に電話を掛け、仕事先の人と一緒だと、半分妻にウソを吐いた。


「あ、それと友枝さん」電話を切る前、彼は訊ねた。「さきほど会った女性ですが」


『え? ああ、はい』友枝は答えた。『なんだかとても心配されていましたが』こちらもいくつかウソを吐き、『お子さまと旦那さまが待たれているということで、先にお帰りになられました。富士夫さまによろしくと』


「あ、なるほど」富士夫は言った。すこし残念そうに。「そう言えば、そんなことも言われていたような気がします」


『ええ、はい、でも、まあ』友枝は続けた。『あちら様も天台との話は終わっていませんし』こんどはいくつか、真実を混ぜ込みながら、『ひょっとすると、またどこかで、お会いできるかも知れませんね』


 それから彼女は、富士夫のネクタイピンの場所――クローゼットのちいさな引き出し――を教えると電話を切った。最後にひと言、


『きっと、すてきな奥さまなのでしょうね』


 と、そのピンの贈り主を、こころの底から尊敬するような感じで。彼女も彼女の病気については知っていたが、それについては、それでも知らないふりをして。そうして――、


     *


 ブー、ブー、ブー、ブー、

 ブー、ブー、ブー。

 ブー、ブー、ブー、ブー、

 ブー、ブー、ブー。

 ブー、ブー、ブー、ブー、

 ブー、ブー、カチャ。


「もしもし?」


『おつかれさまです。深山です』


「なんだ、はやいな。見つかったのか?」


『ひかりちゃんは?』


「え? ああ。めし食ったら落ち着いたのか、いまは風呂にはいってる」


『そうですか。結論から言うと、見付かりました、祥平くん。内海祥平くん』


「え? 本当にはやいな。どこにいた?」


『ご自宅です』


「自宅? 自分で戻ったってことか?」


『そこははっきり分かりませんが、家の様子を盗聴く限り、おそらくさっきの男みたいに――』


「飛ばされて戻っ……うん? いや、でも、それなら誰が?……って、ああ、いやいや、でも、無事もどったのなら取り敢えずは――」


『あ、いえ、部長。実はそこからが問題で――』


 と、それからしばらくして祝部優太は電話を切った。深山の報告が確かなら、それはやはり、なんらかの能力者のちからか、あるいは、自分も見た空間移動――あれも誰かの能力だろうか?――の影響による可能性が高い。ひかりが原因? いや、それなら、あの全裸男が消えたとき、ひかりはあの場にいなかった。この周辺一帯でなにかが起こっているのか? それとも――、


 かちゃ。


 とここでリビングの扉がひらき、問題の娘・祝部ひかりがはいって来た。風呂上がりのねまき姿で、まっ白なバスタオルで髪を拭きながら。「お父さん?」


「お、どうだ? あがったか」優太は応えた。出来得る限りの明るい声で、「どうだ? ちょっとは落ち着いたか?」


「いまの電話」ひかりは訊いた。優太の問いには答えずに、「いまの電話、千島さん?」


「あ、あー」優太は言った。必死で頭を回転させつつ、「実はあいつに――」


 実はあいつに、念のため、内海くんの家の様子を見に行ってもらったんだが、


「なんだあの子、家に戻ってたそうだぞ」と肝心の部分は言わずに答えた。「なんだかとても、疲れた様子で――」


「ほんと?」ひかりは叫んだ。ちいさく。優太の言葉を遮って、「ほんとにほんと?」と優太の顔のすぐそばで、名前のとおりの明るい笑顔で、「千島さんがそう言ったの?」


「あ、ああ」優太は続けた。そんな彼女をとても美しく想いながら、「きっと、文化祭の準備で疲れて、ひとり勝手に帰ったんだろう」必死で言葉を、ウソでもいいから言葉を、彼女のための言葉を選びながら、「お前はなにも、悪くなかったってことさ」


「お父さん!」ひかりは叫んだ。ふたたび。今度はすこし大きな声で、「よかった! ほんとよかった」ギュッと彼を抱き締めながら。


「あ、ああ、そうだな」優太は応えた。一瞬、抱きしめ返そうかとも想ったが、「あ、おい、こら、髪がびしょびしょじゃないか」と彼女をひき離し、「ほら、あっち向け、拭いてやるから」と彼女のタオルを奪い取った。


「でもよかった。ほんとよかった」ひかりは続けた。父に頭を拭かれながら。


「そうだな」優太も続けた。ふたたび言葉を選びながら、「彼が無事で、俺も安心したよ」


 そう。今回の事件が、果たして何によるものなのかはまだ分からないが、それでも彼が、内海祥平が、消えたり亡くなったりしなかったのは優太にとっても幸運だった。何故なら、もし彼が、ひかりの同級生である彼が、消えたり死んだりしたとしたら、きっと“会社”は、ひかりのことを疑い出し、調査し出すだろう。それもきっと、私や深山や小紫以外の人間を使って。


「お父さん?」ひかりが言った。「ごめんね、心配させて」


「うん?」優太は言った。「ま、いつものことだよ、お姫さま」彼女にタオルを返しながら、「それより髪はちゃんと拭け。風邪でもひかれたら、そっちの方がこまる」



(続く)

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