その6
その予感は、南西の方角からやって来た。
と、このシーンにたどり着くまでの事情を知っているこの作者などは書けてしまうのだが――何故ならこのシーンの舞台は石神井公園けやき広場から見て北東の方角に位置するから――、しかし、実際にこの予感を受けた当の本人にしてみれば、それは、どこからともなくやって来るちょっと不思議なテレパシー、ちょっと奇妙な虫の知らせみたいなものであって、
「なんだろ? これ?」と、てんとう虫の羽音や、冬のとおい夜空に見える人工衛星の痕跡のような、そんな“ちょっと不思議”で、だけど自分にはあんまり関係がないようなもののように想えていた。
が、しかし、その予感は、なんだか分からないまま、そのままだんだんこちらへと近づいて来るし、彼女が感じていた“ちょっと不思議”もそれに合わせて、“漠然とした不安”へと変わっていた。そのため、
「うーん?」と彼女・佐倉八千代はうなると、その“漠然とした不安”が何であるかを考えようとした。が、考えられたのはそこまでだった。
と言うのも、前話でも書いたとおり、彼女が働く喫茶店、青い扉の『シグナレス』は、今日も今日とて満員御礼、食事もドリンクも彼女の笑顔も飛ぶように売れ、彼女も、彼女の相棒木花エマも、今日も今日とて満身創痍、ぐったりとした身体で最後のお客さまをお見送り、やっと自分たち用のコーヒーを淹れたところであったからである。
「どしたの? ヤッチ?」と、そんな彼女の“漠然とした不安”を感じ取りでもしたのだろうか、木花エマが訊いた。両手にカップを持ち、休憩室へと入って来ながら。
「え? あ、うん」八千代は応えた。エマからカップを受け取って、「なーんか、イヤな感じがしない?」
「イヤな感じ?」エマは訊き返した。八千代の横のカウンターチェアに腰掛けようとして、
バヂリッ。
となにかの開く? 閉じる? 一瞬開いて一瞬閉じたような、そんな音を彼女は聞いた。音は、天井からである。ふたりは、一瞬顔を見合わせ、ふたり同時にそちらを見上げた。そうして、
ドザッ。
とそこから出て来た? 落ちて来た? 出て来た瞬間落ちて来た物体、というか人物をふたりは見た。それは、その人物は、ほんの最初の数秒だけだが、ちいさな光を放っていた。彼を見詰めるふたりに言葉はなく、彼女たちは、特に木花エマは、胸の奥底で騒ぎ出すもの――あ、いや、これはまぎれもなく嫌悪感なのだが――を感じていた。
「ほへ?」
とエマが奇妙な音を出し、彼女たちはそのまま、両手をゆっくりわきへと下ろした。淹れたばかりのコーヒーが床にこぼれて流れ出したが、気にする気にもなれなかった。
その人は、男性だった。
と言うか、中年のおっさんだった。
と言うか、毛むくじゃらの全裸男性だった。
と言うか、《壁》から落ちた拍子だろうか、うら若き乙女たちには絶対に見せてはならぬものをしっかり見せて倒れている、山岸富士夫(42歳・妻子あり)だった。
「きゃ」八千代がちいさな叫びをあげ、
「ぎゃぁああぁあぁあぁああああ!!!!」とエマがおおきな叫びでそれに続いた。
そうして――、
*
「ぎゃぁああぁあぁあぁああああ!!!!」
とまた別の場所、別の時間でも、同じような叫びを上げるものがいた。いつ? どこで? だれが?
そう。そこは、あらゆる時間から切り離された暗い虚無空間で、そのまん中ほどには、ポツンと立つ灰色の修道院があり、そうしてそこのとてつもなく高い高い塔の内側を堕ち続け叫び続けているのは、例の赤毛のエイリアン、ミスターそのひとであった。
「おいッ!」彼は叫んだ。塔の真下に集まろうとしている修道士たちに向かって、「毎ッ回! 毎ッ回!」なんで全員集まってから呼びつけないんだよ?!「さっさとッ! このッ! 空間ループをッ! 解除しろッ!!」
と言うのも彼は、山岸まひろあるいは樫山ヤスコのところから飛ばされてからこっち、彼ら七人の修道士が集まり切るまでの1.5時間ほどを、延々、延々、エーンエンと、この高い塔の中を堕ち続けさせられていたからであるし、
『ひそひ、そひそひそ、ひ、そひそひそひそ。』
と、至聖所に集う修道士は、自分たちにしか聞こえぬ声でなにやら相談ごとをしている様子で、ミスターの声も届いているのかいないのか、届いたうえで無視しているのか、彼の方を見上げもしないからであった。
「おいッ!」彼は叫んだ。ふたたび。「六人! いるじゃないか!!」改めて修道士の数をかぞえながら、「すこしはッ! 融通をッ! 効かせろッ!!」
しかしそれでも彼らは、彼ら同士の相談ごとをくり返すだけであって、
『ひそひそひそひそ、ひそひそひそ。
ひそひそひそひそ、ひそひそひそ。
ひそひそひそひそ、ひそひそひそ。』
その間も赤毛男は延々、延々、エーンエン、
「ぎゃぁああぁあぁあぁああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
と、塔の中を堕ち続けさせられており、さすがの彼もよほど腹に据えかねたのか、上着の胸ポケットから、例の間違った形のラチェットレンチを取り出すと、
「お前たちがッ! そのつもりならッ! こっちにだってッ! 考えってもんが――」
そう何事かを仕掛けようとしたのだが、その直後、
とっぉおーーーーーーーーーん。
というナニカの弦の切れる音がして突然、七人目の修道士が至聖所に到着。のこり六人の修道士もそれに気付くと、これまた突然、
ドッォオーーーーーーーーーン!!!
と、我らが赤毛エイリアンをその床に叩きつけるのであった。
「いってーーーーーー」と身もだえるミスター。「鼻ッ、鼻ッ、鼻ッ、メキョッ、メキョっ、メキョッて!!!」と床にぶつけた白い鼻を手で押さえ修道士たちに文句を言おうとするが、「突ッ然! ループをッ! 止めるバカが――」
『窓が、ひらい、たまま、だ』と最後に現われた修道士が声を発し、と同時に彼の口をギュッと封じた。
「んーッ ッ んーッ」口をふさがれ何も言えないミスター。すると、
『魂の、ゆきき、がとま、らない』また別の修道士が彼に伝え、
『おま、えの仕、事使命、はどうな、ったか』さらに別の修道士が彼に訊いた。そうして、
『とま、らぬど、ころか、はやまっ、ている』
『宇宙、はそれ、ぞれで、安定すべ、きもの』
『魂の、ゆきき、がそれ、を狂わせ、ている』
『おま、えの仕、事使命、は何であ、ったか』
と矢継ぎ早に彼に現状の説明を求めるのであった。
『これ、はおま、えのノ、ゾミのぞ、み望み
を叶、えるた、めでも、あるのだぞ』と。
『彼ら、の姪は、救けら、れたのか?』と。
『彼女、がキー、きいギ、イ鍵だぞ?』と。
『おま、えの希、望彼ら、の娘には、ゴウッ
ゴゴ、ゴゥッ、合流出、来たのか?』と。
『崩壊、を止め、られな、ければ彼、女のい
のち、いや存、在は救、けられない』と。
そうして――、
*
「ぎゃぁああぁあぁあぁああああ!!!!」
と木花エマは叫んでいた。ひき続き。先ずは手もとのマグカップを、次にテーブルの上の週刊誌を、それからそこの消しゴム等々を、手当たり次第、突如あらわれた全裸の中年男性に向かって、必死で投げつけながら。
「ちょ、ちょっとお嬢さん、落ち――いてッ お、落ち着きなさい、お嬢さん」
と全裸の中年男性は言った。目を覚まし、立ち上がり、マグカップの当たったおでこのあたりを気にしつつ、しかし自身が生まれたままの姿であること、彼の男性自身がぶらぶらぶらぶら、マルッとまる見えになっていることには気付かずに、そんな格好で可憐な乙女(に見えなくもない少女)ふたりににじり寄る姿はまさに変態のそれでしかないとは、想いも寄らない様子で、
「だからッ! モノを投げるのはッ!――いって! やめなさい!」
と全裸の中年男性・山岸富士夫は続けた。段々目が慣れて来たのか、ひき続き飛んで来るノートや座布団やワンプレート皿(樹脂製)を器用に避けながら、
「突然! おっと。現われたのは! うわっと! あやまるが! 私ッ! にもなにがなんだか分からな――って、あ、こら、刃物はやめなさい! 刃物は!」
もちろん富士夫も、一応まとまな社会人であり、この年頃の女の子が中年男性に必要以上の恐怖心や嫌悪感を持つのは分かっているつもりだし、しかもそれが突然目の前に現われたとあっては、取り乱すのも仕方ないことだと分かっているつもりではあるが、だからと言ってこれでは話し合いにもならな――おっと、ホッチキスが飛んで来た――ならないし、仮に警察でも呼ばれたりしたら面倒だ。どうにか穏便にここから抜け出したいのだが――っと、フォークやナイフも避けようと想えば避けれるものだな――と、なんだかんだと冷静な感じに考える彼は、ここで、これら無数の凶器を投げ続けて来る少女とは別に、この部屋にもうひとり、不思議な空気を持つ少女がいることに気付いた。
彼女は、おとぎ話のようにまっ赤な髪と、富士夫と同じかそれ以上の長身、それに少女というよりは少年にちかい印象をしており、なんだかとても面倒なクロスワードパズルにでも出くわしたような表情で富士夫の顔を――けっして首から下には目をやらないよう注意しながら――見詰めていた。
「お嬢さん!」富士夫は叫んだ。「そこの! 赤毛のお嬢さん! すまないが! 君からもお友だちにやめるよう言ってくれ!」
「え?」赤毛のお嬢さん・佐倉八千代は応えた。一旦、クロスワードは横に置き、「あー、でも、えー、そのー」モゴモゴモゴモゴ。なんと言えばよいのやら、「それにはまずは、おじさんに――」
「なに? なんだって?」
「あのー、そのー、まずはソレを――」
「ソレ?」
「したの方にあるソレを……、その……、隠して頂かないことには……」
「は?」
とここで富士夫は動きを止めた。ようやく。ちいさな両目を下へと向けて、
「なっ?」とどうにか気付きつつ、「お、お、お、こ、これ――」妻と幼い子どもたちの顔が目の前を通り過ぎ、「フ、フル、フル――」そう言い掛けた瞬間、
チー――――ンッ!
と、飛んで来たフライパン(アルミ製)をそのおでこ、丁度先ほどマグカップを受け止めたのと同じ場所で受け止め、そのまま気絶するのであった。
(続く)




