その3
さて。
樫山ヤスコが暮らす東石神井の町はとても古く、面倒な町で、ことの起こりは平安時代、その地の井戸から奇妙な石が出て来たとこから始まると言うが、詳しい史料もなければそれ以上の調査もされず、そもそもそんな事は、いまを生きる彼女たちにとっては殆ど関係のない事柄でもあった。
樫山ヤスコは三十代。とても若いとは言えないが、かといって年老いているとも言えず、人生は複雑で、なに一つ単純なものはない状態にあった。たとえば仕事とか、お金とか、確定申告とか、とうに別れたむかしの彼女とか、善とか悪とか、突然飛び込んでくる父の訃報とか。
「小紫……さん?」ヤスコは訊いた。どんな表情をすればよいのか未だ決め兼ねているといった表情で、「父の……? 会社の方?」
「正確にはちょっと違いますが」青年は答えた。ひと当たりのよい笑顔とよく通る落ち着いた声で、「お父さま――樫山部長の会社の協力会社の下請けの関係会社の従業員……みたいなところで。それでもずっと、部長にはよくして頂いて、ヤスコさまのお話も、よく聞かせて頂いていました」
樫山ヤスコの父・昭仁は、もとは環境学者であった――と彼女は聞いていた。
専門は環境化学だったそうだが、入った組織が悪かったのか、それとも生来の性格なのか、お声がかかれば、どんな場所にもどんな案件にも気軽にホイホイ首を突っ込んでは付いていく男で、研究範囲も、仕事範囲も、謎の交友関係もどんどんどんどん広がって、結局ここ数年は、地球のどこかを行ったり来たり、家にもまったくもどって来ないような生活が続いていた。いたのだが――、
「まさかそれがエジプトで?」と、未だ表情を決め兼ねている表情のヤスコも言うとおり、「まさか刺されて死ぬなんて」たった十二才の少年に殺されたということであった。
「本当に、なんと言えばいいのか」そうして彼の部下 (のようなもの)、小紫かおるは本日、彼の遺灰と遺品を彼女に届けるため、この樫山家を訪れたということであった。
*
「ま、ひょっとしたらもう会えないかな――くらいには想ってたけどな」その夜、帰宅するなり弟は言った。「それでもまさか、灰になって帰って来るとはなあ」
弟・詢吾とヤスコとは四つちがいの母親ちがい。ヤスコと実母のそりが合わないのと同じように、彼と父との関係も、けっしてよいものではなかった。が、
「結局、直すチャンスもなかったか」と遺灰に手を合わせる詢吾の背中は、それはそれで寂しいもののようにも見えた。「それで? 遺品はそれだけ?」
部屋の隅には、今日の昼間、小紫かおるが届けてくれた、父の古びたトランクケースが置かれていた。濃い茶色の、あちこち傷んですり切れた、世界各地のステッカーが貼られたトランクケースだった。
「他にも服とか資料とか」ヤスコは答えた。「後から送ってくれるそうだけど」父にとって重要なものは大抵、このケースに放り込んでいた――とは小紫の言である。
「うっわ、本だらけじゃねえか」中を見るなり詢吾は言った。ケースの中身の八割は、どこで買ったか手に入れたのか、価値もあるのかないのかよく分からない、きっと世界の各地で集めたのだろう、古びれた本たちであった。
「ったく、色気もへったくれもねえなあ」と詢吾は続けた。「どうする? なんかやたらと難しそうだし、英語ですらなさそうだけど、姉貴もらっとくか? 仕事用に」
ヤスコの仕事は、いちおう物書き・小説家。売れてもなければ有名でもなく、おまけに父の趣味や仕事ともまたちがったジャンルのものばかり書いていたので、詢吾の“仕事用”はまったくの的はずれではあった。あったが、
「ま、一応もらうだけもらっとくわ」とヤスコは応える。「形見っちゃ形見だし」
彼女も物書き連中の例に漏れず、字が書いてあるものなら何でも――例えばそれが、海苔の佃煮の瓶のラベルでも――取り敢えず読んでみるタイプの人間であった。
それから彼女は、本の間に隠れてみえる他の形見類――予備のメガネやホテルからくすねて来たタオルなど――を引っ張り出そうとし、「うん?」と小さな木箱を見付けることになる。
*
木箱の中に入っていたもの。
それは、碧い水のような惑星のような、しかし傷ひとつない、気泡ひとつない、すばらしいカットガラスの首飾りで、しかもそれには、「ヤスコへ。」とだけ書かれた一枚の白い紙切れが付いていた。
「それだけ?」詢吾が訊いた。「説明とかは?」
「これだけね」ヤスコは答えた。装飾具の類にはまったく興味のない彼女であったがそれでも、永久に凍り付いた雪のような白バラのようなその輝きに目を奪われながら、「こんな高そうなもの、どうしたのかしら?」
「あんたへのプレゼントだろ?」詢吾は言った。「よかったじゃねえか、もらっとけよ」
「うん?」ヤスコは応えた。首をかしげながら、「そう? ね。そうよね、うん」と、何かしらの違和感・既視感をおぼえながら、「ただ、うちで一番の高級品になっちゃうかも」
「たしかに」詢吾が笑った。あたりを見回し、「泥棒とか、入られないようにしないとな」
そうしてその夜、樫山家に侵入者はあった。
*
「それでは、無くなっているものはないんですね?」と、痩せて年老いた警察官は訊いた。「お姉さんにも、弟さんにもケガはない?」
「ええ、はい、それは」詢吾は答えた。「正直、本当に泥棒が入ったのかどうかも、すぐには分からなかったくらいで――」
「うーん?」警察官は続けた。静かに腰を屈めつつ、「プロもプロ、本物ですな、こいつは」
裏口のカギを開けてはいるが痕跡は皆無で、「よほど慣れたものじゃないと見落としますし」床を歩いた跡もきれいに消している。詳しい内容は鑑識に頼んでみないと分からないが、
「荒らされていたのは、そのスーツケースだけ?」これがなければ、居たかどうかも分からないレベルで、しかも、「その高そうなガラス? 宝石? には見向きもしていない?」
犯人は侵入後、父のトランクケースへ真っすぐ向かい、お目当てのものがないと見るや、すぐにその場を立ち去った――ように見えた。
(続く)




