その4
「夢?」と山岸まひろはつぶやいた。「夢じゃないよね?」と。
今日いま現在のことを昨日の自分に話してもきっと信じて貰えないだろうけれど、右のほっぺをつねってみても、ギュっと目を閉じ開いてみても、ほっぺは痛むし、目の前の風景にまったく変化は見られなかった。
「なあ、おい、まひろくん」と赤毛の男が訊いた。彼女の横に座り、たっぷりベーコンのサンドイッチを口いっぱいに頬張りながら、「そのパンケーキ食べないんだったら、ぼくにおくれよ」
と、ひょろっと長いその右手を彼女の皿へと伸ばしつつ、ペシンッ。と、その手を叩かれながら。叩いたのはもちろん、山岸まひろである。
「ちょっと、やめて下さいよ」彼女は言った。「せっかく猪熊先生に作って頂いたのに」
「だったらさっさと食べちゃいなよ」赤毛の男は言い返した。叩かれた右手を引っ込めながら、「冷めたら味が落ちちゃうよ」
「それは……、そうですけれど」とまひろは返したが、それでもやはり、未だ目の前の風景が信じられない様子であった。「夢……じゃないんですよね?」
と、言うことで。
まひろが何故ここまで驚き呆れて我を忘れそうな顔をしているのかと言うと、いま、彼女が座っている場所と言うのが、彼女の、と言うか、マンガ好きの、と言うか、練馬区民の、と言うか、日本国民全員の、と言うかッ、全世界の憧れのッ! と言うかッ! ヒーローッ!! と言うかッ!! 希望の星ッ!!! と言うかッ!!! そういうところで!!!! あるところのッ!!!! 超ッ!有名、超ッ!大人気! 超ッ!天才ッ、超ッ!売れっ子、超ッ!女流マンガ家ッ!! カトリーヌ・ドッ! 猪熊ッ! こと、茂木和楽(旧姓・猪熊)先生のッ! 仕事場マンションッッッ! そのッ! リビングルームであったからでありッ!!! しかもッ! いま彼女の前に並べられている朝食類はッ! すっべてッ! 猪熊先生の手作りッ! 愛にあふれたッ! パンに卵にハムにベーコン!! その他もろもろでありッ!! 彼女のアシスタントでもなければマンガの登場人物でもないただの一般人である山岸まひろがッ! こーんな僥倖に巡り合えるなど本来あり得な…………って、え? なに? いま、なにか言いました?…………「カトリーヌ・ド・猪熊とは何者だ?」? …………………………………………は?
え? あれ? え? あれ? え? あー、あれ、ほら、あのッ! 『とってもトレビアン』とか『虹のエリーゼ』とかのカトリーヌ・ド・猪…………知らない?
うん? …………あ、あなた外国のか……生まれも育ちも葛飾柴又? 帝釈天で産湯を使った?
あー、だったらぁ…………、あっ、なんか、こう、マンガとか見ないタイプのオタ……クではない? どっちかって言うと、マンガもアニメも新旧問わずよく見ている?
えー、でもでもだったらあ、カトリーヌ・ド・猪熊を知らないなんてあり得ませんよぉ。いいですか? そもそも天才・カトリーヌ・ド・猪熊が世に知られたのは、彼女が若干17才の時、そのとき初めて持ち込みした短編『トントンの行進』が向学館の――、
*
※編者注
実はここから、この作者による読者並びに全宇宙へ向けた、『カトリーヌ・ド・猪熊とは一体何者か? なぜあれほどまでに偉大か? 日本の、世界の、宇宙の、マンガ、アニメ、音楽、メディア、政治、経済、宗教、お料理、その他もろもろにどれほどの強く善い影響を与えたか?』の説明が二十三万字ほど続いていたのであるが、流石にそれをそのままここに載せて置いたら訳が分からなくなるって言うか、それもう小説じゃあなくなるって言うかなので、その辺の説明は泣く泣くカットさせて頂きたいと想う。が、もし、その辺気になる奇特な方とか居られるようであれば、この作者の中~長編小説『カトリーヌ・ド・猪熊のバラの時代』を読んで頂ければ、大体そこに似たようなことが書かれてあるので、それで十分代替可能かと想われますし、そもそもここでこの作者が言いたかったのは、単に、それほどまでにこのマンガ家の先生が凄くて偉くて有名で、しかも何故だか、この奇妙な赤毛の男とも顔見知りであった、と言うことなんですね――うん。本編に戻りましょう。(注1)
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と、言うことで。
これでどんなにド低(*検閲ガ入リマシタ)で、マンガリテラシーの少ない玉な(*検閲ガ入リマシタ)郎であっても、猪熊先生の偉大さが分かって頂けたかと想いますし、であればこそ、どうしてここまでまひろくんが緊張しているのかも分かって頂けたかとは想いますが、更に、それに加えて、何故彼女がいまの状況を、「夢? じゃないよね?」と繰り返し疑っているのかと言うと――、
「ふーん。それでこの赤毛の馬鹿とひと晩話し込んだあと、ここまで連れて来られたんだ」とテーブル向かいに座る女性が、「でも君、ほっんとカワイイ顔してるわね。どう? こ・の・あ・と♡ こんな宇宙人ほっといてさ、わ・た・し・と♡ あんなことやそんなことを――」
とまあ、なまめかしい胸の谷間&小悪魔どころか大悪魔的フェロモン全開でまひろくんにアプローチをかけて来たからですし、かと想えば、
「おい、こら、ミア」と彼女の横に座る男性――こちらはハンプティダンプティ的巨体の中年男性なのですが――が、「ゴメンね、まひろ君。こいつ、若い子見るといっつもこうしてからかうんだよ」
と、なんだかこちらは、天使みたいな清らかオーラ&キレイな白い歯でほほ笑んでくれたりしたからなのですが、それに加えて、
「ちょっと恵一、ジャマしないでよ」と女性は言い、
「うるせえ、お前のそれでどれだけの若人が道を誤ったと想ってんだ」みたいなことを男性は返すワケですが、
「しょうがないでしょ、それが私の仕事なんだから。ノルマ稼がないと、ノ・ル・マ」
「ウソ吐け、お前このまえも、「どうせ上の奴ら、報告書すら見てないわよ」って言ってたじゃないか。「だから、いくらサボっても平気」って」
「それはそれ、これはこれよ。この私の? 悪魔の? 内面からわき起こる? 人間を堕落させたいっていうパトス? リビドー? 本能ってやつが――って、あ、なに、ひょっとして恵一、あんた妬いてんの? 私が若い子に――」
「はあ? 誰がお前なんかに妬くか、この悪魔」
「はいはいはいはい、分かる分かる、分かるわよ、恵一ちゃん。私のこの美貌が罪なのよね、悪魔だけに。あーもー、かわいいでちゅねー、恵一ちゃんはー」
とまあ、朝も早よから、他人の家のリビングでイチャコライチャコラいちゃつきやがるこの二人、見た目や性格、会話のテンポなんかも全部含めて、それこそ猪熊先生のマンガ『天使の時間』シリーズに出て来る主役コンビにそっくりだったからなのでもありました。まひろ君はくり返します。
「夢……じゃないよね?」とふたたびホッペをつねりつつ、「いてッ」とちょっと嬉しそうに、「夢……じゃないんだあ」と。
って、あ、そだ、ちなみに。問題の赤毛の馬鹿エイリアンと“ひと晩話し込んだ”まひろ君ではありますが、結局のところ彼が話したのは、訳の分からない与太話(地球を滅ぼしに来たプラスチック生命体から彼がどうやってこの練馬区を守ったのかとか、そういうの)ばかりであり、彼がいったい何者で、何故まひろ君のことを知っているのかとかその辺の情報はまったくゲット出来ておらず、そういうことも彼女が現状を、「夢? じゃないよね?」と疑う原因のひとつともなってたりしますが――とここで、
「はいはいはいはい、スープお待たせ」と問題の猪熊先生が、人数分のトマトスープを持ってテーブルへとやって来ます。「ごめんねー、まひろくん、なんだか騒々しくって」
こちらの彼女は彼女で、昨日やっと五徹(五徹?)の締切り地獄から解放、そこにまるで、合わせたかのようにこのバカップルが、犬も喰わない痴話ゲンカのために来訪、そうして更には、
「その人があなたを連れてやって来たでしょ?」と赤毛の男を指しながらの彼女。「ずうっと、連絡ひとつ寄越さないくせにさ」ほんとはた迷惑ではあるけれど、それでも、「ま、なんだか同窓会みたいで嬉しいけどね」
と言うことらしかった。こういう駆け込み訴え的来客はしばしばあるし、彼女もそれに慣れているのだと。そうして、
「それで?」とここで先生。テーブルに着きながら、「それで今回は、なんの相談なの?」と赤毛の男に聴きます。が、
「相談?」と赤毛は応えます。今度は目玉焼き乗せトーストにかぶりつきながら、「いや、特にはないよ。お腹空いたから来ただけ」
「え? そうなの?」とすこし驚く先生。
「うん。そうだよ」とホッペにケチャップを付ける男。
「だって、」とそれから先生。まひろの方をちょっと見て、「ヤス――」と言い掛け言葉を切って、「――じゃないの?」と目だけで男に問い掛けます。問い掛けますが、
「あー、まあ、それはそうだけどね」と赤毛エイリアン。まひろの方は敢えて見ず、「こればっかりは当人たち次第だから」
「ふーん」と先生。「まあ、ミスターがそう言うならそうなんでしょうけど……」
「おかげでぼくも」とエイリアン。「あっちの家にはまだ行き難く――」と一瞬考え、「あ、でもそう、そうだな」
「なに?」
「あの、ほら、石橋さん。例の“お告げ行政書士”――あの人の名刺か何か貰えないかな? 先生」
(続く)
(注1)
と言うことで、念のためその『カトリーヌ・ド・猪熊のバラの時代』のリンクだけ張っておきますので、気になった方は読んでやって下さい。赤毛のエイリアンやエッチな悪魔お姉さまとかも登場するので。
https://ncode.syosetu.com/n2198ir/




