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その1


 ジリリリリ、

 ジリリリリリリリ、

 ジリリリリリリ、


 と、とおくの何処かで古くさい電話機の鳴る音が聴こえ、祝部ひかりは目を覚ました。窓の向こうに途方もなく大きな月が見えた。


 月明かりの中、彼女はベッドから起き上がった。とおくの何処かの電話機は、すでに誰かが出た後だった。酔っ払いか、妻に先立たれた男か、妻に先立たれ酔っ払っている男の声だった。


 祝部ひかりは、一瞬そこが何処だか分からなかった。が、すぐに、窓に置かれたクマのぬいぐるみから、ここがいつもの自分の部屋、いつもの世界の自分の部屋であることを理解した。クマは、幼かった彼女が、泣きながら養父にねだったものだった――うん。ここは、いつもの、いつもの私の世界だ。



 『まったく気らくにやってるさ、

  クイーンの消えたトランプで。

  かべの花などかぞえてみたり。

  ひとつ、ふたつ、みっつ……』



 妻に先立たれた男が歌っていた。とおく何処かのキッチンで。とおく何処かの誰かに向かって。


 祝部ひかりは窓辺に立つと、彼女のクマを抱きしめようとして、その左腕がほのかにひかり輝いていることに気付いた。まるで左腕全体が、強い静電気を帯びた何かに巻き付けられているようだった。



 『まったく気らくにやってるさ、

  クイーンの消えたトランプで。

  かべの花などかぞえてみたり。

  ひとつ、ふたつ、みっつ……』



 酔っ払いの歌は続いていた。月が明るさを増した気がした。何故なら彼女の部屋は、まるで真昼のように明るくなっていたから。が、しかし、


「え?」となって彼女は気付いた。その明るさが月の光でないことに。「なんで?」


 ハッとなってふり返ると、そこには《窓》があった。彼女の目の前に。その内側に前とはちがう――一時間ほど前に見た限りなく玄色にちかい朱色の闇とはちがう――あらん限りの光の集合体を見せ付けながら。



 『まったく気らくにやってるさ、

  クイーンの消えたトランプで。

  かべの花などかぞえてみたり。

  ひとつ、ふたつ、みっつ……』



 妻に先立たれた酔っ払いの歌は続いていた。バラと毒ガスとくわえタバコの夢を見ながら。


 《窓》の向こうにいつもの街が見えた。いや、正確には、彼女の住むこの街によく似た別の街の風景が、いくつもいくつも折り重なっては振動し合い、微妙な揺らぎの不協和音を奏で合いながら、そこに見えていた。


「ちょ、ちょっと待って」彼女は叫んだ。小さく。何故なら彼女の光る左腕がその《窓》の方へと引っ張られて行く感じがしたからだし、実際彼女がそこで脚を踏ん張ってみても、左腕は《窓》の方へと近付いて行ったからである。「なによ?! いったいなんなのよ!」


 《窓》の向こうの風景は、いつしか彼女の住むこの家へと近付いていた。もちろん、彼女の住むこの家によく似た別の家たちが、いくつもいくつも折り重なっては振動し合い、微妙な揺らぎの不協和音を奏で合いながら近付いて来るのだけれど――あちらは昼間だった。



 『まったく気らくにやってるさ、

  クイーンの消えたトランプで。

  かべの花などかぞえてみたり。

  ひとつ、ふたつ、みっつ……』



 酔っ払いの歌は続いていた。何度も何度も何度も、妻に先立たれながら。何度も、何度も、何度も、彼の愛したその人は、きっと二度とは戻らないのに。



 『ひとつ、ふたつ、みっつ……

  みっつ、よっつ、いつつ……

  いつつ、むっつ、ななつ……

  ななつ、やっつ、ここの……

  ひとつ、ふたつ、みっつ……

  みっつ、よっつ、い…………』



 突然、酔っ払いの歌が途切れ、祝部ひかりは《窓》へと引きずり込まれた。「ひかりちゃーん!」と叫ぶ清水朱央の声が聞こえた気がした。が、その声はたったひとつのものだった。「やっぱり僕――」


 彼女はまだ、その言葉の続きを聞いていなかった。聞いておけばよかった。なぜ聞いておかなかったのだろう。なぜ聞けなかったのだろう。と、彼女はとてもかなしい気持ちになった。胸が締め付けられた。口がかわき、いまにも涙があふれ出しそうになった。そうして――



 ジリリリリリリ、

 ジリリリリリリリ、

 ジリリリリ、



 と、とおくの何処かで古くさい電話機の鳴る音が聴こえ、祝部ひかりは目を覚ました。


「えっ?」と想って彼女は、すぐにベッドから起き上がると、部屋の窓の外を見た。窓の向こうには途方もなく大きな月――は見えず、いつもの静かな街の風景が、ただただひとつ、見えているだけだった。


「夢?」と祝部ひかりは自分を納得させようとしたが、今度は彼女の身体全体が、まるで強い静電気を帯びた毛布で包まれているように小さく震え、彼女の両腕は、青白い象牙のようにひかり輝いていた。そうして、


     *



 ジリリリリ、

 ジリリリリリリリ、

 ジリリリリ、



 と、とおくの何処かで古くさい電話機の鳴る音が聴こえ、左武文雄は目を覚ました。が、そこには月もなければ窓もなく、もちろん《窓》も存在しなかった。


 そこはうす暗い、まるで何処かの病院か、なにかの研究室のようだった。彼はその中央の、硬いベッドの上に寝かされていた。手足はしびれ上手に動かず、身体もそうっと起き上がることすら出来なかった。どうやら頭と手足をなにかで固定されているようだった。


「*****、****」とここで、ベッド脇の何者かに声を掛けられた。よく聴き取れなかった。目だけを動かしそちらを見ると、先ほど居酒屋で知り合った女性だった。彼女は続けた。「***、****、*******」


 が、この次の言葉も左武には上手く聴き取れなかった。彼女は続けた。


「***、****、*******、**―*、****」


 が、しかし、こちらもやはり、彼には上手く聴き取れなかった。左武文雄は、動かせない頭のまま、どうにか顔の表情だけでその旨を彼女に伝えようとした。がしかし、


「*****、*******、***ッ*。**―*、****、**っ*、****――***?」


 とどうやら彼女は、喋るのに夢中なのか、それともこちらの返事に興味がないのか、ある種必死で滑稽な左武の訴えに対しまったく気付かぬ様子であった。左武はどうにか口をひらき声を出せないものかとそれを試みようとしたが、そこに、


「※※、※※、※※※※※」女性の背後から、彼女に声をかける者がいた。もちろん左武には、その言葉も聴き取れなかったが。それでも、その男が彼女に何かを話しているのは分かった。男は続けた。「※※※※、※※※※※※?」


「**? *******? *****っ*」女性は応えた。


「※※※※、※※※※?」男は言った。


「**、****、*******」女性も続けた。


「※※※、※※※※、※※※※※※?」


「*―、********、*******」


「※※※※、※※※※」


「**ッ、***っ*、****」


 どうやら男は、左武のこの症状に気付いたらしく、その解消のため、女性に何事かを指示している様子であった。女性が言った。


「********? ********」


「※※※※」男は応えた。「※※※※、※※※」


 不思議なことにこの間、彼らの発する言葉以外の周囲の音――壁の時計や彼らの呼吸、ベッド脇の奇妙な機械や空調設備の鳴る音等――を、左武はしっかり、聴き取ることが出来た。


「※※※※※※、※※さん」と男が直接、左武に声を掛けて来た。「※※※※、※※※※、※※※※※※※――」


 と同時に、左武のすぐそばにいた女性は部屋の隅へと下がって行った。


「※※※※、※※※」男が女性に言った。「※※※※※※、※※※※、※※※ズだが」


「**、****で、」女性が応えた。少々不満げに。両手を前で組みながら、「***なら、*****で――こ**どうで*か? 部長」


「※ん、※※、※※い。試してみるよ」男も応えた。ふたたび左武の方を向き、「どうです? 左武文雄さん。聴き取れてますか? 私の声。聞こえていたら、まばたきをして下さい。三度」


 “部長”と呼ばれた男は、年の頃なら四十前後、地味な吊るしのスーツを身に着け、まっ白なシャツとこちらも地味な紺のネクタイをしていた。左武はまばたきをした。男に言われたとおり。三度。男は続けた。


「ああ、よかった。どうも彼女も初めてのケースだったようで」


 彼の身長は気持ち高めで、筋肉質に見えなくもなかったが、それもどちらも平均的。賢そうな顔をしてはいるが、その賢さはとにかく普通人、人畜無害な善人の賢さのように見えた。


「少々手荒な感じになってしまったのは謝りますがね」男は言った。なんだか、とても優しい家庭人といったような声だった。「こちらにも色々と事情がありましてね。しかしご安心下さい。すこしの検査と、ふたつみっつの質問に答えてさえ頂ければ、すぐにお帰り頂けますので」


 それから男は、壁の女性を一瞥すると、不器用な愛想笑いをひとつしてから、みたび左武の方を見た――もちろん、


「もちろん」と。同じ不器用な笑顔のまま、「もちろん、ここでの記憶は消したうえでですが」



(続く)

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