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その17


 それはなにか、古い陶器を想わせるような白くなめらかな建物だった。背後には海へと続くなだらかな果実畑が見え、建物のまわりにはバラ色レンガで出来た小さな壁がいくつか、アンバランスな距離を保って置かれていた。そこは、《櫻の園》と呼ばれていた。


 が、しかし、そこに櫻の木はなく、その代わりに、というわけでもないのだろうが、そこに至るための石段には、先ず最初に《仮初めの平和》という文字が、そうして最後に《目を上げ、空を仰げ》の文字が刻まれていた。


 祝部ひかりは、いつも、その石段を、その石段に言われるがままに目を上げ、空を仰ぎながら登り、そうして登り終えていた。


「すみませーん。**ですがー、お野菜をお届けに参りましたー」


 この時の彼女はいまと同じ十六才だったが、その身体はいまのようなやせ型ではなく、あまりにも頑健な身体つきの、がっしりとした感じの少女であった。採れたばかりの野菜を、お供のロバと同じくらいは担いで上がれるほどの。


「ああ、いつもすまないね、**のお嬢さん」


 建物の扉が開き、老齢の司祭がひかりとロバとを修道院の中庭へと招じ入れた。本来彼ら修道士は、女性を遠ざけるべき存在であるが、このような土地でそんなことを言っていては生きてはいけないし、彼らが彼女を遠ざけることの方が主の御心に反する。そうこの院の司祭も他の修道士たちも考えていた。


「お父さまは? お元気ですかな」老齢の司祭は訊いた。他の修道士を呼びながら、「その後、腰の具合は?」


「司祭さまに頂いたお薬ですっかり」祝部ひかりは答えた。出て来た修道士たちに野菜を渡しながら、「ただ、今は大事を取って、山を登るのは控えております」


 もちろん彼女は魅力的な女性であった――腕も脚も彼らより随分と太かったがそれでも――バラ色の頬ときちんと撫で付けられた栗色の髪、金と褐色の混じり合った瞳は大きく、濃いバラ色の大きな口からは、絶えず楽しげな笑い声が聞こえていた。


「そうですか、それはよかった」老齢の司祭は続けた。すこし言い難そうに、「お兄さまの方は?」


「相変わらずですよ」彼女は答えた。殊更に楽しげな声となるよう注意しつつ、「相変わらず、出歩いてばかりです」


 彼女の兄は――それでも彼女はその兄が大好きだったが――村の飲んだくれのひとりであった。母親はとうの昔に死んでたし、彼は彼の父親とよく喧嘩をしていたし、彼は、父親のいないところで、妹をよく殴りつけてもいた。


「あっははははははは」彼女は笑った。楽しげに。「大丈夫ですよ、司祭さま。兄も私のことが大好きなんですから」


 ある時彼女は、唇を切り、目に黒あざを、身体のいたるところに黄色と青色のうち傷を作って、ここに野菜を運んで来た。


「どうしたんですか? お嬢さん」老齢の司祭は驚き、彼女を彼の部屋に入れ、傷を手当てしてやった。それは当然、病院に行かなければならないほどの傷だった。が、しかし、


「いいんです。大丈夫なんです。司祭さま」と彼女はわらった。笑顔と、唇を歪めながら。これは彼女の兄がしたことであって、自分が病院なんかに行けば、ひょっとすると警察が、彼を連れて行ってしまうかも知れない。それは、彼女には耐えられないことなのだと。


「しかし、それは……」老齢の司祭は言った。


 彼は、孫ほども年の離れた彼女の傷を手当てしながら、そんな彼女を憐れに、また美しく想い、なにか手立てがないものかと考えたのだが、当人たちがこれ以上踏み込むなと言っている以上、あとは主の御心にすがるほかない。老齢の司祭はそう考えると、生まれて初めて、主の御心を疑うことになった。なったのだが、それでも結局彼は、遠巻きながらも彼女を見守り、いざと言う時のアジール、避難場所に自分が、この修道院がなれれば――と、そう願うことにもなった。


「知ってますか? 司祭さま」途方もなく大きな月が宙を覆ったある初夏のこと、東から来て道に迷ったという旅の商人が彼に言った。「***の村で、《窓》が現れたそうですぜ」


 老齢の司祭――清水朱央が、彼女の死を報されるのは、この翌早朝のことである。



(続く)


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