その2
さて。
宇宙の誕生はいつか?
それは、読者の皆さま――西暦二千年代初頭の地球人類の皆さま――が持たれている諸々の観測結果を用いて計算するのであれば、今からおおよそ、138億年前のことである――標準的な膨張宇宙モデルを適用するならば。
そうして、その後宇宙は、プランク時代、大統一時代、インフレーション時代……、等々という様々な時代を経由し経過し、いま我々が見ているような宇宙にまで成長した――らしい。ちょっと問いをくり返してみよう。
宇宙の誕生はいつか?
さて。
この問いにはひとつ重要な抜け漏れがある。それは、ここで問われている《宇宙》が、どの宇宙を指しているのか、という抜け漏れである。
と言うのも、いま我々が暮らしている《この宇宙》以前にももちろん宇宙はあり、我々の《この宇宙》は、その宇宙に産んでもらったものだからである。
そう。
先ほど書いた「138億年前」という数値は、あくまでこの宇宙においての数値であり、またそうして、おそらくこの宇宙も、その存在を消滅させてしまう前に、また別の宇宙を生み出すのである。
そう。
それは例えば、大きな風船から、また別の小さな風船がいくつも作り出され、さらにその小さな風船たちからもいくつもの小さな風船たちが作り出される、そんな光景にも似て、親の宇宙からは子の宇宙が、子の宇宙からは孫の宇宙が……と、きっとほぼほぼ無限に、宇宙は産まれ続け、どこまでもどこまでも続いていくのだろう――もし、何も起こらなければ。
そう。
実はいま、これら宇宙の存在を脅かすある事態が進行しつつあった。ある宇宙の、ある銀河の、あるパッとしない太陽系の、さらにパッとしない惑星の、さらにパッとしない地域の、ある大きな、面倒な事件を発端として。
『宇宙の、均、衡、を取り戻さ、なければ』
と先ほど七人の修道士も言っていたが、ではその均衡を狂わしたものはなにか?――ある人物の夢を見てみよう。
*
そう。
いま、山岸まひろは、あらゆる時間と空間の中に解き放たれていた――少なくとも、いま見ているその夢の中で。
山岸まひろは、その解き放たれた時間と空間の中で、先ほど述べたいくつもの宇宙を自由に――というよりは無意識的――というよりは行き当たりばったり的に――というよりはランダム的且つ痙攣的に――行き来していた。
山岸まひろは、年老いた老婆となって床に着き、花のさかりに目を覚ます。
シルクのネグリジェを直しながらベッドを脱け出すと、九才の少年にもどって扉を叩く。
鏡の前で髭を剃ろうとし、豊かな黒髪に櫛を入れると、また別の扉が開く。
兄のひとりが彼女に、あるいは姉のひとりが彼に声をかけ、彼あるいは彼女は、三十二才の誕生日と、二十七才の誕生日、それに本当に生まれた日の誕生日と自身の死――数ある中のその一パターン――を同時に、ランダム的且つ痙攣的に、観測し、経験する。
そう。
山岸まひろは、多元宇宙を行き来する奇妙な並行次元旅行者であった――少なくとも、いま見ているその夢の中では。
そうしてこの旅は、先ほども述べたとおり、ランダム的かつ痙攣的かつ行き当たりばったり的であり、そのため彼あるいは彼女にその旅のコントロール権はなく、必ずしも、と云うかまったくほとんど、その旅程は楽しいものではなかった――とっても大変、こまったことに。
彼女は戸惑い、出遅れ、そこで出会う人たちの誰にも心を許すことが出来なかっ――あ、いや、これは言い過ぎだった。
そんな夢たちの中で彼が安心できる場所、人物がただひとつ、ひとりだけあった。
それは、坂の上の小さなお家で、そこにはきっと彼女の恋人が、彼の帰りを待っているのである。首を長くして、お腹を空かして。
が、しかしこの夢たちは必ず、「※※※さん」と彼女が恋人に声を掛け、「ただいま」と彼女に言おうとしたところで、いっつも破られることになるのであった。というのも、
「うっわぁああああああああ!!!」
と奇妙な男が、叫び堕ちて来るせいで。そうして――、
*
ハッ。
となって山岸まひろは目を覚ました。
ドッシーーーーーーン!!!
という大きな音にうしろをふり返った。
「ここはいったい?」
彼女は想い、そうしてすぐに、そこが彼女の祖母が暮らす花盛りの家のリビングであることに気付いた。窓の外で白と黒の雪が祖母の花たちの上にふり続いていたからである。
床を見ると、ボッロボロの服にだっさい感じのデジタル時計をした青年が――赤い髪に白い丸顔の外国人の青年が――倒れていた。
「いってー」青年は言った。床をのたうち回りながら、「なっんで、あいつら、いっつもいっつも、こんなジャンプをさせるかねえ?」
それから彼は、戸惑うまひろに気が付くと、
「あれ?」と言ってこちらを見上げた。「まひろくん?」と、彼女の足の先から頭のてっぺんまでをジーッと見つめながら、「だよな? ……君だけ? ……※※※ちゃんは?」
そうして――、
*
ハッ。
となって山岸まひろは目を覚ました。ふたたび。今度も彼女の祖母が暮らす花盛りの家、ただしその二階の物置き部屋で、窓の外では、風薫る初夏の景色が並んでいたけれど。
「なんだい。ここにいたのかい?」部屋の入り口で祖母が訊いた。「呼んでも返事がないから心配したよ」
「ごめん、ごめん、おばあちゃん」山岸まひろは答えた。ベッドから起き上がり、「気が付いたら寝てたみたい」
「まあ、ずっと使ってたベッドだしね」祖母が笑った。「あんたら兄妹、よく取り合ってた」
山岸まひろは四人兄妹の末っ子。上に三人兄がおり、この二階の物置き部屋は、かつての彼らの子ども部屋でもあった。
「また、同じ夢かい?」続けて祖母が訊いた。
「うん」まひろは答えた。どうにか彼女の――夢の中の恋人の――輪郭を想い出そうとしながら。彼女のことは、祖母にだけは話していた。「結局また、変な男に邪魔されたけど」もちろん赤い髪の男のことも。
「そうかい、そうかい」祖母はわらい、「でもその男も」と何かを言いかけたところでハッとなって壁の時計を見つめた。「あんた、そろそろ行く時間じゃないかい?」
「あっ」とまひろは叫んだ。ちいさく。「やばい」と部屋から飛び出しながら、「また兄さんに叱られちゃう」
一番上の兄、富士夫との約束があったのを、彼女はすっかり忘れていた。
(続く)




