その15
家の明かりが見える角まで清水朱央は送ってくれた。「ひとりで大丈夫よ」と祝部ひかりは言ったが、それでも、バーガーショップを出るころには日もとっぷりと暮れ、「やっぱり心配だから」と、なんだか本当に心配している様子で彼は言った。「じゃあ、もうちょっと。お話でもしながら」そう言って彼女は答えた。
祝部ひかりは、なんだかずっとわくわくして、なんだかずっとそわそわして、そうしてなんだか、ずっと地面に足が着いてくれない、そんな感じを覚えていた。夕暮れが星のカーテンを降ろしたり、背後から素敵なBGMが流れて来たり、気の利いた冗談を彼が言い出したりすることもなかったけれど、それでも。それでも、買ったばかりのスニーカーは、おとぎ話に出て来る繻子かガラスの靴のようだったし、見慣れた街の風景は、美術の教科書で見た印象派のようだった。
そう。
実は彼女はこれまでの――この世界におけるこれまでの――人生において、一度も恋というものをしたことがなかった。
そう。
そのため彼女は、彼女の友人たちが恋について話すとき、あるいは恋する相手について話すとき、不機嫌、とまではいかないまでも、それでもちょっと、押し黙る傾向にあった。
*
「ねえねえ、お母さん」あるとき彼女はこう訊いた。彼女の家の台所で。大量のピーカンナッツを剝きながら、「恋をするってどんな感じ?」
「へ?」突然の質問に母親は、手にした木の実を二個とも床に落としそうになったが、それでもそれらを持ち直すと、「なによ、いきなり」と笑って彼女に訊き返した。「ひょっとして、好きな子でも出来た?」
「うーん?」彼女は答えた。「別にそんなんじゃないけどさー」と。「最近みんな、そんな話ばっかでさ」と。付いていけない自分はおかしいのではないか? と。
「そんなことないわよ」母親は答えた。「ひとそれぞれ、会うべき時と、会うべき人は違うものよ」ひかりにはまだ、その会うべき時と人が来ていないだけよ、と。
「お父さんと会ったときは?」続けて彼女は訊いた。「どんな感じになったの」
「はじめて会ったとき?」続けて母親も答えた。「なんだか冴えない、ぬぼーっとした人だなあ、くらいにしか想えなかったわね」
「えー」残念そうに娘は言ったが、
「でもね」そう言いながら母親は続けた。殻を剥く手を止め、なんだかうっとりした目になって、「それからしばらくして、たまたま一緒のバスに乗って、それでちょっと長く喋ることがあったのよ」
最初は当たり障りのない話しかしなかったのだが、そんなことが何度か続き、そのうち、彼の好きな音楽や、彼女の好きなお料理の話をするようになったのだと。そうしてそのまま、ついついずうっと、夢中で話し込むようになっていったのだと――「でもね」とここで母親は笑う。
「でもね、それでもきっと、お父さんの方が先よ、恋に落ちたのは」
もちろんそれを証明する術はないが、それでも結局、彼女もそのまま恋に落ちた。ほんの数日のちがいで。
「なんだかじんわりしてくるのよ、こう、胸のあたりがさ」と、ひき続き彼女は言った。口を半分ポカンと開けて、「それから足のうらの感覚がなくなっていくの。道を歩いているのに、なんだか雲の上にいるみたいになるの」
「ふーん?」娘は応えた。すこし呆れて、すこし憧れて、そうしてすこし、残念そうに――だったら私は、
「だったら私は、恋ってやつをまだしたことがないのね」と。「これまで会ったどの男の子からもそんな感じは受けたことがないし」また、「本当にそんな感じになれるのか、自信もないわ」と。
「大丈夫よ」母親は応えた。すこし笑って。それからすこしほほ笑んで、「会うべき時に、会うべき人に会えれば、きっとあなたも、同じように感じられるはずよ」と。そうして、
*
「ほんとありがとね、遠回りさせちゃって」と祝部ひかりは言った。家の明かりが見える角へと立って、「でも、おかげで楽しかったわ」と、なんだか足のうらがむずむずとした。
「うん。僕も楽しかったよ」朱央は応えた。彼女の顔を、いまだ真っすぐとは見られなかったけれど、それでも、「気を付けて帰ってね」
そうしてふたりは別れた。「また明日」とか、「また、『ウィリアム書店』で」とか、どうでもいいような言葉をいくつか発してから、互いが互いの帰る方角に向かって。
祝部ひかりは、むずむずとした足のまま、自宅の前までたどり着くと、それでもなんだか、足はむずむずとしたままだったので、一、二歩下がって、いま来た道をふり返ってみた。
「朱央ー!」と、とつぜん彼女は叫んでいた。自分でも気付かぬうちに。大きく手を振りながら、いまにも雲の上まで昇りそうな勢いで、「どーしたのー?」何故ならそこに、彼がまだ立っていたから、「なにか忘れものー?」
「ひかりちゃーん!」彼も叫んだ。こちらもこちらで、ちぎれんばかりに手を振って、「やっぱり僕――」
が、そこで突然、《窓》は開いた。彼女の目の前の、その内側に、限りなく玄色にちかい朱色の闇と、そのずっと向こうに、あらん限りの光の集合体を見せながら。そうして――、
*
ブー、ブー、ブー、ブー、ブー。
ブー、ブー、ブー、ブー、ブー。
と、内ポケットのスマートフォンが鳴り、小紫かおるはそれを取り出した。相手の名前を確認し、
コホッ。
と周囲にひとつせき払いを聞かせてからそれに出た――「もしもし?」声のトーンを明るく変えて、
「もしもし? 小紫ですが」実際すこし浮かれ気分の自分を、実際自分で苦笑しながら、「どうかされましたか? お嬢さん」
電話の相手は、いまの彼の調査対象のひとり、樫山ヤスコだった。
『あ、いえ、これと言った用事はないのですが』電話向こうでヤスコは応えた。『父のことで、二~三質問というか、もしお心当たりがあればと想いまして――』
「心当たり?」かおるは応えた。口に人差し指を当て、音を立てないよう周囲に注意を促して、「たとえば、どんな?」
『あ、はい』ヤスコは続けた。なにやら言葉を選びながら、『たとえば、例のペンダントについて、あれをどこで手に入れたのかとか、なにか……なにか、こう、“いわく”のようなものがあるのか? とか』
「“いわく”?」かおるは応えた。声のトーンが落ちそうだったので、「あ、いえ、特には」と改めてそれを上げながら、「カイロかどこかで手に入れた、みたいなことは言っていましたが――」そうしてこちらも、探りも入れながら、「なんです? あのペンダントになにか問題でも?」
『あ……、いえ、あ、いえ、全然』そうヤスコは応えたが、そこにはなにか、ウソや隠し事があることが直ぐに分かった。『ちょっと、なんと言うか、やっぱりとっても高価なものにも見えるので、例えば盗品とか? だったらイヤだなあ、とかですね』
「なるほど」かおるも応えた。「でしたら大丈夫ですよ」と、彼女のウソや隠し事には、まったく気付かぬふりをして、「部長――樫山さんは、その辺とてもまじめな方でしたから」と、こちらはこちらでウソを吐きつつ、「他には? ペンダント以外にもなにか?」
それからヤスコは、父・昭仁のエジプト時代の仕事や関係者、遺品の中にあった書籍などについて、いくつかかおるに質問し、かおるはかおるで、彼女が知っているであろう以上の情報を彼女に与えないよう注意しつつ、それらの質問に答えた。
「なるほど」苦笑が漏れそうになるのを押さえながらかおるは想った。「きっとこの女は、根が正直過ぎるのだろう」ウソを吐きなれている自分にとって彼女のウソは――あ、いや、止めておこう。
「それではどうでしょうか?」かおるは訊ねた。こちらはきちんと声に出して、「また明日、お宅にお伺いするというのは?」きっと彼女は何かを見付けたのだ。例のペンダントか、あるいは例の手帳について。「お父さまの遺品を見れば、もっとなにか想い出せるかも知れませんし」
『え?』ヤスコは言った。一瞬とまどった様子を見せたが、それでも、『あ、はい。小紫さんさえよければ――』
そうしてふたりは、明日の午後遅くに会う段取りを決めると、取り留めのない会話をいくつかしてから電話を切った。切る直前ヤスコが、
『あ、それと』と、まるで本当にいま想い出したかのようにつぶやいた。『《灰原》さん? についてなんですが』
「灰原?」かおるは訊き返した。不意を突かれた様子で、しかしすぐにそれは隠して、「――って、誰でしたっけ?」
『あの、ほら、父の手帳に書いてあった、唯一まともに読めた』
「あーあー、あれ、あれってそうでしたっけ?」
『ええ、はい、やっぱり人の名前かなと。もしお心当たりとかあれば、そこからなにか――』
「あー、いえ」かおるは応えた。すこし否定が早過ぎたかも知れないが、「あの後すこし考えてみましたがね、特に心当たりはなかったですよ。少なくとも、私の知っている限りでは」
『あ、そうですか』ヤスコは言った。かおるの言葉を正面から信じているかのように、『ですよね。知ってたらあの時言ってくれてたはずですもんね』
そうしてようやく、彼らは電話を切った。今度は本当に。
「ふー」と、小紫かおるは深いため息を吐いた。周囲の者に目配せをし、仕事に戻るよう促した。
これほどの伽藍堂から改めて何か新しいものが出て来るとは到底想えなかったが、それでも、
「どうだー?」彼は訊いた。しっかり声を上げて、周囲の作業服の男たちに。「なにか、手掛かりになりそうなものはあったか?」――この部屋の住人、あるいは元住人、《灰原神人》について。
(続く)




