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その14

「天台?」と山岸まひろは訊き返していた。「アイツとは縁を切るって話じゃなかったの?」と、兄の富士夫に向かって。明らかに非難するようなトーンで、「それがなんで、また会いに行くって話になるんだよ」


「“縁を切る”なんて言ってないぞ」と富士夫は言い返した。「先ずは親父が、なぜあいつとの付き合いを続けていたのか、その理由を知りたいとは言ったがな」


 ここは、彼らの祖母が住む花盛りの家の一階リビング。先般まひろが、樫山昭仁なる人物が書いた奇妙なレポートについて、その理由はよく分からないものの、祖母の意見を聴こうと想い訪れたところであった。であったが、何故かそこには富士夫も来ており、彼は彼で、天台烏山との付き合い方について、祖母の意見を聴こうとしており――、いまのやり取りへとつながるのであった。とここで、


「相済みません。聞かれなかったもので、つい……」とこの家の居候・赤い顔の男は言った。彼は先般、まひろからの電話を受けた張本人であるが、「おふたり同時に会われた方がサキコさまも喜ばれるかと想いまして……」


 この男の声と言葉には、基本いつもウソがまぎれ込ん――あ、いや、彼はいつでもウソを吐き、そこに時折り真実をまぎれ込ませて来るのだが、そのため彼のそんな言葉は、周囲に無視され、聞いたのに聴こえていないということがよくあった。まひろが続けた。


「でも、いちど会いに行ったんだろ?」とまるで、いまの男の言葉がなかったかのように、「なんでそこで終わらせなかったんだよ」


 前にも何度か書いた通り、天台烏山あるいは天台烏薬なる人物は、この地を中心に活動する事業家で、いわゆる暴力組織とも付き合いのある不動産王で、彼の会社や関係者には泣かされたという人のうわさは後を絶たず、そんな男と彼らの父に繋がりがあったと言うだけでもまひろには衝撃であり嫌悪でもあったのだが、それを、


「まさか兄さんが引き継ぐってわけじゃないよね?」どんな付き合いだったか知らないけれど、「絶対、面倒に巻き込まれるって」


「会ったと言っても今日の昼間、ご挨拶に伺っただけだ」富士夫は応えた。色つやの戻った彼女の声に安心したのか、こちらはこちらで、いつものあの、偏屈そうな声と態度に戻りながら、「たしかに色々、うわさの絶えないひとではあるがな」しかし実際、顔を合わせてみると、なかなかどうして、好人物に見えないこともない。自分ひとりの判断では相手を見誤ることになるかも知れないので、「それでこうして、おばあさまの意見を伺いに来たんだ」


 しかも富士夫は、また後日食事に行きませんか? と天台に誘われたのだという。


「はあ?!」と、とうとうまひろは叫びそうになった。がしかし、


「あたしの意見が参考になるかどうかは分からないけどね」とやっと彼らの祖母・山岸咲子が口を開き、まひろの叫びはそこで止められることとなった。「善人か悪人かって訊かれたら、そりゃまあ、あのひとは悪人さ。だけどね、それでも、ま、それでも、“本物の悪人”ではないよ、あのひとはさ」


 そうして、ここまで言うと彼女は、するすると伸びた鼻の先をトントントン。と三度、なんだか思慮深げに叩くと、「だが、まあ、だからと言って、」そう言って続けた。


「だが、まあ、だからと言って、本物の悪人が善行を成すこともあれば、本物の善人が悪行を成すこともある世の中だから、なんとも言えないんだけどね、ホントはね」


「おばあちゃん?」まひろは訊き返した。すこし、イラッとした感じで。「結局、天台とは付き合った方がいいの? 悪いの?」どうにもなんだか、祖母の話が長く、変な感じに入り組みそうだったからである。


「へ?」祖母は応えた。伸びた鼻に当てていた人指し指を、今度はなんだか、やたらと長いその顎の先へと移動させながら、「そんなの、距離と程度の問題でしかないよ」まひろではなく、富士夫に向かって、「どれ位の距離で、どれ位の力で、相手をどれ位動かせばいいのか? 善人の行いを悪行に変えるのも、悪人の行いを善行に変えるのも、当人以上に、結局はまわりの問題だろう?」――あんたならその辺、自分で見極められるだろう? と。そうして――、


     *


「ふーむ」


 とつぶやき、左武文雄は休んでいた。問題の病院の、患者のいない病室で。目を閉じ、椅子に座り、腕を組みつつ、壁によりかかるようにして。幸い、というか奇跡的に彼にケガはなく、彼の上司の小張千秋も……、あ、いや、彼女はあの後階段でこけて足首を捻挫したのだが……、ま、ただまあ、それでも、彼女もまた、無事ではあった。


 そうしてまた、例の少女、パウラ・スティーブンスの方も――こころの傷の深さはやはりそれでも分からないが、それでも――大きな外傷もなく、小さな声で左武に、「ありがとう」と言ってくれたことは、彼をうれしくさせたし、また安心もさせてくれた。「また、救けてくれて」少なくとも今の彼女には、声を出す元気はある様子だった。そうして、


「俺への取り調べは、まだまだ先か?」


 と左武文雄は想っていた。聴きに来るのは右京か他のメンバーか、いずれにせよ、小張の話を先に聴いているのだろうが――「喋り出したら止まらねえからな、あの人」


 壁掛けの時計を見、深く息を吸い、ふたたび目を閉じると、先ほどよりも深く、彼は壁によりかかった。が、この時である、左武文雄が初めて、あるいは再び、この世界から別の時空へと解き放た――いや、弾き飛ばされ、引き戻されたのは。


 そう。


 ここで、このとき、彼の意識は、これまでのここでの人生を、巨大な弧を描きながら急速にバックステップし出したのであり、そうしてそのまま、彼の意識は、限りなく玄色にちかい朱色の闇の中へと突入して行くわけだが、その闇は、我々が知る最も近い概念で言えば《死》であった。《死》そのもの、であった。が、ただしそれが、左武本人の《死》であったかどうかは議論の分かれるところではあるのだが、それでもとにかく、そこには誰のすがたもなく、何物をも見えなかった。あるのはただ、限りなく玄色にちかい朱色の中にいるという実感と――ウォオゥオォーゥムという唸りだけだった。そうして――、


     *


「は?」


 と次の瞬間、左武文雄は、ふたたびの人生へと引き戻されては引きずり込まれていた。もちろんそれは、過去でもなければ未来でもなく、彼の誕生以前あるいは死亡以後の人生、いつかどこかの何者かの人生であったのだが、彼は寝転んでいた。毛布かなにかをかぶって。先ほどまでとは違う病院の、見たこともないベッドの上で。何故ならこの暖かな春の日の午後、彼の母親が彼の見舞いに来ることになっていたからであるし、彼は戦争で右脚を負傷し、こころにも大きな痛手を負っていたからである。


「あら、もう、困ったわね」と、これまで見たこともなければ会ったこともない母親が彼に言った。「いつになったら、毛布から顔を出してくれるのかしら」


 彼女はずっと、彼女が見舞いに来るタイミングで、彼が昼寝をしてしまうのだと、純真素朴にそう想っていた。なんとも純真に。なんとも純真素朴に。そうして、その事が彼の病状を更に悪化させていくことになるわけだが、それでも彼女はそこにいた。彼女がそこにいる間中ずっと、彼の病状は悪化の一途であったが、それでも。母は若く、いまの左武よりもすこし若く、純粋で、素朴で、彼のこころの傷は、戦争で負傷したからでも、戦争で敵を殺したからでも、戦争で仲間を見殺しにして逃げたからでもなく、幼いころに父親が与えた躾のせいだと想っていた。ずうっと、彼女らしい、白ゆりのような純真素朴さでもって。


「それじゃあ今度は、次の棕櫚の日曜日に来ますからね」と言って彼女は部屋を出て行った。「今度は起きててね、かわいい坊や」


 母親の足音が消えてからやっと左武は顔を出した。ベッド脇のテーブルには彼女が置いて行った飲み掛けのコップがあった。水が半分ほど残っていて、その水が彼を責め立てていた。母親の期待に応えられない彼を、苦労して自分をここまで育て上げてくれたのは彼女だし、彼女はただただ純真素朴に、彼の復調を願っているだけなのに、それを憎々しく想ってしまう彼自身を。そうして、そう考えると彼は、そう、考えると彼は、そう、考えると、彼は、余計に混乱し、狼狽し、ガラスのコップを叩き割り、その破片で首を切って死んでやろうかとすら想ったが、実際のところ、彼女の声と彼女の水は、彼からそれを行なうだけのやる気すらも奪っていた。とここで、


 カラ。


 と扉の開く音がして、年配の看護師が病室に入って来た。


「あら、**さん」彼女は言った。「起きてらしたんですね」とそれから、「さっき廊下で」とそう言い掛けたが、「あっ」とすぐになにかに気付くと、それをやめ、天気やなんかの、当たり障りのない話題へと移って行った。きっと左武の母親から「息子をよろしく」とか「私が来たことを」とかなんとかかんとか伝言を頼まれていたのだろうが、それは言ってはならないことだと、決して言ってはならないことだと、彼女の直感は彼女に伝えていたのだろう。代わりに彼女はこう言った。


「咲いたんですよ、昨日。まっ白い、きれいな、今年初めて、裏庭に。ウラムの花が」


 左武はなんだか、救われた気がした。


 彼女は、小柄だがガッシリとした体格の女性で、肌は浅黒く、顔の真ん中の鉤鼻が多少目立ちはしたが、子どもは二人で、先ほど救けたパウラ・スティーブンスとは似ても似つかなかったが、それでも彼にはすぐに分かった――ああ、なるほど。


「ああ、なるほど」とベッドに横たわり、見上げる彼女の美しい瞳と、快活なその表情から、「この人が、彼女なんだな」と。そうして――、


     *


「おい、こら、左武、起きろ」と呼ぶ同僚の声で彼・左武文雄は引き戻された。今度はこちらの、みたびの人生へと。「やっと小張さんの話が終わったぜ」と同僚――右京海都は続けた。「今度はお前の番だ、なにがあったか話してくれ」


 壁の時計に目をやると、あちらに行く前と三分と変わっていなかった。“ウラムの花”がなにか、彼には見当も付かなかった。



(続く)

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