その12
男を見付けたとき左武文雄は、自分でも気付かぬ中に、腋下の拳銃を抜いていた。そうして、前後に足を開き、射撃姿勢に入ろうとしている途中で、
「は?」と一瞬我に返ったが、それでも続いて、銃を持った利き腕を前に伸ばした。今度は意識して。そうしてそれから、曲げたもう一方の手で銃身を安定させようとしたところで、
「左武さん!」と、彼にどうにか追いついた小張千秋が叫んだ。が、これに対して左武文雄は、
「下がって!」と、こちらもほぼ無意識に、彼女に向かって叫び返した。「どこか! 陰になるところに隠れて!」
もちろん。この叫びは、彼女の身を案じてのことであるが、それと同時に彼は、自分が何をここまで恐れているのかがよく分からないでもいた。いや、正確には、身体では理解していたが、頭がそれに追い付いていない状態であった。何故、こんな古くさい刑事ドラマみたいな構え方をしているのか? それも含めて。
「彼女を!」彼は叫んだ。続けて。伸ばした手の先を見据えながら、「いますぐそこからはなせ!」
と言うのも、彼らが探していた少女、パウラ・スティーブンスが、誰も彼女に触れていないにも関わらず――いや、たしかにそうとしか見えないのだが――うす暗い病院の壁に高く吊るされ、押さえ付けられていたからである。
「聞こえたか!」左武は叫んだ。ふたたび。自身の目にはいって来る情報と、自身の他の感覚器官――例えば肌や小腸――から受け取る情報の間に奇妙な違和感・差異を感じながら、「彼女を! そこから下ろすんだ!」
が、彼の叫びに対して問題の男がしたことと言えば、壁のパウラ・スティーブンスに向けて上げた右手はそのままに、ちら。とこちらを一瞥しただけであった。
「おい!」みたび左武は叫んでいた。そうして、「聞こえたのなら!」そう言い終わるか終わらぬうちに、
チャッ。
と彼は引き金を引いていた。もちろんこれも、正確に書くのなら、相手の強さ、凄みを理解した彼の身体が、なかば強引にそれを引かせたのではあったが。そうして――、
ドッ、
ドッ、
ドッ、
と、発射されたのは三十八口径の弾丸が三つ。まる見えの相手の右腕と右肩、それに右の大腿部を狙って。きっと、そこを撃てば、壁に吊るされた少女が解放されると踏んでのことだろう。が、結局それらは三つとも、相手の男に命中――いや、届くことすらなかった。
「は?」と左武は目を疑った。陰に隠れていた小張も。
と言うのも、彼の銃の腕前は署でも上位。この距離で外すことは先ずないし、仮に外れたとしても、その銃弾は、男の向こうに見える病院の壁や柱に当たるはずである。であるのだが、奇妙なことに、その銃弾は、左武と男の間、うす暗い廊下のその中間辺りに留まっていたからである。
「あ?」今度は彼は目を疑わなかった。疑うひまがなかった。それは確かに、そこで止まっていた。直ぐに構えを直し、改めて銃口を男に向けた。装弾数は全部で五発。残るは二発。うす暗い廊下の中、その先にいる男を見た。
男は細身で、背が高く、手足はひょろっと長かった。くすんだ色のシャツに青いジーンズを履き、白い肌にグレーのハンチング、そこから覗く横顔は、今まさにいばらの冠を載せられんとする若き預言者のように――彼には見えた。
「顔か? 頭か?」左武は考えた。ふたたび撃鉄を起こし――一瞬、わき腹を狙う方が“らしい”のかもと想ったが、それでも――、そこから見える相手の後頭部に狙いを定めようとした。が、その瞬間、彼はなぜ自分が、こんな昔の、古くさい刑事ドラマみたいな構え方をしているのか、その理由に想い至った。
「左武さん!」小張が叫んだが、この叫びを彼は、遠い何処か、なにか別の宇宙で響いているネオンライトのようなものとして受け取っていた。
そう。
彼が古くさい構えを取った理由。それは、プレートキャリアやボディアーマーが発達した現在、実践においては、いま左武がしているような、半身になる構え方ではなく、射撃方向に対し身体を正面に向ける射撃態勢が主流になっているのだが、これは、その方が左右どちらにも銃を向けやすく、また利き腕による左右への撃ち分けの差が出にくいからである。
であるが、先述のボディアーマーの話からも分かるとおり、その構えは相手に対し身体の面積を広く向けることになるため、逆に被弾しやすい構えでもあり、それはつまりは、いま、左武がしているような半身に構える射撃姿勢の方が、左右への振りは難しく、利き腕による撃ち分けの難しさもあるにはあるものの、“敵”から見える身体の範囲は狭くなり、その分被弾率は下がるのである。
そう。
そうしてこれが、この時、防弾ベストなどを着用していなかった左武文雄が、この射撃姿勢を取った理由でもあった。
「ウソだろ?」左武文雄は想った。どうにかこうにか身体をひねりながら。先ほど撃った三発の弾丸、空中で止まっていたそれら三個の鉄の塊が、まるで問題の男が指を振るのに合わせるように、再び動き出したのを見ながら。男を中心に見事な弧を描き、今度はそのまま、自分の方へと飛んで来るのを確認しながら。
*
さて。
祝部ひかりと清水朱央の若いふたりが――たぶん偶然に――小学三年以来の再会を果たしてからこっち、ふたりの仲は急速に――とはいかないまでも、一応ローカル線各駅停車並みの速度で確実に――近付いている模様は、これまで書いて来た通りである。であるがもちろん、この手のラブコメ・恋愛小説――じゃないけどね、このお話――の定番・テンプレ展開として、そんなふたりの淡い恋路を邪魔する存在・事件というのも、もちろんちゃんと描かなければならない。テンプレだから。
なのでそのため、その「邪魔する存在」なるものもこの作者は探さなければいけないわけだが、先ず、その一番の候補者としてあがる人と言えば、それはもちろん、祝部ひかりの親バカ親父・祝部優太である。であるが、しかし、彼には今後も、このお話の「ラブコメ・恋愛小説ではない」部分で、ひかりや朱央にとっての重要な役回りをして頂かなければならないため、ここでは舞台の後景に引いて頂くとして、彼の次に候補にあがる人々としては、例の“筋肉デブ”こと内海祥平くんや、ひかりの元親友・先名かすみさんになるわけだが――と言ったところで、
「あっははははは」と祝部ひかりは笑っていた。学校帰りのバーガーショップで、一番安いコーラなんかを飲みながら。こちらとなかなか目を合わせない相手の顔を、「かっわいいな、こいつ」とかなんとか想いながら。
「そ、そんなにおかしいかな?」と問題のお相手・清水朱央は言ったが、彼は必死だった。必死にアイスコーヒーを持ち、必死にひかりが気に入りそうな話を探し、必死にそれが面白くなるような喋り方を考えていた。必死に。だけれど彼女の顔もまっすぐには見られないまま。何故なら、まっすぐ見てしまうと、自分の顔がまっ赤になってしまいそうだったから。
「おっかしいわよ、そのひと」続けてひかりは笑った。そんな朱央の様子こそおかしいと想いながら、「ねえねえ、もっと聞かせて、その伯父さんのこと」
「う、うん」朱央は答えた。必死のコーヒーを必死にひと口すすってから、「それから彼は、中央動物園のキリンに会いに行くことになるんだけれど――」そうして――、
「ねえねえ、あれ、祝部さんじゃない?」と髙山浩子はつぶやいていた。ひかり達と同じ店の反対側で。壁際の席に座って、隣にいる風見千尋に向かって、「相手誰だろ? 彼氏かな?」
高山浩子は祝部ひかりの同級生。風見千尋はその親友で、浩子と同じブラスバンド部に所属していた。
「え?」風見千尋は顔を上げた。スマートフォンから目を離しつつ、「祝部さんってアレだよな、最近祥平が熱上げてる」
「え? そうなの?」髙山浩子は身を乗り出した。千尋の方に。声のトーンを下げながら、「そんなの、はじめて聞いた」
「あー、まー、学校じゃあんま言ってないかもな」風見千尋は答えた。「うちであいつと話してるとやたら名前が出てくんだよ、最近。祝部さん。ひかりちゃん? だっけ?」
風見千尋と“筋肉デブ”こと内海祥平は家が近所の幼なじみ。両親ともども仲が良く、互いの家にもよく行き来しており、下手なラブコメなら胸キュンエピソードのひとつやふたつ、甘酸っぱい夏の想い出やホワイトクリスマスなんかもみっつやよっつ、普通にあってもおかしくなさそうだが、
「え? やだよ、あんな男くさいさわやかマッチョマン」と千尋は言うし、
「こっちもやだよ、あんなサイコパス」と祥平くんも言うように、「あいつ小学生のとき、俺のキ(*検閲ガ入リマシタ)叩き潰そうとしたんだぜ、バットで、笑いながら」
こちらのふたりの恋の欠けらは、まったく、全然、これっぽっちも、その萌芽すら認められない状態であり、しかもこちらの千尋ちゃん、祥平くんも言うとおり、なっかなかのサイコパスちゃんでもありまして、
「へー、かっわいいじゃん、ひかりちゃん」となにやらなにかがピンと来たのか、持ってたスマホを望遠カメラに切り替えると、「アレはたしかに、祥平好きだわ」と言って、
カシャッ。
「あ、ちょ、ちょっと、ダメよ、千尋」と止めようとする浩子の声も無視しつつ、
「いいから、いいから」と撮った写真をそのままメール、「ちょこっとあのバカ、からかうだけだから」と祥平くんに送ってしまうのでありました。「なあ、おい、祥平、知ってるか?」との書き出しで、ひかりと朱央の仲睦まじさを盛りに盛っては捏造&偽造、純真素朴な祥平くんがドギマギドギマギ、夜も眠れなくなってしまうような文章を書き添えて。
「あーもー、本気にしちゃったらどうすんのよ、内海くん」と浩子は続けてとがめたが、
「大丈夫、大丈夫」と言って千尋は笑うだけでした。「あとでちゃんとフォローしとくよ」
が、結局これが、後々面倒な事態を引き起こす引き金ともなります。と言うのも、千尋の送ったこの写真と文章が、彼女の想像以上に純真素朴な祥平くんのハートを掻き乱しに掻き乱しまくったから――だけではなく、何をまかり間違ったのか、
「ねえねえ、かすみ」と、祝部ひかりの元親友・先名かすみさんの目にも留まることになったからでありました。
(続く)




