その10
『神よ、願わくば私に、
変えることの出来ないものを、
受け入れるための落ち着きと、
変えることの出来るものを、
変えて行くためのゆうきと、
そうしてなにより、
変えられぬものと、
変えるべきものを、
常に見分けられる賢明さを、
どうか、どうかお与えください。』
壁にはメモが貼られていた。まだ新しいオフホワイトの、丁度その真ん中に。丁寧、と云うよりは神経症的と言ってよいほどの、精緻かつ正確な文字で。壁の白よりずっと白い真四角な紙に、四隅をピンでキチリと留めて。
「なんだ? これは?」と小紫かおるはそれを読んでいた。首を斜めに傾けながら、「宗教? か、なにかだよな?」
ここは、彼と彼の雇い主が見つけ出そうとしている《灰原》なる人物の――その五人目の候補者の――1DKのマンションである。であるが、
「灰原……神人?」かおるはつぶやいた。ひとりで。声に出した方が落ち着くから。「写真は……?」壁のメモから目を離し、スマホの資料を眺めた。「写真は……ない?」
“会社”が、どのようにして彼や彼女らを候補者として挙げたのかは分からないが、これまでの四人の候補者やその居場所に比べると――先ほど行った大泉町の《灰原》は、気のよさそうな、チワワと暮らす老婦人だった――、この五人目の住処は、明らかに様子がちがっていた。というか、およそ人が住むには殺風景に過ぎた。
厚手のカーテンで外の光はさえぎられ、キッチンには小さな冷蔵庫がひとつ置かれているだけ。食器や調理器具の類もなければ、たったひとつの居室には、机やテレビ、ベッドもない。床には一組、こちらも神経症的丁寧さで畳まれた布団があるだけだったが、きっと他には、髪の毛はおろか、ほこりひとつも落ちてはいないだろう。
「灰原……神人?」小紫かおるはくり返した。洗面所へと向かい、タオルや髭剃り、歯ブラシといった日用品がないことを確認した。「27才?」ふたたび資料を眺めながら、「プログラマー?」
ネットやAI、ITだとかにはまったく不案内な自分だが、それでも、
「それでも着替えは? スーツは? パソコンくらいあるもんじゃねえのかよ」
と、床の布団と冷蔵庫、それに壁のメモ書き以外なにもないこの部屋の住人が、普通の人間でないことくらいは分かる。
「ビンゴ?」小紫かおるはつぶやくと、この《灰原》の勤め先を確認しようとしたが、「あ、いや、待て」と言ってその手を一旦止めた。「先に、祝部さんに連絡だな」
かおるのこの判断は、例えば仮に、この《灰原》が“ビンゴ”だったとして、それが彼の手に負えない能力者だった場合、彼がどこで消息を絶ったのか、はっきりと記録に残しておく必要があったからであり、流石のかおるも、この部屋から伝わる異常性に、若干の恐怖を感じていたからでもあった。
でもあったが結局、結果として、この判断は杞憂に終わった。
と言うのも、問題の《灰原神人》なる人物は、この数週間前から派遣先を無断で欠勤、まったくの音信不通となっていたからである。
*
さて。
その病室の壁は全くのスノーホワイトで、何故だかちいさな十字架像がひとつ掛けられていた。しかも、きっと想像力豊かな芸術家のデザインなのだろう、腹には槍が、手には釘が、頭にはいばらの冠が載せられ、こちらを見詰めるその顔は、いままさに無残な死を迎えようとしているところであった。
「冗談にもほどがある」左武文雄は驚き呆れ、いっそ外してやろうかとも想ったのだが、直後彼は、また別の理由で驚き呆れることになった――「なに? なんだって?」と。
ここは、彼が助けた幼い少女、パウラ・スティーブンスが入院しているまさにその病室なのだが、
「消えた? 彼女が?」と左武が訊き返す声に、
「すみません、すみません、すみません」と、その若い看護師は怯えるように答えるだけであった。「トイレに行きたいと言われ、すこし、目を離したすきに――」
この看護師とパウラ・スティーブンスは、気分転換の意味も込め、一階の売店まで買い物に出掛けていたそうなのだが、その途中、二階の廊下で、彼女が忽然とすがたを消したというのである。
「目を離したすきにってあんた!」左武の呆れは怒りに変わり、彼は、先日の惨劇を想い出していた。大きな身体を前に出し、その若い看護師に詰め寄りかけた。ところで、
「ま、まあまあ、まあまあ、左武さん」と、一緒に来ていた小張千秋が、その小さな身体で彼を止めた。「先ずは」と彼と看護師の間に割り込みながら、「先ずは、手分けをして、彼女を探しましょう」と。そうして、
「私の推理を確かめるのに丁度いいかも知れませんし」という言葉も口から出そうになったが、それは流石に部外者の前で言う話でもないし、また少々気が早い感じもしたので、一旦そのまま飲み込むことにした。
*
さて。
問題は、パウラ・スティーブンスのこころの優しさと、後先を考えられない――ある意味年相応の――思考の稚拙さにあった。
そう。
彼女はただただ、彼女と一緒にいると先述の看護師に害が及ぶ――それはつまり、先日の彼女の父母や弟のような目に会うかも知れない、という意味だが――そう考え、先ずは彼女から離れるため、ひとり、そこから消えたのであった。
そう。
彼女は見かけ、感じてしまったから。あの男の姿を、あの男の存在を。
そう。
その男は細身で、背が高く、手足はひょろっと長かった。くすんだ色のシャツにブルーのジーンズを履いて、肌の色は白く、グレーのハンチングを目深に被っていた。そのためその顔は隠れていたが、それでもアイツは、きっと壁のキリストのような顔をしているのだろう――と、その日のパウラには想われた。
そう。
それは何故なら、彼が彼女に、いや世界に向けるまなざし、想いと言ったものが、まさにいま、腹には槍を、手には釘を、頭にはいばらの冠を載せられ犠牲にされ続けている男のそれにとても近かった――そう感じられたからである。
「やあ、お嬢ちゃん」まるで男はそう語り掛けているかのようであった。「この前は悪かったね」そうして、「君だけ残してしまうなんて」と。
きっと彼の予定では、一家仲良く、「あちら」に送るつもりだったのだろう。
*
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、署長、小張さん」と左武文雄は戸惑っていた。
と言うのも現在彼は、先ほどの看護師に院内放送を任すと、病室の前にひとり警察官を配置してから、小張とふたり、問題のパウラ・スティーブンスが消えたという化粧室へと向かっているところだったのだが、
「テレパシー? テレパシーっておっしゃいましたか? いま?」
「ええ、はい。左武さんのテレパシーでパウラちゃんと交信を取ってみて下さい」
と、いっつもおかしなこの女性が、いつにも増しておかしなことを言い出したからであった。
「テレパシー?」左武は訊き返した。
「ええ、はい、テレパシーです」小張千秋は答えた。「超感覚的知覚の一種で、精神感応、遠隔精神反応とも呼ばれる、要は超能力のひとつです」
「はあ……?」
「あ、ご存知ありません? ワッカーマンとか、マイヤースとか、“エスパー魔美”とか」
「え? いや、一応、一般常識並みには知ってはおりますが……」
「でしたら、ほらほら、ちゃちゃっとやってみて下さいよ、ちゃちゃっと」
「はあ……え? いや、だってああいうのは、アニメやマンガの中だけのお話で、実際に存在するものではな――」
「なに言ってんですか、この前ご自身でやっておいて」
「は?」
「例の殺人現場。左武さんがパウラちゃんを見付けたとき、あなた確かに彼女の声を聴いたんですよね? 他の方は何かの勘違いだと仰るかも知れませんが、私にはそうは想えません。左武さんの警察官には不向きなバカ正直さってやつを知ってますから」
「はあ」
「で、その上で、あの家の構造や左武さんとパウラちゃんの位置やその他もろもろを検証してみたんですよ、どうすれば声が届くかな? って。でも、どうやっても無理なんですよね、これが、少なくとも、現代の物理学では」
「でも、だからって、いきなり超能力は――」
「“すべての可能性を除外して最後に残ったもの、それが如何に奇妙なものであっても、それこそが真実なのだよ、ワトソンくん”」
「はあ」
「あら? この言葉知りません?」
「え? いや、私も好きは好きですが……、しかし……、それがいきなりテレパシーってのは……、もっとちがう可能性も検証――」
「ですから、だったらだったで、テレパシーの可能性を試してみて、それがダメなら他の可能性をまた考えればいいだけですから、所詮は推理ですし」
「はあ」
「さあさあ、やってやって」
「でも……、なんで私にそんな力が?」
「さっすがにそこまでは分かりませんよ、超能力者じゃないんですから、私」
「はあ」
「それに正直、その辺のオリジンはあんま関係ないですもんね、今回。パウラちゃんを捜し出すのに」
「はあ……」
「ほら、ですから、ちゃちゃっと、やるだけやってみて下さいよ、ちゃちゃっと」
「うーーーーーん? でも……、実際そんなこと急に言われても……、どうやればいいかも…………あれ?」
「来ました?!」
「え? あ、いえ、でも……、あれ……? これ、あの子じゃないけど……、なんだ? この感じ」
そう。
それはまるで、巨大な善意が悪意に呑まれ、雪のような白が、限りなく闇に近い黒へと替わる直前のナニカ、ある男の意識の波、思考の電子遷移のようなもので、それは確かにいま、何かを狙い、何かを追いかけ捕らえようとしていた。そうして、
「どうです? なにか感じました?」
と小張が訊き終わる前に彼は走り出していた。その闇に侵食され続ける灰色の意識の方へ。何故なら、
キャーッ。
と、その意識の波の奥に、問題の少女、パウラ・スティーブンスの姿、声、悲鳴がまぎれ込んでいたからである。
(続く)




