その5
さて。
ひとの身体の中にはおおむね体重の約8%の血液が流れている――とされている。体重60kgの人なら約4.8kg、血液の比重はほぼ1.0なので、まあそのまま約4.8リットルの血液が流れていると想って頂ければよいだろう。
また。
大抵のひとは、この血液の30%ほどを失えばその生命が危機に陥るとも言われている。が、それはつまり、体重60kgの人なら約4.8kgの30%で約1.5kg(約1.5リットル)の、大きめのペットボトル一本分の血液を失くせば――なにも対処をしなければ――そこでそのまま死んでしまうということを示している。
そう。
そうして今回、左武文雄その他彼の同僚たちが遭遇した遺体、それに前回、彼らの住む都内およびその近郊で「立て続けに起こって」いると書いた、他の殺人現場の遺体から抜き取られていた血液の量はその約1.5~2.0倍、体内の血液の45~60%ほどが抜き取られた、あるいは“消されて”いたということであった。
*
「見たら消してくれってことなんで、これはこのあと消しますけどね」
と言って小張千秋は、自前のスマートフォンを左武たちに向けた。彼女は今日もほぼほぼノーメイク、目の下くまもハッキリとした寝不足お肌であった。彼女は続ける。
「こういうのがこの一か月だけでも4件起きているんだそうです。司馬さんが知っているだけでもですけど」と。
それは、今回のケースと同様、薄い灰白色の遺体、壁に貼り付けられた三体の遺体だったが、こちらの遺体は家族ではなく男が三人、丸釘の代わりに絹のスカーフかなにかで四肢を縛られ吊るされ、同じ色の布で目隠しもされていた。
「血痕は?」左武文雄は訊いた。今回の現場を想い出しながら、「壁や床に、彼らの」
「数滴見付かったらしいですが」小張は応えた。スマートフォンの画像を削除しながら、「それでもまあ、収支は合いませんよね、無くなった分との」
「壁にはどうやって?」右京海都が訊いた。右のまぶたを抑えながら、ついつい声のトーンを上げながら、「まさか、その布だけでは支えられないでしょう?」
ここは、彼らの務める石神井東警察署の一階ドリンクコーナー。まわりはうすい壁で囲われ、この場にいるのは三人だけ。壁の向こうでは他の署員たちが忙しく立ち働いているのが聞こえるが、それでも小張は、変にふたりを署長室に呼び出すよりもここで話す方が他の署員の注意を引かないと考えたのだろう。しかし――、
「おい」と左武が右京をひじで突いた。軽く、「もう少し、声を落とせ」気持ちは分かるが、誰に聞こえるか分からない、と。
「あ、ああ、すまない」右京は応えた。声のトーンを今度は下げて、「で? 壁にはどうやって?」
「“接着”と“合着”の合わせ技だそうです」と小張は答えた。スマートフォンをしまいながら、「まあおおむね、敢えて言うならば、ですけれど」
「は?」と左武が聞き返し、「“合着”?」続けて右京も訊いた。「“合着”ってなんでしたっけ? “接着”となにかちがうんでしたっけ?」
『接着』とは、モノとモノとが接着剤などを使って化学的に結合することを言い、『合着』とは、モノとモノとがその被着面で互いに入り込んで固まり、脱離しなくなる機械的な結合のことを言う。
「え?」ふたたび左武は訊き返し、「それは……、つまり……」ふたたび右京が小張に訊いた。「ナニと? ナニが?」
「ああ、まあ、そうですね」小張は答えた。天井を見上げ、アゴの辺りを掻きながら、「被害者の皮膚と衣服、それに現場の壁とかですかね」
さて。
小張千秋が本庁の元同僚から――一応秘密裏に――聞いた情報によると、問題の犯人、あるいは犯人たちは現在、【SQ】あるいは【GA】という仮の名で呼ばれ、捜査が進められているとのことだったが、
「なんの頭文字ですか? その【SQ】とか【GA】ってのは?」と左武が訊き、
「さあ?」と小張も返すとおり、「そんな書きなぐられた文字があったんだそうです。最初の現場に」
犯人の手掛かりとなるようなものは、その殴り書き以外、一切現場に残されておらず、しかも、
「その最初の犠牲者は目黒区の50代主婦で、次の犠牲者は西葛西在住の30代パキスタン人男性。その次の犠牲者は、飯能に住んでいた70代のお婆さんとその娘さん、それに19才のお孫さんの3人だったそうで――」
と、場所も年代も性別も、なんなら国籍も、犠牲者たちの間に共通点らしい共通点はなく、
「今回同様、金品その他を持ち去った形跡も――血液ぐらい?――ない。分かんないですけど」
なので、強盗殺人や物取りの線も消え、ただただ、
「殺し方が同じって共通点だけで犯人を捜そうとしていたそうですが」
あんな殺し方は過去に例がなく――あってたまるか――捜査は行き詰まりを見せつつあったところ、
「今回のあのお嬢ちゃん――パウラちゃんが生き残ってくれたワケで」
もしも彼女が、犯人の顔なり声なり手掛かりなりを覚えていてくれたら大変助かるのだけれど、
「それでもほら」前にも書いた通り、彼女はまだまともに会話が出来る状態でもないので、「取り敢えずは彼女の回復待ちってとこなんですが――なーんかシンドイですね」という状況なのであった。
「うーむ」と左武文雄はうなった。こころの中で。小張の話を聞きながら、それでもあまり、「それでもあまり、想い出させて欲しくはないな」と。
なぜなら彼の頭とこころには、あの時訊いた彼女の叫び、嘆き、「たすけて」という声が、いまも響き続けていたからである。はっきりとした、彼女の声として。するとここで、
「左武さん?」と小張千が彼に訊いた。そんな左武のひげ面というか、その奥にある彼の記憶をのぞき込むような顔で、「ひょっとして左武さんって――」が、しかしこの質問は、
トントントン、トントン。
という壁をノックする音にかき消されることになる。
「署長?」若い交通課の婦警が小張に声をかけた。ドリンクコーナーに外から顔だけ突っ込んで、「本庁の方からお電話が入ってます」
「え? あ、はい?」小張は答えた。先ほどしまったスマートフォンを取り出して、「えーっと? 司馬さん? ですか?」どうやら着信はないようですけど――、
「あ、いえ」婦警は答えた。「タカミネさん? とか言われる方で、今回の事件がどうとか、カウンセラーの件がこうとか――」
(続く)




