その4
そのカギは、白いガーゼのハンカチに包まれていた。天井裏に隠した、ちいさなチョコレート缶の中で。
「父さんさあ」樫山ヤスコはつぶやいた。脚立の上に立ったまま、その空き缶を確かめながら、「よく取ってたわね、こんなの」
それは、子ども時代のバレンタインに、彼女が父にあげたものだった。
「そんな時代もありましたね」ヤスコは言うと脚立を下り、缶のほこりを払った。ふたを開けようとしたが、そうこうしている間もずっと、問題のペンダントは、この箱の中を指しつづけていた。そうして、
「どんな絶望に見舞われようとも、そこに希望は誕生する?」と彼女がつぶやき、ハンカチに包まれたカギを取り上げると、光は今度は、箱ではなくそちらの方を指し始めた。「カギ?……よね?」
ガーゼの上からでも、それがなにかは分かった。しかし、それがどこの、あるいは何のカギなのかは分からなかった。ガーゼを外し、それを確かめようとすると、それでも0.5秒ほどの時間差で、今度も突然、
フッ。
と光は消えた。なんだかその消え方も例のアニメ映画によく似ていた。
「ほんっとーに、大丈夫かしら?」ふたたびヤスコは困惑したが、このお話の作者にこの悪ふざけを止めるつもりがないことに気付くと諦め、先ずは最初に、カギが入っていた空き缶の方を確かめた。彼女がこれを父に贈ったのは9才か10才の頃だが、ほこりの被り方などから、カギを入れられ、天井裏に隠されたのは、それでもせいぜい、ここ数年のことだろう。
「うーん?」ヤスコはつぶやき、缶を床の上に置くと、今度はカギの方を見た。それは、どこにでもあるような、ディンプル型のカギだった。どこかの部屋のカギのようにも、どこかのなにかの容れ物のカギのようにも見えた。
「ほんとですよ」と突然、小紫かおるの顔が、チラッとヤスコの脳裏を横切った。「ほんとですよ」と先日、コーヒーショップで出会った時のほほ笑みで、「お嬢さんの知らない面が、お父さまにはたくさんあったのです」
であったが、ここでなぜだか彼女は首を横にふった。そうしてその後、首をふった自分を不思議だなとも想った。そう言えば彼は、いま、どこで、何をしているのだろうか?
*
古い木工所の二階から出ると小紫かおるは、木材の積まれた中庭から外に出た。門扉を閉め、周囲に誰もいないことを確認し、表通りへと向かった。平日昼間のこの通りに人影はまばらで、道をはさんだ向こう側には、昔ながらのパン屋があった。グローブのようなメロンパンや、あんこ代わりのチョコを入れられたヒーローだのが、窓辺にならんでこちらを見ていた。右手の時計を確認し、お腹をさすると、売れない小説家のことが想い出された。
くぅ。
と彼のお腹は鳴った。どうも、あの女のことを考えると身体が空腹を想い出すようだ。
はっ。
とそんな気分を吐き捨てるように彼は笑うと、手袋をはずし、スマートフォンを取り出した。
ぷるるるるるるっ
と、上司と云うか顧客と云うか戦友のような相手に電話を掛けた。
『もしもし?』直ぐに相手は出た。
「三人目のところに行きましたがね」直ぐにかおるも用件に入った。「こっちもどうやら、関係なさそうですね」
『なるほど?』とだけ相手は応えた。まるで「それで?」というような口調で。そのためかおるも、
「まったくもって普通の、四十代独身男性って感じの部屋でしたよ」と相手がこちらを、まったく信用しているだろうというような口調で続けた。「まあ、エロ本とDVDはやたら多かったですけど」
『ふむ』続けて相手は訊いた。『それで?』
「四人目のところに向かいますよ」かおるは答えた。「一応の報告・連絡・相だ……はまだないですけど、その“ホウレンソウ”ってやつです」
『分かった。助かるよ』相手は応えた。
「いいえ、これも仕事ですから」かおるも応えた。「ま、こんなにいるとは想ってませんでしたけどね、《灰原》の候補者ってのが」
『すまんな』相手はあやまり、『それでもかなり絞ったつもりなんだが――』
「あ、いえ、“想ったより”ってだけで」かおるは訂正した。「それじゃあ、まあ、四人目のところ終わったら、また電話しますんで」
『了解。気を付けてな』
「へいへい。祝部さんもお仕事頑張って下さい」
カチャ。
そうして電話は切られた。スマートフォンをジャケットに戻すと彼は、“四人目”の大体の住所を想い出し、通りを西に向かおうとして、何故だかここで、また例の小説家の顔を想い出すことになった。
くぅ。
とふたたび、お腹が鳴った。踵を返し向きを変え、通りを渡って例のパン屋の扉を開いた。
「まったく」と、かおるはひとりつぶやいた。「なんなんだ、あの女は」
(続く)




