その3
『そうして彼女は夢から醒めた。
先ずは天井を、
それから窓を見やった。
雪は、
ひらひらと降り続いていた。
ひらひらと舞い落ちては、
この地の、
この宇宙の、
あり得べきすべての宇宙の、
生きるもの、
かつて生きてきたもの、
これより生まれて来るものたちの上に、
あまねく降り積もっていった。
無限であり、
無限である宇宙は、
広く、
深く、
ひらひらと雪を降らし続けていた。
が、しかし、そこに恐怖はなかった。
「****!」
彼女は叫んだ。
彼女の悪魔の名を。
闇におびえて泣くのは、
もう、やめたのではなかったか。』
*
この文章を初めて読んだとき山岸まひろは、奇妙なことに、この文章に登場する“彼女”に、自身の祖母を重ねていた。花盛りの窓辺に立ち、彼女の庭を、黒い銀色の雪たちに覆い尽くされていく彼女の庭を、じぃっと見ている祖母の姿を。
が、と同時に彼女は、なぜこんな論文・レポートに、こんな文章が載っているのかと首を傾げてもいた。しかも、なんの注釈も説明書きも言い訳も書かれないまま。論文のタイトルは、『多元宇宙と流動体、その熱と情報について』であった。
そう。それは、昨夜と先ほど、それに世界の終わりの夢で見た、光の塊、折り重なる宇宙、彼女の前に現われた《壁》について、そんな情報はどうせないだろうと想いながらも、パソコンの前に座り、闇雲に検索し、不得要領にも調べものをする中で、ネットの海、ジャンクな海溝の奥底で偶然見つけたレポート、多元宇宙の存在と、それら宇宙の間を行き来する「ある者たち」について書かれた、妄言と言ってよいほどの、ある種のゴミ屑のような、そんな書き物であった。
であったが、それでも彼女はこころを引かれた。それに。首を傾げて、眉に唾して、胡乱な匂いを嗅ぎ取りながらも、なぜかそこに、自身が見た《壁》、その先に見えた風景と同じなにかを感じたからである。
で、あるが、ただそれでも、前述の詩や小説の一部のような箇所を除くとそれは、あまりにも専門的でニッチな文言や考えがながく続く書き物であり、彼女にとってそれは、その断片の雰囲気のようなものしか読み取れない、そんな書き物でもあった。
「樫山?」まひろはつぶやいた。そろそろ本当に、服を着替えなければと想いつつ、「……昭仁?」
その奇妙な論文・レポートの著者は、樫山ヤスコの亡き父・昭仁その人だった。
*
「いいかい、***。落ち着いてよく聞くんだ。あの言葉をぼくに教えて。ぼくも一緒に言うから」
「えっ?」
「ぼくの左手に右手を乗せて……おばさん達の縄は切ったよ」
*
さて。
山岸まひろがネットのジャンクの奥底から奇妙な書物を掘り起こしていたちょうどそのころ、その書物の作者の娘・樫山ヤスコは、そのどうにもこうにも賢明とは言い難いにぶい頭を悩ませていた。父が遺したペンダントと、防弾聖書型の手帳をふたつ、書斎の机に置いたまま、先述の、とあるアニメの感動的名ゼリフを想い出しながら。
「うーん?」とこころの中でヤスコはうなり、それでもなんにもピンとくることがなかったのか今度は、
「うーん?」と声に出してうなってみたが、それでもなんにもピンとくるものはなかった。どうにもこうにも賢明とは言い難いにぶい頭は、どうにもこうにも賢明とは言い難いにぶい頭のままだったから。
「うーん?」みたびヤスコはうなってみた。今度はこころと声と両方で――が、やはり、それでもなんにも、ピンとくるものはなかった。そのためだろうか彼女は、突然、何を想ったのか、
「リーテ・ラトバリタ・ウ――」そう言い掛けて、「いーや、いやいや、いやいやいや」とわらって目を閉じ、腕を組み直した。
いくらなんでもこの呪文はないし、もしもこれでペンダントが光り出しでもしたら、それこそ三鷹の森から苦情がはいる。が、しかし、
「でも……」とヤスコはつぶやき目を開けて、改めて机の上の父の形見――碧い氷のような首飾りと、防弾聖書型の手帳――をながめた。
冗談でもなんでもなく、形はさておき、うす暗い部屋の中で見るその首飾りの色は、彼女にあのアニメ映画を想い浮かばせ、ともすれば突然、秘密の通路を照らし出してくれてもおかしくないくらいに、深く、淡く、そうしてどこまでも透き通っていた。
そうしてまた、手帳の方には手帳の方で、前にも書いた通り、この首飾りの丁寧なスケッチが残されており、その周囲には、例の、他のページ同様の、解読不能な文字たちがずらりと並べられ、ページのすき間を埋めていた。
「そりゃあ、試してみたくもなるわよね」ヤスコは続けた。魔法や呪文の類いを信じるワケでもないが、「こんな“いかにも”なもの、二つも並べられたらさ」
それから彼女は、「ふん」と自身で自身を軽く笑うと、「ふんすっ」と言って、机の端のスマートフォンに手を伸ばした。今日の昼間、打ち合わせをした編集者から教えて貰った翻訳アプリ、カメラ入力機能のあるそれを試してみようと想ったのである。
「これなら、自動に言語を読み取って勝手に翻訳してくれますよ」
と、その編集者は言っていた。これなら機械音痴のマシンクラッシャーのダメダメ人間のヤスコ先生でも普通に使えますよ♡ということだったのだが……、
「あ、でも、やっぱりダメね」
と、しばらくしてヤスコは言った。たしかにアプリは優秀で、解読不能と想われた文字の集まりから、それなりに文意のありそうなものをピックアップ、翻訳をしてくれたのだが、やはりそもそも、その時その場で想い付いた単語やフレーズを書き連ねたものなのだろう、なにか一連となる文意がそこに込められているワケでもないようで――そう。それは例えば、こんな感じのものたちだった。
*
『Logh ár bpeacaí.』
アイルランド語。敢えて訳すと、「我らの罪をお赦し下さい」くらいの意味だろうか?
『Ekpliróste ti dikaiosýni akóma ki an pésoun oi ouranoí.』
ギリシャ語。法律方面では有名な言葉で、意味は、「天堕ちようとも正義を成せ」
『Tunc subsisto, Pulchra es,』
ラテン語? 「時よ止まれ、お前は美しい」? ゲーテからの引用かしら?
『Лунный кризис! Макияж, мириться.』
ロシア語。意味は、「ムーンクライシス! メイクアップ」? って、父さんさあ……、
*
と、まあ、そんな感じで、最後のモノなど、わが父ながら心配になるところなのだが、要は、本当に意味のない言葉の羅列で、特にこのクリスタルの秘密を明かしたりするようなものではないようであった――がここで、
「あれ?」とヤスコはつぶやいた。ページの左上隅、スマホのカメラも取りこぼしそうな位置に、スマホのアプリも翻訳出来そうもない汚い金釘流の文字で、次のような一文が書かれていたからである。
『希望在任何
絕望中誕生』
「どんな絶望中も、希望は誕生する?」ヤスコはつぶやいた。自身の翻訳が気に食わなかったのか、もういちど、「どんな絶望に見舞われようとも、そこに希望は誕生する?」
すると、このつぶやきを聴いたアプリが突然――本来なら、このような動作は絶対にしないハズなのだが――これを翻訳、次のように喋り出した。
『ジーワン・ザイ・レンヘ
ジュ―ワン・チョン・ダンシェン』
「え? ちょ、なに?」ヤスコは驚いたが、
『ジーワン・ザイ・レンヘ
ジュ―ワン・チョン・ダンシェン』
とアプリはくり返した。「え? え? なんで?」という彼女の疑問は無視して、もう一度。
『ジーワン・ザイ・レンヘ
ジュ―ワン・チョン・ダンシェン』
とここで、その呪文が終わるのを待っていたかのように今度は、こちらも突然、机の上のペンダントが碧い光を放ち出し、ヤスコの部屋の天井を指し示した。そう。まるで例のアニメ映画のように。
「えーっと……?」ヤスコは困惑し、狼狽した。「これは……、ほんとに怒られたりしない?」と、三鷹の森を気にしながら。
(続く)




