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その2

 そうして時は止まった。


 いや、もといた場所に戻っていた。


 なぜならそれは、佐倉八千代が目を覚ましたからであるし、それはつまりは、彼女が見るべき時間を彼女が見終わったことをも示していた。取り敢えず、いまのところは。


「佐倉さん!」西洋史の先生が叫んだ。「あなた、それは寝ているの? それとも起きているの?」


「はぇ?」佐倉八千代は応えた。彼女の意識の半分はいまだ世界の終わりにあったけれど、「え? あっ、す、すみません」と、どうにかこうにかこちらに、西洋史の講義にその残り半分を戻しながら、「起きてます、起きてます、私は元気です」


 どっ。


 と他の生徒たちが笑い、先生はため息を吐いた。教室はうす暗く、前の黒板にはどこかヨーロッパの教会――見事な石造りの円屋根の教会――が映し出されていた。


「あなた、目を開けたまま眠ることがあるから、時々わからなくなるのよね」先生は続けた。


 クスクスクス。


 と今度は小さく、他の生徒たちがわらった。すると今度は先生は、


 コホン。


 と、そんな彼らを窘めるようにせき払いをひとつしてから、


「その爆撃から二日後の1945年2月15日午前10時」とまるで八千代とのやり取りなどなかったかのように講義へと戻って行った。「いよいよドームはくずれ落ち、外壁は粉々、床そのものも陥没しました」


 それは、第二次世界大戦において、英米同盟軍がその美しい都市を爆撃したときの記憶だった。


 その都市は、建築史的、音楽史的、美術史的に見ても大変重要な町であり、美術愛好家の間では巡礼の地とも言われることもあるそうで、先生の口調は、一見静かなように想えたが、それでも、そんな土地を焼き尽くそうとした英米同盟軍への、いや戦争、いや、人類という愚かなサルの子孫たちへの怒りと憤りに満ちているようであった。彼女は続けた。講義の終わりに、抗議の代わりに、ある詩人の言葉を引用して――「“やつらの仕業なんです!”」


     *


「それでも確か、祭壇は残ったんじゃなかったかしら」すらりと背の高い少女が言った。「ゲッセマネのレリーフもほとんど無事だったって言うし、それよりなにより、何十年もかけてきちんと再建したんだからすっごいわよね」


「ゲッセマネってなに?」佐倉八千代は訊き返した。「って言うかエマちゃん、なんでそんなに詳しいの?」


 ここは、先ほどの講義から数時間後、佐倉八千代がウェイトレスを勤める街の小さな喫茶店、青い扉の『シグナレス』、その休憩室であり、八千代の話し相手「エマちゃん」こと「木花エマ」は、八千代の中学時代からの友人である。


「そりゃあ、まあね」エマは答えた。「ヤッチもさっき言ったじゃない。“美術愛好家の間では巡礼の地”って」と、この店の緑のエプロン――彼女はこの店の有能な厨房係である――を肩に掛けながら、「絵描きの卵だよ? 私。自信はないけどさ」と。


 木花エマは今年、ど~んより暗かった一浪生活の末、どうにかこうにか、ギッリギリのスッレスレのすっべり込みセーフで、某美術系の大学に入学したばかりで、ばかりなのだから、もうちょいこう、ウッキウキするなり、フッワフワするなり、キャンパスライフをアッハハハハハハハ、とエンジョイするなりしていてもよさそうなのだが、


「いや、もう、まわり天才ばかりですよ」


 と、先輩連から同級生、先生、教授、非常勤講師の方々に至るまで、右を向いても左を見ても四方八方自分より絵の上手いひとしか居らず、


「リンゴやティッシュ描くところからやり直す日々ですよ、はい」


 と、私と会っても会うたび毎に、自身の才能の無さを嘆いて泣いてなにか食べ物をねだって来たりするのであるが、そうは言ってもエマちゃんさあ――って、ダメだ。これ以上書くと明らかに話が脱線する。


 なので、彼女の嘆きや愚痴はまたいつか語る事として、話を現在の彼女たちに戻そう。えーっと? ふたりはいま、佐倉八千代の夢の話をしているところであったワケだが……え? なんですか? 何か言いました?


 え? あー、そうそうそう。そうなんですよ、こちらのエマちゃん、八千代ちゃんの不思議な能力については先刻ご承知で、って言うか、中学時代からこの能力のよき理解者兼なにかあった時のバディ役を務めてくれる親友中の親友でして、この辺りの不思議案件についても普通に付いて来てくれます。


 そうそうそうそう。なので例えば、今回の夢の話についても、


「まあたしかに。奇妙で不吉で突拍子もない夢だけどさあ」それでもヤッチのことだから、「ただの夢だとわらい飛ばすワケにもいかないわよね」


 と、いつもの通り、いつもの如く、バイトや授業やデッサン練習の合間を縫って、その夢の真相ってやつを調査するべく、彼女に協力することになるのでありました。


「よかったー」八千代は言います。「ひとりだと何していいかも分かんなくってさー」私ほら、頭わるいし、「こんな変な夢の話、エマちゃん以外、誰も信じてくれないだろうしー」


「いや、半信半疑は半信半疑ですけどね」とエマ。それからすこし考えて、「――あれ?」


「なに?」


「ってかあんた、肝心の石橋さんに連絡は?」


     *


 カーテンを閉めたうす暗いリビングに彼女はすわっていた。小一時間ほど。ちょうど昨夜、例の《壁》が現れた辺りに。


 部屋の外からは時おり、風の通り抜ける音やそれに乗って運ばれてくる街のざわめきなんかが聞こえて来ていたが、彼女、山岸まひろは、意識してそれを聞かないようにしていた。テレビや部屋のライトも切り、室内からの音と言えば、大型の冷蔵庫の静かに鳴る音くらいだった。彼女は、集中しようとしていた。


「たしかに……」腰を上げ、膝立ちの格好になって動いた。「この辺で……」


 彼女の服は昨夜と同じ、《壁》を見、気を失ったあの時と同じ、黒の部屋着のままであった。


 あの後彼女は、夢もない眠りに落ちると、次に気付いたのはお昼前、数え切れない無数の量子が一斉に、「やあ!」と叫び、また一斉に「ぷっ!」と笑って接続を切ったような音で目を覚ました。


 そうして、その叫び、挨拶、なにか開き掛けた窓のような音は、ちょうど彼女がいまいる場所、ちょうど昨夜の《壁》と、ほんの数プランク長ほど南にずれた位置から聞こえていた――ように、彼女には想えた。


 昨日の体調不良を受け、今日も会社は休むことにしていたが、ぐっすり眠ったせいだろうか、それとも《壁》の向こう――ひと粒の闇すら入れない光の集合体――を垣間見てしまったせいだろうか、あの異様な疲労感はすっかりと無くなっていた。


 声と光の出元がどこか? 空間をじっと見つめ、手も上げ下げ押し引きしてみたが、結局なにも分からなかった。汗が額を流れ落ち、胸元は汗ばんでいた。服の匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。


「昨夜は、汗を拭こうとベッドを出たんだったっけ」そう想うと彼女は、着替えの服と一緒に、兄・富士夫のことも想い出していた。「体調が戻ったこと、兄さんに伝えないと」


 が、そこに、


「やあ!」とふたたび、無数の量子が彼女に向かって叫び、そこに高さ1mほどの光の集合体、いや、《壁》が現れた。


「えっ?」と彼女は驚き、反射的に着替えと兄のことを忘れると、ふたたび《壁》に、その光の集合体に触れ、その中をのぞき込もうとしたのだが、今度はそいつは、彼女の動きにぴったり合わせるかのように、


「ぷっ!」とわらうと、ふたたび、無限の宇宙との接続を断ち切ってしまうのであった。



(続く)



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