その11
「ほっんとーに聴こえたんですか?」ちいさな顔の女性が訊いた。「クローゼットの奥にじっと隠れていたあの子の声が?」
彼女は若く、肌のしろい、小柄な女性だった。短く刈った黒髪はボブというよりおかっぱのようで、しかもほぼほぼスッピン・ノーメイクでもあった。
また、それに加えて、本日現在の彼女のスタイルと言えば、青のクロップドパンツに虹の入った紺のTシャツ、そこにサスペンダーと茶色のブーツを合わせ、更には変な形のグレーコートを羽織っている。事情を知らない誰かが見たら、
「え? なに? 今日、コミケかなんかっスか?」
と言って彼女のことを、アニメかマンガ好きの変なお姉さんとしか認識出来ず、とても警察関係者だと想うことはないだろう。が、それでも彼女・小張千秋は警察官であった。しかもかなり優秀な。それが証拠に彼女は、
「でも、たしかに聴こえたんですよ」
と答えるひげ面の男――先ほど、問題の殺人現場にいたあの刑事――左武文雄の上司であったし、もっと言うと、
「うーん? いや、別に、左武さんを疑うわけじゃないんですけれど、あまりに距離が離れてましたし、一緒にいた右京さんや他の署員さんにはなにも聴こえなかったそうですし――」
「でも、聴こえたものは聴こえたんですし、実際、あの子もそこにいたワケですし」
「むーん?」
「信じて下さいよ、署長」
と彼女は現在、署員数百名を抱える石神井東警察署の若き女署長だったりもした。彼女は続ける。
「でも彼女、いまはなんにも喋らないっていうか、声も出せない感じになっていて、とても左武さんを呼べたとは想えないんですよね」
と、例の少女――外国人一家惨殺事件の唯一の生き残り――パウラ・スティーブンスの現在の状況と、
「彼女がいたクローゼットは二階の奥でしょ? 左武さん達の居たリビングとつながる穴とかないか探して貰ったんですが、特になにもないようですし――」
彼女の声が左武に届いた理由がどうしても説明出来ないこと、それに、
「でも署長、そこは彼女が喋り出すのを待って頂くしか――」
「ええ、はい、なので取り敢えず、カウンセラーの先生を呼んではいますが――」
「もちろん。状況が状況ですし、あまり急かすのも酷な話ですからそこは――」
「え? あー、はい。それはもちろんそうですね…………そうですね?」
「……うん?」
「……なんですか?」
「なにか、急いでらっしゃいます?」と訊ねる左武に、
「あー、まー、もちろん」と目を泳がせながら返す彼女の様子から、「この悲惨な殺人事件の、重要な参考人ですから――」
この事件が、この事件だけの問題ではないことを、彼女は左武に伝えることになった。
「え? 署長? まさか本庁さんからの連絡って――」
と言うのもここ数ヶ月、彼らの住む都内およびその近郊では、今回のケースによく似た殺人事件が、立て続けに複数個所で起こっていたからである。小張は続けた。
「彼女、それら唯一の生き残り――になるっぽいんですよね」
*
郊外の駅に降り立ったときマリサ・コスタは、途端に奇妙な既視感に襲われることになった。来たことのない駅、降りたことのない階段、見たことのないジューススタンドと、そこに立つ笑顔の店員であるにも関わらず。
そうして、それから彼女は、まっすぐと、まったく迷うことなく、タッチ式の改札を通ると、駅舎奥の、本屋と調剤薬局の並びに置かれた、コインロッカーまで歩いて行った。
彼女は、革のジャケットを着、青のジーンズと長いブーツ、それにサングラスをして、右肩には黒のボストンバッグ、左手には甥っ子のバックパックを持っていた。
「3797……、3797……」
ジーンズのポケットを探りながら――そこに入れておいた一本のカギを取り出しながら――彼女は問題のロッカーを探し始めた。駅の規模の割にロッカーの数が多い。だからここに置いたのか隠したのかは分からないが、問題のロッカーは、いちばん隅の、いちばん暗く目立たない場所に置かれていた。変な、青い、扉をしていた。
「3797……、379……」
マリサ・コスタはつぶやくのを止めると、それでもふたたび奇妙な既視感に襲われながら、問題のカギを問題のロッカーに差し込んだ。
カチャ――扉がひらいた。
「ここに入れたのは私だ」奇妙な既視感は妙な確信に変わろうとしていた。「あ、いや、入れたのはアイツね」
扉の中には、こちらも、アイツの記憶の中で見たことのある小さなバッグ、オリーブ色の小さなバッグが入っていた。
(続く)




