その10
樫山ヤスコの父・昭仁は謎の多い男だった。取り敢えず、彼女ら家族にとっては。
家にあまり居らず、居ても書斎にこもっては、本を読んだり調べものをしたり、なにかのノートを取っていたり。
こちらが話し掛ければ応えてくれるが、すぐに思弁が暴走するのだろう、こちらの言った些細なひと言――例えば「ポテチ食べない?」――が、いつの間にやら世界の歴史や政治情勢、果てはその行く末――例えば「ケネディ暗殺」や「食料危機」や「火星移住」――等などの話題に変わっていくのであった。彼の書斎の、崩れんばかりの書棚の前で。が、かと想えば、
「ねー、もっと子どもにも分かる話をしてよ」
と、子ども時代の詢吾がぐずったりつまらなそうにしたりすると、
「え? そうか? あー、だったらそうだな――」
と突然、聞いたこともないようなホラ話を始めることもままあった。空を飛ぶクジラとか、それに呑み込まれた男とか、地下空洞を掘り続けるトルコ人や目を離すと突然うごきだす大理石の天使とか、そんな子ども騙しのようなお話を、
「みんなー、ごはんよー、降りてらっしゃーい」
と、彼らの母親が彼らを呼び出すまで、こちらも延々長々と。
「ねえ?」あるときヤスコは訊いた。一緒に階段を下りながら、「さっきのお話、ぜんぶ本に書いてたの?」
「うん?」父はふり返って訊いた。「どのお話?」
「全部よ」ヤスコは言った。「火星やクジラや、鳴くはずのないナイチンゲール」
「そりゃあそうじゃん」詢吾が口をはさんだ。「あんなおかしな話」父の右手を取りながら、「本じゃなけりゃあ、ぜんぶ父さんの作り話さ――だよね? 父さん?」
「うーん」父はうなった。ちいさく、「本で読んだお話もあれば、実際に俺が体験したお話もあるけれど」詢吾の頭をなでながら、「つくり話はひとつもないよ」
「うっそだあ」詢吾がわらった。なかばからかう調子で。
「本当さ」父もわらった。こちらはすこし真剣に、「“すべてのお話は、すべてほんとにあったこと”だからな」
「なに? それ?」ヤスコが訊き返した。
「“みんながそれを、忘れているだけで”」父は続けた。階段の陰に隠れ、その顔はよく見えなかったが――いいかい? ヤスコ。
「いいかい? ヤスコ。ここに世界はある。それは真実だ。そうして、それと同じように、あり得た世界もある。これも真実だ。この世界と同じようにね。と言うか、この世界も、そのあり得た世界が集まった中のひとつとしてある。それらの世界は、この世界と近いものもあれば遠いものもある。ただ、それでも、これらが出会うようなことはないし、それらを繋ぐ道のようなものもない。本来はね」
「本来は?」ふたたびヤスコは訊き返し、
「実は」と父は応えたが、「これらの世界をつなげようって実験が――」
「ちょっと、姉ちゃん」ふたたび詢吾が口をはさんだ。「ほんきにしちゃダメだよ、父さんの作り話をさ」それから父を引っ張って、「ってかお腹すいたよ、はやく下りようよ」
そうして、この話はここで終わりとなり、二度と語られることはなかった。
それから、その後ヤスコは、父の本棚をよく見るようになった。世界の歴史や情勢や、人の行く末なんかに関する本を。が、しかし、それら書物の中には、あの頃、子どもの頃、父から聞いたホラ話、おとぎ話の類がまったく入っていないことにも、その後のヤスコは気付くことにもなった。
「だから言ってるじゃないか、ぜんぶ親父の作り話だったって」と詢吾は言うが、ヤスコにははっきりそうとは言い切れなかった。「ま、変にディティール凝ってたし、妙なリアリティもあったけどな」
そう。たしかにそこには、奇妙なリアリティがあった。お話の中身以上に、それを語る父の語り口の部分で。まるで彼が本当に、それらを経験したかのような、奇妙なリアリティが。
「まあ、でも、あり得ねえだろ」詢吾は続けた。時の女神に話す馬、海を歩く子ども十字軍に、空から降って来る無数のカエル。「親父なりに、俺たちを楽しませようとしただけさ――実際、面白かっただろ?」
「うーん?」ヤスコは首を傾けた。詢吾――父のホラ話を一緒に聞いていた唯一の人物――との会話は、いつもこんな風に終わっていたが、それでも、どうしても彼女には、父の語ったおとぎ話が、すべてウソとは想えなかったからである。理性の部分でというよりは、彼女のその肌感覚として。
『すべてのお話は、
すべてホントに起きること。
すべてのお話は、
すべてホントに起きたこと。』
彼女はつぶやいた。いつかどこかで誰かに聴いた、遊びうたのような子守唄のような、そんなこの歌を。父の遺した碧い首飾りを見ながら。
それは、くり返しになるが、碧い水のような惑星のような、しかし傷ひとつ気泡ひとつない、それこそおとぎ話の主人公が持つような、そんなカットガラスの首飾りだった。
『すべてのお話は、
すべてホントに起きること。
すべてのお話は、
すべてホントに起きたこと。』
彼女はくり返し、直後彼女はハッとなった。
「最後の最後まで、肌身離さず、持たれてましたから」
と今日の昼間、小紫かおるの言った言葉が想い出された。彼から渡された父の手帳――解読不能な文字が並んだ防弾聖書のようなあの手帳――に、この首飾りによく似たイラストがあったではないか。
(続く)




