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転生者たち~時空の終わりとソウルフルネス・ワンダーランド~  作者: 樫山泰士
第二話「オルバースのパラドックス」
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その8

 アーサー特製トマトパスタを食べ終えた一時間後、マリサ・コスタは、自宅マンションのベッドに腰をおろし、床に置かれたボストンバッグを眺めていた。旅行用にと彼女の夫が買ったもので、その上には、アーサー・ウォーカーのバックパックが、すました顔で乗っていた。


「これは?」彼女は想った。「私が?」


 が、しかし、どう想い返してみても、このバッグを取り出した記憶は彼女にはなかった。


「それでも」ふたたび彼女は想った。「やっぱり私が?」


 マンションにひとり戻ったのは、置きっ放しのお店の書類や貴重品、アーサー・ウォーカーの宿題などを持ち出すためだったが、


「これって?」みたび彼女は想った。「この場所に行けってこと?」


 彼女が座るベッドの上には一枚のメモ――彼女の筆跡そっくりの手書きのメモ――が残されており、そこには、バッグの中身(当面の着替えやお店の書類など)と使ったことのない駅の名前、それにテープで、一本のカギが止められていた。


     *


 二時過ぎに目覚めてシャワーを浴びた。私服に着替えてスマートフォンに目をやると、「気分はよくなったか?」とのメールが数通、兄から届いていた。想った以上に疲れていたのだろう、眠っていた記憶もない。ベッドを見やって、そこに戻りたい気持ちをぐっとおさえた。一瞬目を閉じ、台所へと向かった。


「そもそも」山岸まひろは想った。「そもそも、この部屋自体、なんだか疲れるだよな」


 兄が紹介してくれたこの高層マンションは、広くてきれいで見晴らしもよく、管理も行き届いており、兄の口添えと援助がなければ、とてもまひろ一人の給料で住める場所ではなかった。


「住むところはきちんとしておいた方がいい。お前になにかあっても困るからな」


 と言ってくれた兄の気持ちは嬉しかったが、広く、きれいで、見晴らしのよい、大地から離れたこの場所が、なんだかまひろを落ち着かせない気分にするのは、それもまた事実であった。リビングの鏡に全身を映してみた。短くまとめた黒い髪と、肌理の細かな浅黒い肌。体型は服でうまく誤魔化して、他人が見ればきっと、彼女のことを立派な成人男性だと勘違いしてくれるだろうが――、


「でも、しかし、」


 とここで彼女は立ち止まる。たとえ他人をうまく誤魔化せたとしても、自分自身をどこまで誤魔化せるかは分からな――いや、ちがうな。まひろは想った。


「うん。それはちがうな」と。


 問題は、彼女の見た目や自認ではなかった。それは、彼女がいちど失くした、あるいは手放した記憶・印象の中に住む、ひとりの女性のすがた、記憶、印象の中にあった。彼女は、とてもさみしい顔で、いまにも泣き出しそうにして、いや、流した涙のあとをまひろに隠しほほ笑んでいた――問題はそこにあった。


「そう。そこが問題なんだ」まひろはつぶやいた。


 実際になにかがあったのかどうかも分からないが、けれどもまひろは、その女性の笑顔を守れなかった自分に戸惑い、腹を立ててい――守れなかった? どこで? 消えてしまった記憶の中で? 一度として現在になったことのない未来の記憶で?――そう。問題は、彼女の見た目や自認などにはなかった。


 愛する女性の笑顔を守れなかったこと、その記憶のようなもの、胸の奥にポッカリ開いたちいさな穴、仮にそれが現実でも偽の記憶でも、そのちいさく暗くとてもひとりでは埋められそうにない穴、それを彼女は埋められることが出来るのか?――それこそが、彼女が乗り越えるべき課題であった。ふたたび、リビングの鏡に全身を映してみた。立派な成人男性――のように見える彼女の影に、ひとり不安で落ち着かない顔の少女がいた。


「親父は結局、自殺だったらしい」


 父の四十九日が過ぎたころ、兄の富士夫が言った。自分の中だけに留めておくのがよほど辛かったのか、他の兄ふたりには隠しておくことを条件に。


「いや、癌だったんでしょ?」彼女は訊き返していた。「肝臓癌が再発して、それで――」


「それで絶望した」富士夫は応えた。彼女の言葉を切るように。片目を閉じて、右手をそこに当てながら、「――かどうかまでは分からんが、それでも医者が言うにはな」


 鎮痛剤か睡眠薬か、要は薬の過剰摂取だったそうだが、新しい家長としての富士夫の初仕事は、先ずはそいつを誤魔化し隠し、会社や家族や関係先の動揺を抑えることにあったのだという。


「これも」富士夫は続けた。今度は両目を固く閉じ、まひろの肩を引き寄せながら、「まあ、家族のためだ」


 この言葉にまひろは慄然とした。問題は、彼女の見た目や自認などにはなかったのである。


「いいか、まひろ」富士夫は続けた。自分の額を彼女の額に当てながら、「お前がどんな生き方をしようとそれは構わん。それは尊重する。が、しかし、俺や家族や、いや、お前の家族になってくれる人も含めて、彼らを泣かせたり、ひとり取り残したり、そんなようなことだけは絶対にするな――分かったか?」


 この言葉にまひろは、ためらいながらも、どうにか首を縦に振った。


「そうか」富士夫は言った。最後に。少しわらって。「だったら俺は、そのためになら俺は、なんだってお前のためにしてやるさ」


     *


 そうして時間は前に進んだ。いや、すこしさかのぼったのかも知れないけれど、それでも、世界が終わるまでにはまだもう少しだけ余裕があった。なぜならここは未だに、佐倉八千代の夢の中だったから。彼女の夢の中で時間と空間は歪み、圧縮され、並び変えられ、たった数分の居眠りは、圧倒的なリアリティと説得力を持って彼女にそれを見せようとしていた。


 彼女は歩いていた。彼女のよく知るその街を。ひと気の消えたその通りを。空には雲ひとつなく、それでもまるで、雨が降り始める前のような、嵐の到着におびえる仔羊のような、とても深い沈黙の中にいるような、そんな街の中を、彼女は歩いていた。


 きっと彼女の瞳からは、涙がひと粒、流れ落ちていたのかも知れない。夢の中で。これから彼女が出会うであろう未来の予感、世界の終わり、昨日の夢で見た痛みとはまた違う、別のなにかの予兆の中で。


 彼女は歩いていた。大通りを北に向かい、角のスーパーで路地へとはいる。誰もいない。お店の時計のチクタク音が聞こえる。誰もいない。群れを外れたムクドリなんかが飛んで来て、急いで西へと逃げて行った。パン屋の前をとおる。誰もいない。ネコも消えている。目的の建物が見えて来た。彼女の知るある人物。彼ならばひょっとして、この事態を“報されて”いるかも知れない。ビルにはいり、細い階段を上って行った。『石橋伊礼行政書士事務所』実際来たのは二度ほどだけど、彼ならばきっ……扉が開いてる? 取っ手になにか、赤いものが見えた。


 コンコン。


 扉をたたく――返事はない。


 コンコンコンコン。


 やっぱり返事はない。


 コンコンコンコンコン。


 微かに、ひとの気配がした。


 キィー。


 扉を開けた――「すみません。佐倉ですが」


 整理された書棚と机がいくつか。窓際の席が石橋さんの机だったはずだ。


「石橋さん?」――返事はなかった。


「すみません、佐倉八千代ですが」――返事はなかった。


 窓際の席に向かう。ゆっくりと。机の上がいくらか散らかっていた。


「石橋さんにしてはめずらしいな」と彼女は想い、続けてそのまま、


「えっ?」と、声にならない声を上げた。「……石橋さん?」


 窓際の壁にもたれかかるように彼は座っていた。手足をだらりとさせ、床の上に。彼がもたれた壁になにか赤い、血のようなものが付いていた。が、問題はそれ以上だった――「……だいじょうぶですか?」


 そう続けて彼女は確信した。彼女に医療の知識はなかったが、それでも。すっかり色のあせた彼の肌や閉じられたひとみ、床にひろがる血の痕などから――石橋伊礼は、すでに亡くなっていた。窓の外が、にわかに騒がしくなった。



(続く)

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