その7
樫山ヤスコと小紫かおるの会話は――かおるの一方的なお喋りにヤスコが笑顔で頷いているという形ではあったが、それでも――とっても弾んでいた。
多分、この時の彼らの様子を、事情を知らない第三者が見たら、それは付き合い始めのカップルや、友人の紹介で出会い意気投合し初めてのデートにこぎ着けた男女のように見えたかも知れない。実際ヤスコも、かおるのお喋りにどこか心地のよさを感じていたから。
そう。
それは多分に彼女が、先ほど気持ちのよい仕事――とは言っても、出す宛てもない短編スケッチをひとつ書いただけだが――をやり終えたことによる部分が大きかったのだが、それを差し引いたとしても、かおるのお喋りは耳に心地よかった。
そう。
彼の声は、やわらかなシルクや紫色のベルベット、あるいは甘いお酒や蜂蜜のような印象を相手に与え、確りとしたアクセントは、よく訓練されたファーストヴァイオリンやラジオのアナウンサーのように聞き取りやすく、そうして更に、会話の相手を突き放すようなこともなかった。
彼の話は、その構成も文法も、一応作家のヤスコがうらやむほどに丁寧かつ明晰で、話題はもっぱら、亡くなったヤスコの父・昭仁との想い出話、ヤスコの知らない彼とかおるの想い出話であった。ヤスコは訊く。絶妙のタイミングで。まるでかおるの言葉にうながされるように、操られるように。
「ほんとに父がそんなことを?」と。
「ほんとですよ」とかおるは応える。「お嬢さんの知らない面が、お父さまにはたくさんあったのです」
インドでロシアでエジプトで、父がさまざまな人々に出会い、さまざまな出来事を経験していたこと、知らない誰かに善行し、どんな苦難にも負けなかったこと、そんなようなことをかおるは語った。
「それは、まったく知りませんでした」ヤスコは驚いていた。すこしうれしく、すこし寂しそうに、「仕事のことは全然言わないひとでしたから」
「言葉でなく行動で示す方でしたからね」かおるは続けた。ヤスコの顔をジッと見てから目をそらし、それから軽くほほ笑んで、「そこが好きで、尊敬も出来たのです。それに――」
とここで彼は、すこし言いよどむフリをすると、「それに、お嬢さまのことも」そう続けて話題を変えた。すこしだけ。
変えられた話題は、昭仁がヤスコのことを大変よく想っていたこと、心配していたこと、自慢の娘だと周囲に語っていたこと等々だった。彼は彼女の小説もよく読んでいたのだと。
「いいえ、それは流石にないですよ」ヤスコは笑った。「父が私の小説を読んでいたなんて」
「ほんとですよ」かおるは言った。不意に真剣な口調になって、「私にも読むよう勧めたんですから、お父さまは」
それから彼は、昭仁に促されるままに読んだというヤスコの小説類について、時に冷静に、時に熱っぽく語り出した。それは、いささか調子っぱずれな理解である所もあれば、よほど熱心な読者でなければ気付かない部分にまで踏み込んだ感想であることもあった。
「ちょ、ちょっと待ってください、小紫さん」ヤスコは言った。目を伏せ、顔をほんのり赤く染め、「それは、なんだか、ほめ過ぎじゃありません?」
「ほめ過ぎなんかじゃありませんよ」かおるは答えた。さらに熱っぽく。自分に小説の良し悪しは分からないが、「それでも書き手が、善い人なのか悪い人なのかくらいは分かります」と、まるでなにかの告白でもするかのように、「ですから私はお嬢さんに――」と。
が、しかし、ここで彼は言葉を止める。ワザと。その方が自分のウソ、能力が、相手によく届くことを知っていたから。
「あ、いえ、すみません」と言葉を変え、こちらも目を伏せ、ついでに顔も、ほんのり赤く染めながら、「なんだかちょっと、熱くなり過ぎましたね」
“会社”の資料から、ターゲットの指向が同性愛に傾いていることは分かっていた。恋愛感情は抑え気味に、尊敬や友情の念を先に匂わせる方がいいだろう。
「えーっと? うん。話題を変えましょう」
自分と父親の関係もどうやら信じてくれたようだし、本題の方はすこしずつ進めて行けばいいだろう。そう。例えばこんな風に。
「あ、あのー、ほら、手帳。お父さまのあの手帳、あの何が書かれてあるかよく分からなかったあの手帳、あれってその後どうですか? なにか分かりました?」
このままなにも仕掛けずに、あのまま放置されても困るしな。
「とても熱心に書き込まれてましたし、最後の最後まで、肌身離さず持たれていた手帳ですからね」とこれもあくまで伝聞だけれど、「よほど大切なことが書かれてあるのかも知れませんね、きっと」
*
さて。
祝部ひかりと先名かすみが所属するクラスの担任・石田文子(32)のそこはかとない不安というか懸念というか心配ごとは当たっていた。
と言うのも彼らは、先にも書いた通り、『ロミオとジュリエット(短縮版)』を文化祭で上演するため、本日午後より本格的な本読みに入ったわけだが、
「“ああ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの?”」とか、
「“まさか! たったひとつの私の愛が、たったひとつの憎しみから生まれようとは!”」とか、
「“この胸。これがお前の鞘なのよ。さあ、そのまま私を死なせて”」とか、
ジュリエット役の先名かすみは、流石と言うかなんと言うか、しっかり準備し、セリフもなかなか決まっていたのだが、
「“そ、そーれ、ではッ、ひ、ひっと言。お、俺――じゃなかった。ぼ、僕をッ、こ、恋人とッ、呼んでくださいっ!”」とか、
「“いいえっ! ベローナのほっかに世っ界はありまっせん。ど、どこも? すべてが苦界っ! そして……、そうして……、そし……すみません、これ何て読むんですか?」とか、
「“なるほど、薬屋……。正直だあなあ。きっさまーのくすりはよく利くぞっ! さあ、こ、こう…………えっ? ちょ、これ、このふたりキスするんですかッ?!」みたいな?
もう、こう、なんか、ロミオ役の内海祥平くんが、あまりにも役者に向かないって言うか、この年になるまで『ロミオとジュリエット』のあらすじすら聞いたこともないっていうような子で、
「あれ、お前どう想う?」とか、
「頭は悪くないからセリフは覚えられるとは想うけどさあ……」とか、
「本読みだけでどうしてあんなに緊張出来るんだ?」みたいな?
他のクラスメートもやっと、田中先生の不安・懸念・なにをあんなに心配していたかの理由が分かって来た様子でもあった。であったので、
「あいつの動きは極力省略。客席も見ないようにすればセリフに集中出来るか」とか、
「衣装に相談して、カンペ付けられないか聞いてきますよ」とか、
「立ち位置もっと工夫してさあ、観客の目線をとにかく先名さんに集めようよ」とか云々。
色々と対策を始めてくれたのは良いのだけれど、
「しかしそれでも、問題はアクセントとイントネーションだよな」とか、
「あいつ、なんであんなにどもってんだ?」とか、
「ユーチューブで上手い人の見せてマネさせるか?」とか、
問題は、覚えたセリフにどう抑揚・緩急を付けさせるかなのだが、するとここで、
「ちょっと内海くん。なんで練習して来てないのよ」と、ジュリエット役の先名かすみが彼に言った。「あなたも主役なんだから、もっとピシッとしてもらわないと」
「いや、そうは言うけどよ、先名」内海祥平は返した。それでも少し申し訳なさそうに、「部活もあるしさ。それになんかこういうセリフ、どうにもこうにも言い方がよく分からなくて」
「ふーう」とここでかすみは、憤りにも似たため息をひとつ吐こうとしたのだが、それでもどうにかそれは止めると、「うーん?」と一呼吸置いてアンガー・マネージ。手もとの台本を一読し、
「“どうして奴らの十や二十。あなたの瞳の方が怖い。あなたのやさしいその眼差し、それさえあれば、ぼくは不死身になれます。”」
と、第二幕のロミオのセリフを見事に言ってのけたのであった。
「どう?」彼女は言った。内海の顔を見上げながら、「こんな感じにやるのよ」
すると、内海以下周囲の生徒は、「ほおぉ」と感嘆のため息を吐き、と同時に、石田文子(32)も、「ほーーーお」とまさに、彼女の直観の確からしさを感じてもいた。
「こいつはやっぱり」と、石田文子(32)は想った。衣装係のひかりの方を向きながら、「“先名さんロミオ、祝部さんジュリエット”の方が、ぜっんぜん、ありだわねえ」と。
(続く)




