その21
『さあ行こう青空の彼方へ。
さあ行こう青空の彼方へ。
バックアップは取れたか?
残りはそこに隠しておけ。』
そう。
そうして、今回の不始末について彼ら研究員を責めるのは、やはり酷と云うものであろう。何故なら彼らは確実に、決められた手順に従い、被験者・灰原神人の死亡を確認したからである。
心電図を確認し、脈の触れないことを確認し、聴診器で心音・呼吸音が停止していることを確認し、瞳孔の散大・対光反射の消失を確認し、念のためこれらの確認を三回ずつ、人を替えて行なった結果、たしかに彼らは、灰原神人は死んだ、そう結論付けたのである。
そう。であるからこそ彼らは、祝部優太のところに担当者を送り、「つい、5……10分ほど前です」と彼にラボに来るよう促がしたのである。「灰原神人の死亡を確認致しました」
『さあ行こう青空の彼方へ。
さあ行こう青空の彼方へ。
世界は変わり果てたのか?
また日々のみ過ぎて行く。』
そう。だから今回の不手際について、軽くモニターを確認しただけで、問題の地下室に入ってしまった祝部優太を責めるのも、これもまた、やはり酷と云うものだろう。何故なら彼は、能力を持たないただの人間であることに加えて、問題の灰原神人に娘の命を狙われ、娘の友人と部下の一人を殺され、にも関わらず、上層部からは彼を生かすようにときつく言われていたのだから。
そう。だからこそ彼が、彼を迎えに来た研究員の言葉に従い、監視ルームではなく、直接、灰原神人のいる部屋へ入って行ったことや、先ほど確認したモニター画像が偽物であることに気付けなかったことや、いつも携行している小型拳銃を自室に忘れて来たことや、部屋に足を踏み入れた瞬間、足もとの血にすべって床に倒れてしまったこと等々も、彼ひとりのせいと責めるのも、やはり酷なことであろう。床の血は、この会社の研究員ならびに警備員複数名のものであったし、また、彼を呼びに来た研究員は本物の研究員ではなく、彼がこの研究員の言葉に素直に従ったのは、それが灰原神人が、小紫かおるの能力を盗んだものだったからである。
『さあ行こう青空の彼方へ。
さあ行こう青空の彼方へ。
私が誰か知っているのか?
君は誰か分っているのか?』
「やあ、お父さん」偽物の研究員・灰原神人は訊いた。「“ひかり”について教えてもらおうか」
*
ほそく、古くさい廊下の真ん中に立って山岸まひろは、奇妙な既視感・違和感に襲われていた。ここは、(お手洗いを借りるため)彼女が創った『壁』を抜けてやって来た、とある民家の中である。
彼女をここに導いた――具体的には『壁』に穴を開けた――例の赤毛エイリアンによれば、この時点で、彼女の『壁』が繋がれる現実空間は、彼女が知る場所だけであり、その中でも無意識下で繋がれる場所は、特に彼女が心から落ち着ける場所に限定されると言うことであった。
であれば、その理屈でいけば、彼女がいま立つこの家も、これまでの『ジャンプ』でまわった花盛りの祖母の家や、現在彼女が住んでいる高層マンションと同じレベルで知っていないとおかしいわけだが、にも関わらず、困ったことに、いまの彼女の記憶の中に、この家に対する想い出はひとつとして入っていなかった。
そう。そのため彼女は、この奇妙な既視感・違和感について、問題の赤毛エイリアンに色々と訊いてみたかった。訊いてみたかったのだが――、
「ごめーん。まひろくーん」といま彼は、まひろと入れ違いでトイレに入っており、「紙が切れちゃったー、持って来てくれなーい?」とどうやら、まだまだ外には出て来られない様子であった。「たしか洗面所に置いてあったと想うからさー」と。
きっと朝食を食べ過ぎたせいだろうが、勝手知ったるというか、どうやら彼は彼で、この家についてよーく知っている様子であった。トイペの位置を把握するくらいに。
「分かりましたー」彼女は答えた。洗面所へと向かいながら、この既視感と違和感については、きっと自分にはよく分からない“くんにゃらがり”があるんだろうな、とか、そんなことを考えていた。
リビングの前をとおり洗面所へと向かう。
洗面台横の収納ラックを開くと、細々とした日用品と一緒に……ああ、あったあった。
いつもと変わらぬ場所に、すこし上のスペースに、買って日の浅いトイレットペーパーが、袋に入って置かれていた。
それから彼女は、そこからトイペをふたつ取り出すと、扉を閉め、あまりに自分が自然に、いまの動作を行なっていることに気付き、と同時に、洗面台の鏡の中に、彼女と同じ彼女を見付けた。
彼女は泣いていた。泣いて、泣いて、泣いて、涙を流していた。流し続けていた。
「あれ……? ちょっと……」彼女はうろたえた。
うろたえ、あわてて、彼女は顔を隠そうとした。なぜなら、彼女の頭は憶えていなくても、彼女の身体は憶えていたから。ここで、この家で、彼女が暮らした、あまりにも短く、あまりにも幸福だった、あの日々のことを。彼女はつぶやいた。
「だめ、だめ、だめ……、なんで……? なんで涙なんか……」と。
そうしてそのまま、彼女はそこにくずおれた。
(続く)




