その18
『あんたもホントは気付いてたんでしょ?』こころの何処かで誰かが訊いた。『じゃないと行かないわよね、ホテルになんて、いい子のあんたは』
この質問に彼女は答えなかった。いや、返答するのをこころのまた別の部分が拒んでいた。何故ならその返答は、こころの何処かの誰か――それはやはり姉なのだろうか?――への、そうして夫への裏切りに繋がりかねなかったから。
『ま、キレイだったわよ。あの夜のあんた』誰かは続けた。彼女の考えが分かっているのか、『あのババアが選んだドレスも決まってたし――ま、私には敵わないけど』
「うん、まあ」と彼女は考える。それはもちろん彼女にも分かっていた。結局それも、今では何の関係もないことも。そう。今の彼女――あのホテルで山岸富士夫と会い、話をし、彼の、今の奥さまへの愛情をたっぷり聞かされた彼女――には十二分に分かっていたのである。そのことをこころの何処かの誰か、オフェリア・モンタルトに分かって貰わなければならないことも。彼女はようやく、想い出していた。
『こっちの女はじき死ぬんだろ?』姉・オフェリアは言った。『そうすりゃ彼は、ふたたび私のものになる』と。『あんたには悪いけどね』と。『この身体はもらうよ』
一般的に、婚姻の契約が「死がふたりを分かつまで」とされているのは、「死がふたりを分かつ」とそこで、少なくとも一方の、物語が終わってしまうからである。
『あんたが横恋慕してたのは知ってるさ』姉は続けた。『だけど、これだけはぜったい譲れないよ』いつものふざけた調子は止めて、『わたしとあの人は、ずうっと、ずうっと、夫婦なんだ』
そうして――?
*
「いた!」とそうして彼は静かに叫んだ。目を閉じ、ソファに座り、伯父のパソコンをひざに載せた状態で、「おばさんだ!」
自宅マンションに彼はひとりだった。カーテンは閉められ、リビングは暗かったが、それは彼には関係なかった。
と言うのも、いま、彼の目には、この町のあらゆる場所に置かれているカメラの映像が、コラージュ的あるいはモザイク的に映し出されており、彼の目は光で満たされていたからである。
そう。そうしていま彼は、その集められた映像の中から、彼が捜し求めている人物、マリサ・コスタの姿を見付けたところであった。彼は続ける。
「どこだ? ここは?」と閉じた目のままカタカタカタ。手もとのPCでウェブのマッピングサービスを立ち上げながら、「待っててよ、おばさん。僕らがかならず、助けに行くからね」
とそれから彼は、引き続き目は閉じたまま、出て来た地図に見ていたすべてのカメラをマッピング、問題の、マリサが映っているカメラの位置を特定しようとしたのだが――、
「え?」とここで彼は目を開ける。「なんで?」と驚きながら、「なんでおばさんがそんなところに?」
開いた目の前には当然パソコンの画面があり、そこに映し出された地図にも、たしかにはっきり赤色のピンは立っていた。そうして、改めて画面をよく見ると、問題のカメラには、やはりなにか檻のようなものが映っていることも分かった。そう。それは、彼の伯母が、石神井東警察署内に、その檻の中に、閉じ込められていることを示していた。そうして――?
*
ピロン。とそうして彼女のスマートフォンは鳴った。
このとき彼女――祝部ひかりは、友人の清水朱央と一緒に、彼女の父・優太の書斎に忍び込んだところだった。彼のパソコンを盗み見て、問題の情報――彼女の実父母に関する情報――を得られないかという浅はかなアイディアを想い付き、実行に移そうとしていたからである。
であるので、ふたりは大変驚いた。そのスマートフォンの音に。それがまるで、ふたりが罪の意識を感じ始めたそのタイミングで鳴ったから。
「だ、だれから?」朱央が訊いた。声を落とし、ささやくように。
「ちょ、ちょっと待って」ひかりは応えた。心臓の鼓動が早くなったような気がしたが、「い、いまたしか――あれ?」
そうしてふたりは驚いた。今度は別の意味で。何故ならそれは、深山千島からのメールで、そこには『ご参考までに。』とのタイトルでいくつかのニュース記事へのリンクが貼られており、それらの記事は十六年前の、とある交通事故についての記事であり、その事故が起きた日付けに、彼らは見覚えがあったからである。そう。その事故の日付けは、祝部ひかりの誕生日と同じものであった。そうして――?
*
そう。
そうして、奇妙なことばかりが引き続いている石神井東警察署に、またまた奇妙な出来事は起こった。公務執行妨害罪で同署に拘束中の外国人女性マリサ・コスタの下に、彼女の弁護人を名乗る男性が、突然現われたのである。彼は、100kgを優に超える巨体をユッサユッサと揺らしつつ、何故か傍らにガリガリに痩せた歴史的平和主義協会の牧師を引き連れていた。まるで、
「完全無実の女性を拘束するとは何事か!」みたいな正義漢面で、その実、
「金のためならなんでもやります!」みたいな瞳とほほ笑みで。
彼は語った。一度も会ったこともなければ話したこともない彼女がどれほど反省しているか、電話はもちろん資料すら見ていない彼女の家族がどれほど心配しているか、そんなこんなを得々と。それから、事件内容もよくご存知あげないままに、
「この程度の事件であれば」とか、
「証拠隠滅の恐れは先ずありませんし」とか、
「彼女の身元は私とこちらの牧師さまが責任を持って引き受けますので」とか、
そんなこんなをペラペラペラペラペラペラペラペラ。彼は語った。語り続けた。あまりにも巧みな語り口調なので、往年のオーソン・ウェルズのように見えたり見えなかったりする署員も出たり出なかったりするくらいだった。
そうして、そんなこんなもあって、一番最初に彼に応対した受付担当の女性警察官 (バツイチ)は、自身の人生をふり返るとうつむき泣き出し、次に応対した捜査部門の男性警察官(本願寺派)は、牧師の足もとにひざつき改宗しそうになったので周囲の同僚に無理やり奥へ引き戻され、残った中年警察官(糖尿病)は、牧師と弁護士を交互に見たあと電話を取ると、
「あのー、すみません、署長」と彼の上司に助けを求めた。「拘束中の女性について話されたいという方が……」
この署で彼に対抗出来そうな人物と言えば彼女・小張千秋くらいしかいないだろうと判断したからである。であるが――、
「いいんですか? 署長」とそれからほどなくして左武文雄は訊いた。「あんな簡単に決めちゃって」
と言うのも、問題の巨漢弁護士の話を聞いた小張千秋が、概ね2分30秒のあたりで、
「ええ、はい、まあ、そうですよね」とマリサ・コスタの釈放を即決したからであった。「皆さまの住所と電話番号、それに連絡先のメールアドレスだけ忘れず担当にお伝え下さい」と。
実際問題、どうせ逃亡先もないだろうし、隠滅するような証拠も――彼女は素手で二十人近い警察官を倒していた――ない、と小張は考えたわけである。彼女は言う。左武に向かって、
「ま、詳しい捜査は続けますし、事件の送致もするのはしますが……」とここで少しの間を取って、「どうかなあ? 不起訴にされちゃうんじゃないかなあ?」
「は?」とこの言葉に左武。彼女の後頭部にしつこそうな寝ぐせを見付けながら、「二十人ちかい警察官をメッタメタのボッコボコにしたのに?」
「うーーーーーーん?」と小張。「わっかんないんですけどー」と腕組みしつつ振り返り、「取り敢えずは、あの牧師さんと弁護士さんの身元洗ってもらえます? 深く」
「え? ええ、それは、まあ……」と左武が応え、
「多分なんですけどー」と小張は続けた。「多分どこかでー」と斜めに首を傾げつつ、「“あの”天台グループに繋がると想うんですよねー、あの弁護士さん。多分ですけど」
(続く)




