その10
『さあ行こう青空の彼方へ。
さあ行こう青空の彼方へ。
バックアップは取れたか?
残りはそこに隠しておけ。』
さかえのことは忘れろ。あの家で暮らしていたことは忘れろ。そんなことを考えるんじゃあない。お前がいま居るその場所だって、別に世界で一番最悪だってわけじゃあない。そう。世界にはそこよりもっと最低で最悪でクソみたいな場所はいくらでもある。お前は恵まれている方さ、取り敢えず。衣食住には困っていない。いいか、灰原神人。どんな不幸からも喜びを拾い上げ笑って暮らす才能を誰もが持っているんだ。そう。どんな不幸からでも、どんな地獄からでも、どんな手段を使ってでも。さあ、頭を上げろ、灰原神人。前を向くんだ、灰原神人。
『さあ行こう青空の彼方へ。
さあ行こう青空の彼方へ。
世界は変わり果てたのか?
また日々のみ過ぎて行く。』
こんな顔だったか? こいつ。灰原神人が顔を上げ、前を向いた先にあったのは、かつてのクラスメイトの写真だった。黒縁の額に入れられ、バラを模した灰色の帯を掛けられ、他に適当なものもなかったのだろう、いまの彼と同じ詰襟の制服を着て、血の色は薄く、頬の肉はこけ、峭刻とした表情の中、眼鏡の奥の瞳だけが炯々と――って、うちの奴らは大体こんなもんだったなあ、俺も含めて。
『さあ行こう青空の彼方へ。
さあ行こう青空の彼方へ。
私が誰か知っているのか?
君は誰か分っているのか?』
式の帰りに突然教師が中華料理屋に入ろうと言い出した。ドシャ降りは続いていた。「なんだか俺も疲れた」とか、「寮のみんなには内緒だぞ」とか、「遠慮せず、好きなものを頼め」とか、俺たちを気遣おうとでもしているのだろうか、ただただただただ、薄っぺらな言葉をつないでいく。俺は、くもったガラスの向こうに、ぼやけた世界を見ていた。靴は濡れ、なかなか乾いてくれそうになかった。「あいつを殺したのはあんただろ」もう少しで叫び出してしまうところだった。「俺たちを殺したのも」
『さあ行こう青空の彼方へ。
さあ行こう青空の彼方へ。
バックアップは取れたか?
残りはそこに隠しておけ。』
ねえ、サッちゃん、本当にどこに行ってしまったんだい? 親父たちの言うことなんか気にしないでさ、隠れんぼなんてしていないでさ、出て来てくれよ、出て来てくれよ、出て来てくれよ、出て来い! いいから出て来いったら! サッちゃん! どこでもいいからさ、君が倒れたなんてウソさ、あの家がなくなったなんてウソさ、こんなところは家とは言えない。ひとが住んでいい場所なんかじゃない。頼むよ、サッちゃん。出て来てくれよ、サッちゃん、頼むからさあ。楽しかったことはすべて覚えているんだ。いやなことは忘れたいんだ。だから、出て来ておくれよ、聞こえてるだろ? 君たちのことを忘れたなんてウソさ、あの家がなくなっちゃったなんてウソさ、どこでもいいから出て来てくれよ、僕のことを忘れたなんてウソだろう? ウソだって言っておくれよ、サッ――、
プツッ。
とどこかで凧の糸の切れる音がして、灰原神人は目を覚ました。暗い、泥のような闇の中から。それは、ふたつのちいさな凧だった。けっして来ないサンタクロースの代わりに、彼らが互いに贈り合った、手作りのふたつの凧だった。報せは届いたのだ。それが彼には分かったのだ。青い青い空に舞い上がって行く、糸の切れた、ふたつの凧の姿から。灰原神人はつぶやいた。誰にも聞こえることのない声で、
『さあ行こう、青空の彼方へ。
バックアッ、プは取れたか?
さあ行こう、青空の彼方へ。
世界は変わ、り果てたのか?
さあ行こう、青空の彼方へ。
俺が誰だか、知っているのか?』
*
コンコン、コンコン。
と扉をノックする音が聞こえ、優太は急いで電話を机の上に置いた。「どうぞ」と返すと、小柄で小太りの白衣の研究員が中に入って来た。恐る恐るといった感じで。頬が上気し、息は切れていた。
「え? なに?」優太は訊き返した。「なんですって?」
「つい、5……10分ほど前です」研究員は応えた。腕時計を確かめながら、「灰原神人の死亡を確認致しました」
*
窓を開いて空気を入れ替え、濡らしたタオルを額に当てた。出されたお茶を二杯飲んだら、だいぶ気分が落ち着いて来た。タオルをずらしてまぶたに当てた。タオルには熱を冷ます以外にも効果があった。彼女のすがたを――健康的な大腿部とか少し変わった耳のかたちとかを――視界に入れずに済むという効果が。
と言ったところで。
ほんと、思春期の男の子ってのは大変なんですね、と他人事ながら想う今日この頃の作者なわけだが、ご本人の清水朱央くんにして見れば、彼は彼で、記憶が戻ってからこっち、例の『窓』に遭遇してからこっち、彼女、祝部ひかりに対して向ける自身のまなざしが微妙に変化していることに――より彼女を女性として意識してしまうことに――動揺を隠せないのも事実な様子であった。であったが、
「ほんと大丈夫?」とそんな彼の、空回りする三分の一の純情な感情には気付きもせずにひかり、彼の肩に手を置いて来る――彼女は彼女で、彼と一緒に例の『窓』に触れてからこっち、彼への信頼度・親密度が更に増したのか、平気で彼のATフィールドをすり抜けてしまう――んだけど、そういうとこだぞ、お嬢さん。
「う、うん、うん、大丈夫」と身体をこわばらせる朱央、「そ、それより、そろそろ本題に」と言って出来得る限り風上に――彼女のにおいをもろ被りしないよう風上に――移動する。「じ、実のご両親のことだったよね?」
さて。
祝部ひかりが、自身の周囲で起き始めた奇妙な現象(『窓』の出現や記憶にない過去の夢、級友・内海祥平の『ジャンプ』等)に悩み、それがなにか、彼女の知らない実の両親と関係しているのではないか? と推測、養父の優太に彼らの資料を依頼、そのデータを貰うことが出来た――と言うのは前にも書いたとおりであるし、
「イメージとちがった?」と朱央が訊き、
「どことなくなんとなく雰囲気は似てたんだけどね」とひかりも返すとおり、「その『窓』の向こうで見た人たちとは似ても似つかなかった」
もらったデータの彼らが、『窓』の向こうに見えるイメージ――赤ん坊を抱いた若い男女のイメージ――とかけ離れていたことも、以前に書いたとおりであって、そうして、彼女のこの直感がまったく当たっていたことも、こちらもすでに書いたとおりであった。何故なら、データの彼らは、優太が会社に言って見繕わせた、ひかりとは何の関係もない普通の男女であったから。そうして、
「そっか、それで僕に相談があるって言ってたんだね」朱央は言った。まぶたのタオルをおでこにずらし、彼女の顔を見つめながら、「だけど文化祭や先名さんのことがあって、それどころじゃなくなっていた」
「そうね」とひかり。かすみのことを想い出し涙が流れそうになったが、それでも、「でも今回のことではっきりしたわ」と、「お父さんはウソを吐いてる」そうして、「私の実の両親を見付けることで、きっと、いま起きている色んなことの意味が分かる、謎が解けるような気がするの」と。だから、「だから協力してくれない? 朱央?」
(続く)




