その17
祝部優太が小紫かおるのことを想い出す時、そこには必ず、ひとりの女性の写真が付いてまわった。何故なら、彼を部下にと言われたとき、本人の写真や経歴よりも先に、その写真を見せられたからである。
「どう想う?」上司は訊いた。
「どうって?」優太は訊き返した。
「人を殺すだけの価値があると想う? その女の人に」
彼女の髪はなめらかで瞳は大きく、両方の頬には飾り気のない薄桃色が差していた。鼻筋はきれいにとおり、口は少々大きすぎる気がしたが、まあ先ず美人と言って差し支えない部類であった。であったが、
「流石にそこまでではないのでは?」優太は答えた。正直に、「まあ、関係性次第でしょうが」
「赤の他人」上司は答えた。「当人は何だかごちゃごちゃ言っているようだけどね」新たに薄いファイルを優太に向けて、「まったくの、言葉も交わしたか怪しいくらいの赤の他人。そんな人のために、三人殺したらしいわよ」
それが彼、小紫かおるだった。能力は使わず、見ず知らずの女のために、それなりの社会的地位を持った男を三人、その手で殺したのだという。
「ふむ」
とここで優太は息を吐いた。そんな彼のことを想い出しながら、樫山家の急な、きしむ階段を上りながら、前を行く女性のほそい背中を眺めながら、「全然じゃないか」と。「全然違うタイプじゃないか、かおる」と。
彼の前を行く女性、この家の二階に向かう樫山ヤスコの髪は縮れていて目はほそく、肌は白いが寝不足気味で、けっして不器量とは言えないものの、そのうしろ姿は少年のようにも見えた。見えたが、
「ふむ」
と優太は息を吐いた。ふたたび。彼女について語るときのかおるの表情を想い出しながら、「きっとそれでも」と。「きっとそれでも、似たものを感じたんだろうな、お前は」と。
そう。実際問題、小紫かおるにとって樫山ヤスコは、彼女の小説から感じ取れた彼女、現実に会って話をした彼女は、それまでの彼の人生からはほど遠い場所にいる人物だった。まったくの赤の他人。レモンや石鹸のような清潔さ、それに朝食用のシリアルや買い忘れた牛乳をイメージさせるある種の健全さを持つ圧倒的な赤の他人であり、それが、そここそが、彼が唯一愛した女性と、樫山ヤスコとの共通点であった。
「あのー」とここでヤスコが言った。「部屋はここなんですが」優太の方をふり返り、「こちらで少々待っていてもらえますか?」
「は?」優太は訊き返した。唐突に現実に引き戻された感じだった。「え? あ? それはどうし……」
「部屋が」ヤスコは続け、「ちょおーーーーーーーーーーっと、取っ散らかってまして」
「あー」と優太は答えたが、「でしたら、どうぞごゆっ――」
と彼が言い切る間もなくヤスコは部屋の中へと消えて行った。
「四十秒、四十秒で支度しますので」と、空賊的言い訳をしながら。流石にそれは短すぎないか? とこちらが想う間もなく、
ドン。
ガラガラガラガラ。
「いってッーーー」
と、案の定な音やら悲鳴やらを上げながら。優太は叫んだ。
「どうぞ、あわてず、ごゆっくりー」と扉のこちらで。苦笑しながら時計を確かめ、「それほど急ぐ話でもありませんのでー」
廊下の窓から外を見ると、雨は激しさを増していた。かおるの顔がそこに見えたような気がした。
「すまない」そうつぶやいて目をそらした。階段の方を向き、そこに腰を下ろした。「ふう」と今度はすこし長めのため息を吐き、眼鏡の下に手をやった。「やれやれ」左の目を軽く押した。
そもそも優太が、かおるを彼女に近付かせた理由。それは、彼女の父・昭仁が握っていた、研究していたであろうデータ――例の『リスト』のベースとなる情報――を彼女に捜させ発見させることであり、それは概ね順調に進んでいる様子だった。がしかし、かおるがその在り処と正体をつかむ、彼女から教えてもらう前に、今回の事件は起こったのである。
そのため、そこで、また改めて深山あたりを彼女に近付けさせることも考えたが――深山の能力なら彼女を傷付けずデータを盗んでくることも可能だろう――、かおるが殺され、深山の方にも余力はなく、更に、灰原神人の能力は優太たちが想像していたのとは違う、より厄介なもののようにも想え、あまり手間と時間がかかる方法は取りたくな――。
とんとん、とんとん、とんとんとん。
雨が、廊下の窓を叩いた。まるで優太を呼んでいる様子であった。がしかし、彼はそれを無視した。無意識に。彼は彼で、ふり返る余裕も余力もほとんど無くしていたからである。過去をふり返り、現在につまづいていては、未来へは向かえない。そう。それは、ある種の薬といくつかのウソを使ってヤスコをこちら側に巻き込む――データの提出と解読の継続を行わせる――結論を出させるほどであった。
「すまない」彼はつぶやいたが、それでもふり返りはしなかった。何故なら、この事をかおるが知ったら、きっと口汚く彼を罵るであろうと、そう彼は考えたからである。「すまないな、かおる」
*
「すみません、まひろさま」
とここで時間は前後する。前後して、不破友介は訊いていた。悪魔のくせに驚きうろたえ、「なにをそんなにお嘆きに?」と。
と言うのも、目の前のソファに座るまひろが、不意に、おろおろと、涙を流し始めたからである。
「どこか痛まれるのですか?」不破は訊いた。
「ううん」まひろは答えた。目を閉じ、首を横に小さく振って、「どこも痛くない」
「スープがお口に合いませんでしたか?」不破は訊いた。
「ううん」まひろは答えた。「すごくおいしいよ、ごめん、不破さん」
「お話がまずかったですか?」不破は訊いた。
「ううん」まひろは答えようとして、その言葉を飲み込むと、代わりに、「実は――」と涙の理由を語り出した。ポツポツと。頭の中をゆっくり整理させながら、「さっき夢で――」
彼女は語った。涙を流した直接のきっかけは、不破の物語の主人公とその亡き母親の再会シーンであったこと。それと似た経験を、自分も最近したばかりだということ。自分も祖母と、先日亡くなったばかりの咲子と、夢で再会したのだということ。そんなことを、ぽつぽつぽつと、つまづきながら。
「昔みたいに」まひろは続けた。泣きながら、「僕を抱きしめてくれたんだよ」と。「僕があの子をかばったことを『それはいいことをしたね』って言ってくれたんだよ」と。
「なるほど?」不破は訊き返した。心配を止め、不思議がる風もなく、「――それから?」
そう。それから彼女は、祖母と離され、世界が終わる直前へと弾き飛ばされた。もちろん夢の中で。そこは、気持ちのよい初夏の昼下がりであった。
そうして、その気持ちのよい昼下がりの夢の中で彼女は気付いた。その世界を終わらせようとしているのが自分自身であったことを。腕が、胸が、身体が、幾千もの光と闇に包まれ、いまにも爆発、何かを開こうとしているように感じたことを。
「なるほど?」ふたたび不破が訊いた。ふたたび、不思議がる風もなく、「――それから?」
そう。それからそこに現われたのは彼女の兄の富士夫だった。
「『もう、間に合わないんだ』」まひろは答えた。「そう兄さんが言ったんだ」彼女を抱き寄せながら、「『だが、安心しろ』って、『お前も、俺の家族だ』って」
そうして彼女は、そのときの兄の表情と震える手から、彼が何かを決心していることを、自身を犠牲にしてでも彼女を守ろうとしていることを、はっきり理解したのだという。
「なるほど?」みたび不破は訊いた。今度はすこし、不思議そうな顔をして、「――それから?」
「それから?」まひろは訊き返した。
「それから後は?」続けて不破は訊いた。
そう。それから後は、言葉に上手く出来なかった。時間と空間と光と音楽が、爆発し、拡散し、エントロピーを増大させつつ、あるいは減少させつつ、確率論的すべての宇宙を巻き込みながら、すべてが集まり崩壊していく様を彼女は見たのだが、それをどのように不破に伝えればよいのか、それが彼女には分からなかったのである。ただし、
「富士夫さまは?」という不破の質問にはすぐに答えられた。
「飲み込まれてた」と。止めようとした涙をまたおろおろと流しながら、「きっと、最初の爆発で僕をかばって――」と。
もちろん。これらはあくまで、長いながい眠りの中で彼女が見た夢であり現実ではない。が、しかし、それでも、その夢を体験させられたまひろにしてみれば、それは圧倒的な現実感を持った夢であり、またすべての元凶・責任が彼女にあると実感させられる夢でもあった。彼女は続けた。
「町を出た方がいいのかな?」とつぶやくように、「この家や、兄さんとも距離を取った方がいいってことなのかも」と。
つまりこれは、それほど現実感を伴った夢であったということなのだろうが、そんな彼女の想いも知らずに不破は訊く。
「なるほど?」と改めて、なかば機械的に、「――それから?」
「それから?」まひろは訊き返した。
「それでおしまいなのですか?」不破が言った。今度はすこし強めの口調で、「咲子さまと別れ、富士夫さまとも離れ、世界は終わる? 本当に? すべての宇宙が崩壊し、すべてがゼロに。いや、ゼロすらない、時間も空間も確率すらもない状態、いや、状態すらない状態になって、それでおしまい? 本当に?」
「え……?」とまひろは戸惑った。が、
「さあ、まひろさま」悪魔は続けた。強い口調で、それが最後の希望でもあるかのように、「――それから?」
(続く)




