その11
東から冷たい風が流れて来ているのは知っていた。しかしその場の消防士たちには、あちらの雨雲がここまで来ることはないだろうということも理解出来ていた。必要なときに、必要な場所へ、必要な量の雨が降るなんてことは、まあ先ずあり得なかった。「あれば奇跡だ」と。が、しかしそれでも、彼らは雨を期待した。晴れた日に降るはげしい雨を。それを見た先輩たちのいたことや、彼らの言葉を想い出しながら。
若い消防士たちはなかば興奮気味にホースを伸ばし、危険物の有無や建物に取り残された人がいないかを確認していた。ベテランの消防士たちはゆっくり全体を確認し、この建物がもう助からないこと、やり方を間違えれば近隣のビルも一軒、いや三、四軒は全焼あるいは半焼の可能性があることを理解していた。増員を要請し、きっと降らないであろうはげしい雨を期待した。
とそこに、燃えさかるビルと隣のビルとのすき間から、ひとりの青年が転がり出して来るのが見えた。ひどく怯え、シャツの袖とズボンの裾がすこし焦げている様子だった。消防士のひとりが駆け寄って行った。
「大丈夫ですか?」消防士は訊いた。
「だ、だ、だめです」青年は応えた。ひき続き、怯えた様子で、「ち、近付かないで下さい」
そう言いながら青年は、ひざを地面に立てたまま、消防士の方へその細い右手を突き出したのだが、ハッとなってそれを引っ込め、
「ち! 近付かないで!」と叫んで立ち上がった。「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「え?」と消防士は驚いた。
と言うのも、立ち上がった青年がそのまま、燃えさかるビルへと駆け込んで行ったからである。
「ごめんなさい! 近付かないで下さい!」と続けて叫びながら。
「ハッ?」
と駆け寄った消防士も、それを見ていた周囲の消防士たちも驚き固まっていたが、それでも、一瞬のち彼らは、正気に戻ると、炎の中に消えて行った青年の後を追おうとした。が直後、
ガラッ。ドシャ。ガタンッ。
と燃えさかるビルの入り口がくずれ、彼らはそこに釘付けにされた。その建物は相当古い造りであった。
そうしてそれから、幸いにして、この日の火事は、彼ら消防士の尽力もあり、火元のビル一軒を全焼しただけで済んだ。数人の軽傷者はあったものの、周囲のビルへの損害は軽微、ひとりの死者を出すこともなかった。
そう。問題のビルはこの日、もぬけの殻だったのである。その後の調査で、ネズミの死体がいくつか出たりはしたものの、それでも、人間の死体はひとつも見付からなかったということであった。
「それでは、あの青年は?」
と、その時その場にいた消防士たちの間ではしばらく話題になったが、それも結局、すぐに忘れられることになった。彼が駆け込んだのは実は隣のビルだったとか、そもそもそんな青年は存在せず、彼らはなにか、集団幻覚的なものを見ていただけなのだ、とかなんとか、適当な理由をでっち上げながら。
そうしてまた彼らは、青年がビルに駆け込んだ直後、入り口が崩れる直前、炎の向こうに、青白い光がひかるのを見たのだが、これも幻覚、あるいはつよい稲光であったと理解していた。何故ならその後、すさまじい、龍の叫びのような雷鳴がとどろき、はげしい雨が降り始めたからであった。
*
石神井町を中心とした練馬区周辺の地図が壁に貼られ、そこに新たな赤い押しピンが刺された。今度は石神井川と目白通りが重なるあたりに。その前は大泉ジャンクションの近くで、その前は右京が呼ばれたボヤの現場、それからその前はすこし飛んで成増の中学の近く……といった具合に、ピンの場所や刺された順番にこれと言った法則性はないようだったが、もちろんこれは、小張千秋らが把握出来た範囲でのマッピングでしかないし、中には本当の……というか、別の原因による火災も含まれてはいるだろうから何とも言えないのだろうけれど、それでも、
「これは……多いのか?」と左武が訊き、「消防署のひと曰く、ここ数日、“妙に増えているような気がする”んだそうだ」と右京も答えるとおり、ここ練馬区とその周辺の一部エリアで火災事故の件数が増えているのは確かなようであったし、それぞれの調査が進めば、その『火元不明』となる率も上がっていることが分かったかも知れない。
トタン、ト、タンタントン。
と、小張千秋の(まっ平らな)胸を叩く音が聞こえた。彼女はうなる。
「うーーーーーーーーーーーーーん?」と小さなエアコンがうなるような感じに。「こっまりましたねえ」
前回右京が持って来た防犯カメラの映像。あそこに映っていたのは確かに、母親殺しを自首しに来た――そうして取り調べの最中に突然消えた――青年、戸柱恵祐であった。が、まあそれは、まったくの行方不明であった彼を探す手掛かりが出て来たと想えば、それほど困ったことではないのだが、困ったことは大きくふたつ。
トタン、ト、タンタントン。
と、ふたたび小張。今度は(こちらもまっ平らな)おしりの辺りを叩きながら、
「ひとつは、彼の移動手段? 建物への侵入方法? がまったく不明なこと」
それから?
「それから、こっちの方がよりこまるのですが――」と、
トタン、ト、タタトントン。
今度は(荒れたお肌の)両のほっぺを叩きつつ、
「あれ、火が付いたことに気付いていませんでしたよね? 戸柱さん」
問題のカメラ映像を見るかぎり、彼は火元となった段ボールの上に落ちては来たが、すぐにそこから離れており、例えばなにかを念じるだとか、例えばなにか力をためるといったそぶりはしておらず、なんなら、段ボールの山があることすらほとんど意識していないように見えた。
「『能力』が暴走してる?」左武が訊いた。
「おそらくは」小張が答えた。「それにそもそも、コントロールし切れていないようでしたからね、最初から」
なので、先ずは彼を――出来るかどうかは分からないが――見付けて保護が最優先。それから暴走を止めて貰うよう――ってこっちの方こそ出来るどうか不明だけれど――とにかく説得。と行きたいところだが、どこにどう行けば彼に会えるのかからまったく分からない。
「むーーーーーん?」と小張。ふたたび問題の映像をのぞきつつ、「――うん?」
とここで彼女は、画面の右上、戸柱恵祐が落ちて来たあたり、最初になにかが光った部分が、少しく歪んでいることに気付いた。
「これって……、どこかで……?」
最初はただの映像あるいはパソコン画面の歪みかと想い見逃していたのだが――、
「あぁ」
とようやく彼女は気付き、想い出した。歪んでいるのは映像のみで、しかも、戸柱恵祐が部屋を出て数秒後には消えていること、それに、これとよく似た時空の歪みを、彼女が最近見ていたことに。
「高校での殺人事件ですね」彼女はつぶやいた。「先名かすみさんが殺されたあの高校。あそこの廊下で似たような歪みを見掛けてたんでした、私」
もちろん、それが何にどう繋がるのかは、いまだ不明な彼女であったが。そうして――?
*
「すると、あの『ひかりの壁』を通ると、別の場所へ行ける――ということですか?」
と石橋伊礼は訊いていた。こちらは、前回登場時からひき続き、彼が経営する行政書士事務所のソファの上。そうして、この問いに応えるのは、
「『行ける』と言うよりは、『ふっ飛ばされる』という感じですがね」と言う山岸富士夫と、
「そうそう。こっちの意思とか無視した感じで」と続ける木花エマである。「ふっ飛ばす先もまったくのランダムって言うか、行き当たりばったりって感じで、最後は私、『ケヤキのボブ』のてっぺんに放り出されましたからね」
忘れている方もいると想うので一応補足しておくと、こちらのエマも、日は違うものの、富士夫同様、光る何かに引き込まれ練馬区中をふっ飛ばされたのであった。
が、まあ、それでもあれは、直接誰かの力が働いたと言うよりは、富士夫ともうひとり、例の野球部員・内海祥平が『ジャンプ』させられたその余波であったのだが。
(続く)




