その9
トタン、ト、タンタントン。
トタン、ト、タタタントン。
トタン、ト、タンタントン。
と引き続き小張はひざを叩いていた。左武は会話が終わったのだと想い、ラジオのボリュームを元に戻そうとした。とそこで、
「あれはどうでした?」と小張が訊いてきた。考えが纏まりかけているのだろうか、「あれ、左武さんはどう想いました?」
「あれ?」と左武は訊き返した。進む道の先に渋滞が見えた。やれやれ長くなりそうだ。「あれって犯人の?」
今回の都内行き、祝部優太との面会の第一目的は、彼と言うか彼を含めた複数人が、先名かすみ殺害の犯人を隠している、あるいは匿っているのではないか? という小張の、謂わば直観的推理のヒント・裏取りになるものが何か取れないか? というものであったが、
「どう想うもなにも」と左武も答える通り、「あちらの『声』が聞こえなかったので、なんともかんとも」
小張が投げかけるいくつかの質問に対して優太は――多分に十分な注意を払って――犯人のことはもちろん、そのヒントになるような事柄もなにもないし知らない、という態度で受け答えていたし、それを見越して連れて行った左武も結局、優太の『こころの声』とやらは聴けなかった――のは、これまで書いて来たとおりである。なので、
「あ、それはそれで仕方ないんですけれど」と小張は続ける。「お訊きしたかったのは、そっちじゃないんですよ」――車が止まり、いよいよ渋滞が始まった。
「“そっちじゃない?”」左武は訊き返した。
「優太さんのお顔です」小張が答えた。「まあ、声とか喋り方でもいいんですけれど」
「声?」
「表面的には元気でしたけど、なにか、こう、全体的に、元気なくなかったですか?」
*
その子を見かけたとき祝部ひかりは、怒り……と言うほどでもないが、憤り……ともまたちがう、なにか、こう、全体的になんとも言い切れない、そんな被害者意識のようなものを感じていた。
もちろん。その女の子にひかりをイジメてやろうなんて考えはまったくなかったし、そもそも彼女はひかりのことを知りもしなかった。
そう。そのときの彼女は、ただただ恋をしていただけであり、その恋ごころとやらを行動に移すための勇気を、やっとふり絞ったところであった――彼女が恋していたのは、清水朱央であった。
彼女は、すこしぽっちゃりとしていて、背はひかりとあまり変わらなかったが、どことなくリンゴのような雰囲気を持っていて、香ばしく甘く、髪はゆるいお下げで、朱央の言葉にそちらを向くと、すこしユーモアっぽさのただようほほ笑みで彼を見上げるのであった。
ふたりで一緒に帰ろうと言い出したのは彼女の方だった。
クラスの委員会で一緒になることは何度かあったが、ここ数ヶ月ほどの彼は、とにかく早く学校を出よう、とにかく早く門を出ようとしているのが周囲の目から見ても明らかで、「きっと彼女が出来たのよ」と女生徒たちの間で噂に上がるほどであったし、また、別の学校の女生徒と一緒にいたとか話してたとか、夜道をふたりで歩いてたとか、なんとか、かんとか、様々な目撃情報も、静かに早く速やかに、彼女の耳にも入って来ていた。
が、しかし、そんな彼も、今日は様子がちがっていた。朝から。元気がないとか落ち込んでいるだとか、そういうわけでもなさそうなのだが、なんだか時々、窓の外を見ては不思議な顔をしたり、友だちの言葉に遅れて反応したり、それに放課後、いつもなら駆け足で帰って行くところをひとりゆっくり、教室にすわっていたのである。前を向いたまま、まるでこれから、「これから、どこに行こう?」と、自分とはちがう自分に問いかけるような格好で。
そう。そのためやっと、彼女はなけなしの勇気をふり絞ったのである。「ねえ、清水くん?」と。「よかったら、一緒に帰らない?」と。
もちろん、彼女の意識的には、その恋ごころの成就が第一の目的であっただろうが、それだけではない、何故だか彼をひとりにしていてはいけない、そんな風な想いが、彼女の横を通り過ぎて行ったのも確かであった。
そう。そうして、夕暮れの通学路を、少し離れて歩く彼らの姿は、普通の感性を持った者からすれば、きっと、「青春」だとか「花の盛り」だとか、あるいはもっと端的に、「恋の始まり」のようなタイトルをつけるような光景であり――そうしてそれを、祝部ひかりは見たのである。
が、ただ、彼女が、祝部ひかりが、はしり出し、息を切らし、なみだを流し、立ち止まり、なにかの布切れかぼろクズのように、道端にくずれ落ちるまでには、実はまだ時間があった。なぜなら、彼女の記憶は消えていたから。リンゴのような女の子に、怒りや敵意や憤り――『そこは私の場所なのに?』――それに被害者意識のようなものを感じたとしても――『彼の笑顔は私のものなのに?』――それが彼女の身体を駆動させるためのスイッチあるいはリレーであるところの彼との記憶・想い出は、いまの彼女には欠けていたから。
東の空で、雷が鳴った。
空気が冷たくなるような気がしたが、流石にここまで夕立は届かないだろう。昨日の雷が想い出さ――いや、そちらの記憶も曖昧なままに消されていた。
「それでね、清水くん」とリンゴのような女の子は言った。その声が聞こえるほどに彼らの距離は近くなっていた。たそがれ時の小道に他に人影はなく、リンゴのような女の子は次の話題を考えるのに必死な様子であった。
ひかりは、自分でも分からぬまま、彼らから目が離せず、また朱央の方は、ひかりの存在に気付き、一瞬目を奪われはしたものの、それでも彼にも記憶はなく、隣を歩く少女の必死さにどうにか応えようともしていたので――それは彼の善良さがなせる技であり、そこもひかりは気に入っていたのだが――結局彼らは、そのまますれ違うことになった。
声を掛け合うこともなければ、会釈をし合うこともなく、しかも彼のひかりを見る目は、明らかに彼女を知らないひとの目であるように、そう彼女には想えた。
そうして、それが彼女を動かすリレーあるいはスイッチになった。消えた記憶の代わりの。
彼女は走り出していた。彼女の身体は。どこへ? 西へ? 東へ? そんなことはどうでもよかった。ただ、そのこころ或いは魂を守るために、彼女は逃げ出したのである。彼から、彼のあの、まったくの他人を見るような目から。息を切らし、自分でも何故だか分からない、なみだを流しながら。
*
「いっててててててて」
治りかけのアザの横に、小さなアザと大きなアザがひとつずつ出来上がろうとしていた。治りかけのものはアルミ製のフライパンが原因で、新たなものはかったい文庫本と、もっとかったい消火器が原因であった。いずれもか弱い乙女(自称)が力任せにぶん投げたものであった。アザの持ち主――消火器その他をぶつけられた男性――はくり返した。
「いっててててててて」と少々大げさに。それから、
「俺は、俺の妹が、こちらの石橋先生に何かご相談を持ち掛けていると聞いて、その話を聞きに来ただけだよ」と続けて、わざとらしいため息をひとつ漏らした。「すこしは誤解は解けたかね? 危ないお嬢さん」
ちなみに。
ここで言う「誤解」とは、ひとつは彼・山岸富士夫が、彼氏持ちの可憐な男性である石橋伊礼を襲う、あるいは口説き落とそうとしているという、うら若き女性ならば必ず一度はする誤解であり(注1)、もうひとつは、こちらも彼・山岸富士夫が、数日前、“お嬢さん”こと木花エマとその友人・佐倉八千代の目のまえに全裸姿で落っこちて来たのは、あくまで何かの事故というか超常現象に巻き込まれたからであり、彼がうら若き女性に自身の大層ご立派な男(*自主規制)を見せて興奮するようなド変態野郎だというエマの主張のことである。エマは訊いた。
「うーーーーーーーーん?」と。それでも八千代と伊礼を彼から離しつつ、「それじゃあ、石橋さんを襲おうとしていたのは誤解だとして」それはそれで少し残念だなーとか想いつつ、「その事故? 超常現象? ってのは一体なんなんですか?」
「詳しくは分からんよ」と富士夫。「俺も君らにまた会うまでは、あれを夢だと想ってたくらいだからな」
が、それでも、あの夜、ひとりホテルで酒を飲んでいたら(注2)、
「急に光るトンネル? 壁? みたいなものが現われて、そのままギュッと引き込まれて、それからあちこち飛ばされたんだ」と。「どうして全裸になったかまでは分からんよ(注3)」
とここで、
「え?」とエマたち三人は同時に声を上げた。「『壁』?」
と言うのも、八千代と伊礼は、彼らが見たビジョンの中で、エマは、つい先日飲み込まれた『裂け目』に入る直前に、その『光る壁』を見ていたからである。
(続く)
(注1)とある高名でない研究によれば、成人女性の約八割、未成年女性の約六割は、男が本当に好きなのは男であり、彼らは、女たちの見ていないところでイチャコライチャコラ、昼夜を問わず口説き合ったり愛し合ったり、なんやかんやと恋の駆け引きをしては、傷付いたり傷付けられたりを繰り返している生き物であり、そこからあぶれたかわいそうな男たちだけが、仕方なく、本当にどうしようもなく、我々女性を口説きに来ているのだ――という誤解というか妄想を抱いているそうである。
(注2)賢明なる読者諸姉諸兄におかれましては、あの夜あのホテルには、山岸富士夫の他にもマリサ・コスタがいたことを当然ご記憶のことかとは想いますが、ここでまた『ドレス姿のきれいな外国人のお姉さま(しかも人妻)とふたりで一緒にお酒を飲んでいた(しかも密室で)』なんて事実を言おうものなら、今度は事務机が飛んで来るので、咄嗟にウソを吐いてしまった富士夫お兄さんなのであります。
(注3)この件に関しては、他にも『ジャンプ』で飛ばされた面々――内海祥平、木花エマ、祝部ひかり、山岸まひろ――の服が脱がされたり消されたりしていないことを考えると、色々謎は残りそうなのだが、ここで世界の秘密をひとつお教えしておくと、これはただただ、この物語の作者が、『ここで全裸にした方が面白くない? 富士夫兄さん何気にいいボディしてるし』との想い付きで彼を脱がしたものであり、特にこれと言った理由や伏線があるわけでもなく、気軽にスルーして頂ければ、こちらとしては幸いである――ごめんね、お兄さん。




