その8
「ぎゃっぁああぁあぁあぁああああ!!!!」
と、可憐な乙女(自称)は叫んでいた。叫んで、手持ちのショルダーバッグ、読み始めたばかりの『百年の孤独』(文庫版)が入った黒のショルダーバッグ、をぶん投げていた。そのため、その重たい黒のショルダーバッグは、
ガヅッ!
と見事に命中することになった。どこに? つい先日、かったいカップをぶつけられたばかりの男のおでこに。そのため、
「こ、木花さん?!」
と、この事務所の主・石橋伊礼は驚いていた。どうして彼女がごっつい文庫本が入った黒のショルダーバッグを男に投げ付けたかが分からなかったからである。そのため、そんな彼の戸惑いを彼の純真さに結び付けた可憐な乙女(自称)・木花エマは叫んだ。ふたたび、
「逃げて! 石橋さん! 変態です! 変態なんです! その男!」と。
すると、それから彼女は、伊礼を無理やり後ろに下がらせると、そのへんの机にあったペンやノートやペーパーウェイトなんかも問題の男へと投げ付け始めた。何故ならそいつの魔の手から、純真素朴な石橋伊礼を守らなければと考えたからである。エマは続ける。投げられるものならなんでも投げ付けながら、
「まったく! 石橋さんの! ひとのよさに! 付け込んで!」といつものBL脳のエンジンを起動させながら、「こんな! 白昼! 堂々! しっかも! オフィスでなんて!」と。
一応補足しておくと、もちろんエマも伊礼の同性愛は知っていたし、メガネにピシッとスーツの彼の見た目はたいへん彼女の趣味嗜好(なんの?)にも合っていた。
が、しかし、そうは言っても、「置くなら絶対右側よね」とそのきれいな横顔に目を奪われる(妄想を膨らませる)ことが多々あったとは言え、やっぱりそれは、あくまでただのファンタジー。夢と現実をごっちゃにしてはいけない類のファンタジーである。
ま、まあ、もちろん、広い広いこの界隈には、例えば自身の恋人(男)とその友人(もちろん男)をモデルに描き下ろしの新刊を準備したり(夏コミ向け)、例えば自身の旦那さまを主人公に将軍不在の逆転大奥もの小説をウェブで公開(有料)、すっごいPVおよび副収入を得ていらっしゃる猛者もいるにはいるが、流石にそこまでの狂気も覚悟も彼女にはなく、また、それにそもそも、伊礼と彼の恋人・川島重雄とのピュアピュアラブラブハッピーライフな恋愛模様は、傍から見ているだけでも嬉しく微笑ましく、そこに我ら女のファンタジー(妄想)なぞを指し込もうだなんて言語道断、そんなことをすればきっと、豆腐の角に頭ぶつけてバナナの皮で足滑らせて地獄に堕ちること必定だわ――と、自分を律してここまで来たのになによこれ? 六月とは想えないこの暑さの中、ヤッチと伊礼さんが夢で見たっていう『花盛りの丘』とやらを探しまわって東石神井を行ったり来たり、結局丘は見付けられなかったし、ヤッチはヤッチで最近なんだか怖いっていうか不穏な感じで、そんなこの子を刺激しないよう注意しつつ気をつかって、報告がてらこちらの事務所に来てみたら、そりゃもう、あなた(誰?)。そこにいたのが、石橋さんと二人っきりでいたのが、つい先日『シグナレス』に落ちて来た例の全裸変態ブタ野郎で、しかもこのフ(*自主規制)ン男、なんだかんだで素地がいいのか悪いのか、こちらも今日はピシッとスーツで、だけどネクタイ無しの首もとボタンひとつだけ開けーな感じは、いい感じに石橋さんと好対照を成しており、そんな変態野郎が可憐な石橋さんに言い寄っているシーン(注1)は、私の推しポイント押しまくりに押しまくりなわけで、これでご飯三杯は行けますね――ってちがう! そうじゃない! けど萌え――って、あーもうッ! どうすればいいんですかッ?! 先生ッッッ!!(知らねえよ)
と、まあ、揺れる乙女ごころと言うか、趣味と修羅と倫理観の狭間で切り割かれてパニくって、しかも数日前に見た変態全裸ブタ野郎のご立派なおチ(*自主規制)なんかも脳裏にフラッシュバックなんかしちゃったりなんかしたもんだから、
「おい! こら! 止めろ! 止めなさい!」と叫ぶ全裸変態ブタ野郎・山岸富士夫の声や、
「だめだめ! 木花さん! さすがに消火器はシャレになりませんって! 木花さん!!」とどうにか彼女を止めようとする伊礼の声も彼女に届くはずはなく、しかも――、
ギュッ。
と彼女を羽交い絞めにした伊礼の胸板ってのが、これまた想像以上に細マッチョな筋肉質で、
「きゃっ!」
と、顔とボディのギャップにおどろいたエマは、振り上げていたその消火器を、そのままブンッと放り投げることになってしまい、
ゴンッ!
とこちらも見事、ふたたび、富士夫のおでこに命中するのであった――ってか、なんでここにいるんだっけ? お兄さん?
*
石神井町に戻る途中、軽い夕立が彼らの横をとおり過ぎた。車を運転しているのは左武文雄で、小張千秋は助手席にすわり外を眺めていた。彼女がそこに座っている理由は、急な外出だったため、三人組のもうひとり、右京海都がそこにいなかったからである。車のラジオからは、まるでリアリティのないニュースがいくつかと、それに続くかたちで、どこかの誰かの、つまらないバラードが流れていた。夢がどうとか、希望がこうとか、ふたり出会えた奇跡にうんたらかんたらとか。
「むーーーーーん?」小張千秋がうなった。ちいさく。トタン、ト、タンタンタン。と軽く膝を叩いてから、「どう想いました? 左武さん」
「え?」左武は訊き返した。ラジオの音量を下げ、「そりゃまあ、ふつうだったんじゃないですか?」
祝部優太への事情聴取の二回目は、可もなく不可もなくと言うか、左武文雄の言うとおり「そりゃまあ、ふつう」だった。先名かすみ殺害事件に関して彼の知っている内容は、昨日聴いた内容とまったく同じだったし、追加で聴いた事柄のうち、深山千島との関係については、
「ええ、はい。私の部下ですが?」であり、「彼女、今回の件と関係が?」であり、「そんなこと、考えただけでセクハラですよ、いまのご時世ね」であった。「無論彼女にそんなこと、考えたこともないですが」
深山の件については、問題の現場から、彼女の指紋なり髪の毛などが発見されたわけではなく、あくまで消された靴の足あとなどから、小張が直覚的に「実はあの場にいたのでは?」と推理しただけのものなので、それ以上踏み込むことは出来なかった。そのため、今回のこの聴取は、これと言った成果があったわけでもないのだが、ただ一点。
*
「今日、彼女はどちらに?」と左武が、小張の話に割り込むように訊き、
「え?」と言った優太の答えには、いくらか成果があったのかも知れない。「あー、さあ、たしか外に出てるんじゃなかったかな? オフィスにはいなかったので」
*
「あれって……」とここで小張。トタン、ト、タンタンタン。と左武に訊く、「あそこにいたってことですか? 深山さん?」
「うーーーーーん?」左武はうなった。サイドミラーに三色の虹が映っていた。「まあ……これもあくまで感覚ですが」
と言うのも、昨夜の祝部家での聴き取り調査同様、今回も優太の『こころの声』というやつが、左武にはまったく聴こえなかったからである。
「“聴こえなさ加減”が一緒だった?」小張が訊いた。
「感覚ですがね」左武は答えた。「署長に言われて気付きましたけど、きのうの夜と、それに初めて“あの女”に会ったときの感覚。周囲の音が消えたあの感じ。あれと同じものを、あそこでも感じましたよ――あくまで、感覚ですけどね」
深山千島の能力――特定の誰かの記憶を消す場合も、特定の能力者の能力を無効化する場合も――は、例えばラジオのチャンネルを合わせるように、相手の記憶や能力に波長を合わせて行う必要がある。そのため、その波長や合わせる手付きというようなものは、ケース・バイ・ケース、相手によって微妙に変わり、それが目に見えない指紋のように、かけられた者、それも複数回かけられた者には、もちろんなんとなくではあるのだろうが、分かる、感じ取れるようなのであった。
「いた……のかも知れませんね」と左武。「多分、隣の部屋とか廊下とかに」チッとちいさく舌打ちをし、「ま、だからと言って、あれ以上は訊けませんでしたが」
まあ、それでも、優太がウソを吐き、彼女を隠そうとしていたことは分かったわけである。
(続く)
(注1)もちろんこれはエマの妄想で、富士夫が伊礼に言い寄ることは、まあ先ずないわけだし、伊礼的にも、富士夫は好みからは遠すぎて、なんのアレも湧かないのであった。




