その2
優太の手は震えていた。怒りで。男の話をすべて聞いて。途中、そのあまりの内容に、壁と机を一度ずつ殴ったが、それでも怒りは収まらなかった。手の震えも、もちろん止まらなかった。
男の話は誇張ではなかった。誇張ではなかったし、例えばドラマチックに、あるいは悪ぶれた感じで話すようなこともなかった。淡々、淡々、淡々と、男――灰原神人は、これまで彼が能力を奪い取って来た人たち――それはつまり、彼が殺して来た人たちという意味だが――について、どこの誰で、どんな能力で、どんな会話をし、そうしてどのように死んでいったかを説明していた。
彼が最初に能力を奪った男性――「たしか、桑山なんとかって六十手前のデブだったよ」――から、彼が先名かすみの前に殺した女性――「たしか女の名前を呼んでたな、きっと恋人かなんかなんだろう」――まで。
彼と優太は、厚いコンクリートと強化ガラスの壁で隔てられていた。やり取りはそれぞれの部屋に置かれたマイクとスピーカーを介して行われていた。深山とかおるは別件で不在だったが、灰原は例によって柱に堅く縛り付けられていたし、筋弛緩剤で両手両足は動かせず、いざとなれば直ぐにでも気絶させることも出来た。室内の気圧を調整したり、各種麻酔や電気ショックを利用するなどして。そうしてもちろん、優太自身も銃やスタンガンを持っており、彼らのこの様子は録画され、扉の向こうには警備のような人間も二人ほど立っていた。
優太は――彼の手はまだ小さく震えていたが――メモを、パソコンを打つ手を止めると、メガネを外してから、鼻あてが当たっていた辺りを軽く指でなでた。
『どうした? 終わりか?』男が訊いた。壁の向こうで、『まだひとり、残ってるぞ』
「知ってるさ」優太は答えた。つぶやくように、「お前に間違えて殺された子だ」
『ふーん』男が笑った。『おかげで、お前の“ひかり”を殺しそびれた』
「どうして間違えた?」
『さあな』男は答えられなかった。『間違えるはずはないんだが……』本当に、男にも分からなかった。『まあ、次は間違えんよ』
この言葉に優太は応えず、メガネをかけると立ち上がり、ゆっくり、正確に、パソコンのキーを叩いた。カタカタカタカタカタ。直後、
バヂッ、バヂヂヂヂッ。
短いが強力な交流電圧が二度、男に加えられた。男は気絶し、それに続くかたちで男の部屋の気圧も下げられた。
「ふう」と優太はため息を吐いた。「俺が殺してやりたいよ」続けてつぶやいた。録画に残らないよう注意して、「いますぐにでもな、くそ野郎」
会社の意向はあくまで、『灰原神人は生かし、研究対象とする』で変わっていなかった。
*
さて。
とここで話は突然変わるが、例えば、シャーロック・ホームズという名探偵を想い出して頂きたい。
彼は、そのデビュー作『緋色の研究』において、初対面であるはずのワトソン博士に向かい、「アフガニスタン帰り、ですね?」と、博士の前歴を見事に言い当てていた。
そうして、このときのことに対して、当のホームズ氏は後日、これは直観などではなく、いわゆる『演繹的推理』を利用して行なっただけなのだ、と語っていた。
そう。それは例えば、ワトソン博士が医師と軍人両方の雰囲気を持っていただとか、袖から覗く腕は白いが顔は日に焼けていただとか、左腕を負傷しやつれた顔をしていただとか、そういうことが観察で認められれば、英国軍医が左腕を負傷する場所とは?――とか言った感じに推理を重ねることで、結論を導き出したのだ、と。ただし、あまりにも素早くこの推論を行い、且つ中間をすっ飛ばして周囲に説明してしまったために、まるで直観のみにて正解を言い当てたように見えてしまったのだと。彼は言う、
「すべては観察と推理だよ、ワトソンくん」と。
がしかし、彼のこの言い分は、順逆が転倒しているのではないか? と想わされることがないわけでもない。
例えば彼、ホームズ氏のモデルは、作者であるサー・アーサー・コナン・ドイルの医学部時代の恩師ジョセフ・ベル医師であったとされるが、この彼は、訪れる患者の外見から瞬時に、その病名はもちろん、職業や住所、家族構成までをも言い当てるという特技を持っていたそうで、その特技は、日頃鍛えている観察眼によるものだ――と言うことであったが、それでもやはり、これはあまりにも推理が早過ぎるのではないだろうか?
確かに、ホームズ氏の言うとおり、証拠を重ねて論理を組み立てて行けば、いずれ真実へと辿り着くというのはその通りだろう。がしかし、いくら観察眼を働かせたとしても、人間が受信する情報は膨大に過ぎるし、いくら我々が脳細胞を超高速で回転させたとしても、人の意識というものは、知り得た膨大な情報を整理し選択し、演繹的推理を素早く行なうには、あまりにも速度が遅いのである――少なくとも、ベル博士やホームズ氏の逸話で見られるような速度を出すのは、我々の脳細胞、意識では不可能であろう。
そう。つまり彼らは、先ずはその身体すべてを使って「正解」をつかみ取り、その後、すこし遅れてから、その見事な観察眼や演繹的推理を使用して、「正解」の答え合わせ、検算をしているのではないか? と、この作者には想えるのである。
何故ならそれは、我々の脳みそよりも、きっと我々の身体の方が、もっとずっと“頭がいい”から。と言うことで――、
*
と言うことで小張千秋は突っ立っていた。いつものコーヒースペースのまん中で。左足の先を右太ももの付け根辺りに当てるかたちで。ただしそれだとすっ転ぶので、右手は丸テーブルの上に置いて。
彼女はいま、取っ散らかった記憶の欠けらと、いくつもの報告記録の雲に包まれて空の高いところから落っこちているところだった。もちろん、
「うっわぁああああああああ!!!」
みたいな、そんな情けない声はあげていなかったし、落ちているのは彼女の身体そのものではなく、その意識と無意識と身体に残った様々な感触たちの方だったけれど。
いま、彼女は意図して頭を空っぽにしようとしていた。何かをキュッとつかめそうな気がしているのに、意識がそれを邪魔しているような感じをずっと受けていたからである。
地面が9.81メートル毎秒毎秒で迫って来るが、欠けらも雲もいまだこれと言ったかたちを取ってくれない。雨の上がった裏庭。消された足あと。脚のきれいな若い女性と祝部優太。惑星マグラシアの空を落ちて行ったマッコウクジラとペチュニアの花瓶もこんな感じだったのかしら? とつま先立ちになりながら小張は想った。が、あの惑星の重力加速度が地球と同じかどうかは……結局よく分からないので無視するとして、廊下の壁。銃弾の痕。二階の窓から飛び降りた犯人。どうして? 「ああ、ロミオ。どうしてあなたはロミオなの?」 ジュリエット役の代役? 代役の代役? 『こころの声』が聞こえない? なんで? あちらの家にいた間だけ? あ、いや、左武さんの記憶が消えた夜も――あれ? あれは一体、どうだったんだっけ?――「あれ?」
とここで小張は意識を戻した。落下は止まり、地面はまさにすぐそこまで来ていた。上げていた左足を下ろし、浮いていた右足も地面に下ろした。
「あー」と言ってから周囲をきょろきょろ。テーブルの上のパソコンをいくつかカタカタッとさせた。それから、
「えー?」と言って、意識による推理を始めた。シャーロック・ホームズさながら、とはとても言えなかったけれど、それでも、それなりの整合性の取れたものとして――なるほど?
「なるほど。問題の殺人犯は、やはり、祝部さんの敵か味方か分かりませんが、いずれにせよ、あの辺の誰かが連れてった。そうしてそれを彼は隠している。なにかしら隠す場所と技術? を持っている。彼女もそれに加担している。組織ぐるみ? 会社ぐるみ? と考えられる? そんな気がしますが、だとしたら足りないのは――」理由? ですかね。
(続く)




