その8
「どこ行ったんだい? よーく風が吹いてるよ」
とそうして彼は想い出す。二十年近い昔の、郊外にある古ぼけたグラウンドの、一月の寒い日の、そこにつながる森の木の、風で大きく揺れる場面を。ふたつのちいさな手作り凧が、仲よく並んで揚がる場面を。彼らはすっかり風をつかんで、彼も、彼の友人も、地面に座って、彼女が台所からくすねて来た甘酒を飲んでいた。ラベルを剥がしたペットボトルを交互にやり取りしながら。凧が糸を引く感触を確かめながら。
「仕合せ過ぎる」突然、彼女が言った。「だめだよ、シンちゃん」彼女の凧が更に上がって行く様を眺めながら、「こんなのは仕合せ過ぎるよ、シンちゃん」と目に涙をためながら。
彼は言葉に詰まる。言葉に詰まってペットボトルを地面に落としそうになる。それから彼女に近寄って彼女に訊く。おどおどと、「どうしたの?」と。「だいじょうぶ? サッちゃん?」と。
彼女は応える。「大丈夫だよ、シンちゃん」とにっこりほほ笑みながら。それでもこちらをふり返らずに、「やっと気付けたんだよ、あたしは」と。
くり返しになるが、彼女はサンタクロースに会ったこともなければ、どこかの浮浪者をイエス・キリストと間違えるようなライトな、だけれど本当の信仰心を持ったクリスチャンであった。彼女は続けた。「ほんとうにバカだったよ、あたしは」と。
「ほんとうにバカだったよ、あたしは。分かるかい? シンちゃん。あたしはずうっと、子どもの頃からずうっと、あの御方に会うためには、生きて、年取って、病気になって、それから死ななきゃいけないって、そう想ってたんだよ。死んで、それからやっと、あの御方は迎えに来てくれるんだとね」
風が向きを変え、彼女の凧が右によれた。いまにも糸が切れ、どこかに飛んで行きそうだった。彼女は軽く糸を引き、それを直してやった。彼女は言った。「でもね、シンちゃん」と。
「でもね、シンちゃん。それはまったくの勘ちがい、バカなあたしの勘ちがいだったんだよ」と。
それから彼女は、凧から目を離すと、そのまま後ろにたおれ込み、草の上に寝転がった。大の字になって。空の一点――いや、空全体を見詰めながら、「いいかい? シンちゃん」と。
「いいかい、シンちゃん。あの御方はね、あの御方はずうっと、あたしたちの前に、その御姿を現しておられたんだよ、それこそ汚いルンペンや、ラジオから流れて来る広告なんかと一緒にね」それからなにか手を上げて、空に窓のかたちを描きながら、「毎日見ているこの風景、『壁のこちら』のこの風景、『窓のむこう』のあの風景、それらがまさに、あの御方の御姿そのものだったんだよ」と。そうして――?
*
「風景?」そう。そうして灰原神人は訊き返した。ふたたび。目の前の男性の顔――ではなく、そのずっと後ろの一点を見詰めながら。いま見た記憶をふたたび忘れるように。それは、彼女と過ごした最後の日々だったから。彼は答えた。「いいえ、そちらも特に。これと言ったものは」
「ふむ?」目の前の男性、樫山昭仁はうなった。こちらもふたたび。腕を組んでは天井を見上げ、「ただ気付けていないだけなのか、それとも何かきっかけが必要なのか――」
そうして彼は目をつむると、しばらくしてから目を開き、パソコン上のリストを見やった。リストには、『灰原神人』を示す文字の下にも、何人かの名前を示す文字が記されていた。
「他の方に連絡は?」灰原が訊いた。
「電話とメールはね」昭仁は答えた。テーブルの上の手帳を開き、「居場所が分かったひと数名に」
が、しかし、こんな怪しい話に乗るひとはおらず、基本は無視され、場合によっては怒鳴り返されることもあったのだという。
「僕には? 来ませんでしたが?」ふたたび灰原が訊いた。
「君は特別だと想っていたからね」ふたたび昭仁は答えた。手帳の名前を読み返しつつ、「先ずは直接会ってみたいと想っていたんだ」
このとき昭仁は、マズいことに、その期待値が高かったせいもあるのだろうが、自分でも気付かぬうちに、すこし落胆した口調で、更には「想っていた」との過去形で、この質問に答えていた。そうして、このことが彼・灰原神人に――親に捨てられ続けた子供に――どのような影響を与えたかについては、この約四ヶ月後に起こる悲劇から判断して頂くとして、実際問題、「君は特別だ」とした彼の予感は当たっていた。
そう。それは“さかえ”が、草の上に寝転がり、そこで見上げた冬の空全体に『あの御方の御姿』を見い出したのと同じ理由であるし、また同じくこの約五ヶ月後、本来このリストには載るはずのない人物――山岸まひろ――の名が、何故かこのリストに載ってしまったことと何か相似的あるいは相補的関係があるのかも知れなかった。
「そうですか……」と灰原神人は――何かを勘ちがいしたまま――つぶやくと、昭仁の手帳を盗み見、自分でも我知らずのうちに、それら候補者の名前と居場所を、その一部を、暗記して行った。
*
さて。
ずうっと以前(第一話その4)にご紹介したマダム・バタフライの予言――マリサ・コスタが信頼するあるネット占い師の予言――には確かに、この物語の年のマリサの運勢は「家族や友人関係のトラブルが続」くことになるとあったワケだが、想い返してみると、そのスタートは、彼女が、彼女の実母が運び込まれたその病院に、重い足取りで向かった時点にあるのかも知れない。
そう。結局彼女はそこに向かった。夫のペトロに説き伏せられた形だったけれど、それでも彼女は彼女の母であったし、いくらさっさと野たれ死んでくたばればいいと想っていたとしても、彼女は、マリサの亡き妹の母であり、また彼女の甥のアーサー・ウォーカーの実の祖母でもあったからだ。
そう。そうして、彼らの住む街から微妙に遠く離れたその場所に、その病院はあった。電車とバスを乗り継いで、しかも最寄りのバス停からは小さな坂を上らなければならなかったが。そこに彼らは三人で向かった。ペトロは彼女を支えなければならなかったし、アーサーは無理にでも明るく振る舞おうとしていた。よくペトロに話し掛けたし、笑顔を絶やすこともなかった。
ロビーで母の名前を伝えた。看護師たちの詰め所の前を通り過ぎ廊下の先のエレベーターを探した。エレベーターの横のベンチでは大柄の女性とその家族らしい一団がすごく疲れた顔で座っていた。皆がみな、ヨレヨレの普段着にサンダルや工場作業用の靴を履いていた。
彼らは一瞬、マリサたちの方を見たが、すぐに意識を自分たちの生活に戻した。頑丈が売りの腕時計や文字の大きなスマートフォン、それに病院の案内板なんかを眺め、それから同時に軽いため息を吐いた。深いため息はすでに吐き切ったとでも言うように。
エレベーターが到着し、彼らの中のひとり――彼女は未だ十代の少女だったが――が言った。大柄の女性の肩に寄りかかったまま、「お兄ちゃんさ」とつぶやくように。アーサー・ウォーカーと目が合い、すぐにそらしながら、「大丈夫だよね? 死なないよね?」
とここでエレベーターは閉まり、その続きを彼らが聞くことはなかった。が、それでも閉まった扉の向こうから、大柄の女のむせび泣く声は聞こえた。彼らはしばらく、行き先ボタンを押すのを忘れていた。
(続く)




