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転生者たち~時空の終わりとソウルフルネス・ワンダーランド~  作者: 樫山泰士
第十話「だからお願いだ、ペギー。どうか僕ら想い出だけは、どうか怒りに変えないで欲しい。」
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その6


『午後……三時……三十二分……三十秒、をお報せします。ピッ……、ピッ……、ピッ……、ピー』


 入り口横の長椅子の上で左武文雄はボケーッとしていた。ボケーッとして時々、クスクスクスッと忍び笑いを漏らしそうになっては、すぐにハッとなってそれを噛み殺し、またふたたびボケーッとする、をくり返していた。


『午後……三時……三十二分……四十秒、をお報せします。ピッ……、ピッ……、ピッ……、ピー』


 三連休の中日と言っても受付業務がないだけで彼の職場である警察署は24時間365日体制で回っている。そうして本日、左武文雄自身は非番であったが、


『いま見たこと聞いたこと、記憶の奥にしっかりしまって、黙ってこのままどっかに帰りな』


 と言った小紫かおるの言葉に従い彼は、自宅アパートでもなければすこし離れた実家でもないこの仕事場に「帰って」来ていたわけである。手もとでは何故か、彼のスマートフォンが、しゃっちょこばった声で延々時間を伝えていた。


『午後……三時……三十二分……五十秒、をお報せします。ピッ……、ピッ……、ピッ……、ピー』


 ひき続き左武文雄は、長椅子の上でボケーッとしてはクスクスクスッでハッとなり、それを噛み殺してはふたたびボケーッとしそうになって、


「おい、こら、左武」と誰かに声を掛けられた。「非番のくせに署に来やがって、しかも、まるっきりの私服で」


 今日の彼の格好は、黒のズボンに黒のタートルネック、黒のファージャケットに、お洒落のつもりか腰に一点、大きなシルバーバックルを鈍く光らせている。先般の小紫かおるは彼をはっきり警察官だと判別出来たが、


「怪しいヤツがいるって言うから来てみたらお前じゃないか」とその誰か――同僚の右京海都も続けるように、「ガタイのデカいひげ面がそんなカッコでグラサンまでして、若い婦警がカチコミじゃねえかって怯えてんだよ」


 と逆に警察側からは、身内ではなく反社会勢力のように見えてしまうのだった。そうして、


『午後……三時……三十三分……丁度、をお報せします。ピッ……、ピッ……、ピッ……、』


 ぷつっ。


 と右京は左武の時報を止めた。勝手にスマホを取り上げて。彼の「ボケーッ」と「クスクスクスッ」と「ハッ」の、「ハッ」と「ボケーッ」の丁度中間地点で。偶然ながらもタイミングよく。


「……右京?」彼に気付いて左武は訊いた。「なにやってんだ? お前」


 この日の彼の記憶は、食料を買いに町へ出て、ボケーッとしている双子の姉妹とボケーッとフラフラ公園から歩いて来る中年男性を見たところで途切れていた。


「は?」右京が訊き返した。「大丈夫か? お前。ほんとここがどこだか分かってるか?」


 この言葉に左武は、辺りをきょろきょろ見回すと、「署の一階か?」そう右京に訊き返そうとして反対に、


『しっかしこいつ、ほんとヤクザみたいだな』という相手の声を聴くことになった。いつもとちがうトーンで、いつもならワザワザ言わないような、『家出る前に鏡のひとつも見ねえのかよ、このクマ野郎』みたいなことも。


 そのため彼は、「おい!」と右京に言い返そうになったのだが、そこで相手の口が動いていないことに気付いてそれを止めた。「は?」となって首を傾げた。


 そう。彼はまだ気付いていなかったが、これが、小紫かおるの影響を受けた左武文雄が初めて聞いた他者の声、こころの声であった。


     *


 青い表紙のスケッチブック。硬さの違う三本の鉛筆。カッターナイフと鉛筆削り。それに消しゴムとネリゴム(ペンタイプは必要な時だけ)、おしりが痛くなりにくいイスと清潔な床と空気、それに幸運さえあれば、ほかには何も要らなかった。もちろんそれが、一番むずかしいのだけれど。


 そのため彼女、森永久美子は、幸運のおまじないに、ちいさな紙のコースターとうすい黄色のハンカチを右のポケットに入れていつも持ち歩いていた。服にポケットが付いていない時は、いつも使っているトートバッグに入れて持ち歩いていた。コースターには佐倉八千代と木花エマの三人でふざけて描き合ったネコのイラストが描かれていたし、ハンカチは三人で映画に行ったとき、泣いている彼女に八千代が貸してくれたものだった。


 そう。そのため彼女、森永久美子は、今回も、最初の線を引く前に、右のポケットを確かめた。ハンカチは長い年月のあいだに特定の場所がすれてなめらかになっていた。コースターのネコたちは、指でさわればその形を想い出すことすら出来た。


「ねー」とここで、目の前にすわる八千代が訊いた。「ほんとにいいんですか? 私なんかがモデルで」


「はい」彼女は答えた。鉛筆を持つ手をすこし変えて、「八千代さんだからいいんです」


 ここは、いつもの街の喫茶店、いつもの青い『シグナレス』。新年の客はすべて帰り、扉は閉められ、カーテンは引かれ、木花エマやオーナーの逢坂美里もいつしかどこかに消えていた。森永久美子のスケッチブックは、いまだ引き裂かれてはいなかった。彼女が、最初の線を引いた。いつか引き裂かれることは分かっていたけれど、それでも、目の前の彼女がとても美しかったから。もう一度、念のため、ポケットの中のお守りをさわった。まだ確かにそこにあった。紙の中央にうすくアタリをつけた。幸運は彼女に味方してくれそうだった。


     *


 プルルルル、プルルルルルル、

 プルルルル、プルルルルルル。


 見知らぬ番号から電話がはいり、マリサ・コスタは出るのを躊躇った。がしかし、丁度パソコンを開いているところだったのでその番号を検索すると、彼女が行ったこともない町の病院であることが分かった。もちろんそれでも彼女には、その電話に出ない選択肢もあったのだが、なにか奇妙な予感、虫の知らせのようなものが働いたのだろうか彼女は、あちらが電話を切る直前、不意に、なにかに騙されたかのように、それに出ることにした。そうして、


「くそっ」と彼女は想った。もちろん声には出さなかったが、代わりに、「ええ、はい、そうですね」と静かに続けたその言葉には、明らかに怒りのトーンが含まれていた。「たしかにそれは、私の母の、名のようですね」


 彼女の実の母――それはつまりは、アーサー・ウォーカーの実の祖母と言う意味でもあるのだが――が倒れ、連絡の取れる身内は彼女ただひとり、と、その電話は彼女に伝えた。



(続く)

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