その5
灰原神人の母親は飛び抜けて聡明な女性であり、また地元では並ぶものもない美人であった。
と実際、昔からの知り合いは皆そう断言していたし、彼女の写真――それは若いころのものしか残っていなかったが――はそれを裏付けてもいた。
彼女は、二十の年に、彼女の言う「大ロマンスの末」、地元旧家の企業家と結婚したのだが、その結婚生活は二年と持たなかった。
あまりに年が離れていたこともあるし、旧家の親戚筋の頭の固さに辟易していたこともあるが、それよりなにより問題は、夫が語る仕事の話が彼女の野心に火を付けたことであった。
彼女は、夫のもとを離れると大学へ入り直し、経済学を学び、在学中にいくつかの仕事のアイディアを想い付くと、すぐさまそれらを実行に移した。地元に残った夫は、そんな彼女を資金面だけでも支えようかと申し出たりもしたが、結局、「商売の切っ先が鈍ります」との彼女の言葉に、その庭に立ち入ることは許されなかった。
彼女はいくつかの成功を収め、どんどんと忙しくなって行き、まだ幼かったその息子――すっかり書くのを忘れていたが、最初の二年の結婚生活で、彼女は妊娠と出産を十分に経験していた――は、彼女の親戚のところへ預けられることになった。
そのためその息子――灰原神人は、何年ものあいだ、ほとんど(というかまったく)実の両親と会うことがなかったし、母親は母親で、新たな恋や仕事に忙しく、父親は父親で、息子に会うのを拒んでいた。妻に遠慮し、息子に恐怖していたのである。そうして――?
*
「なるほど?」とそうして彼はつぶやいた。目の前のパソコン画面をのぞきつつ、「たしかにこれは、僕の名前なのかも知れませんけれど――」
男の――樫山昭仁の話は彼にはよく分からなかった。いや、言葉の意味や語られているトピックについては理解出来る部分もあったが、何故彼がそれを信じていられるのかが彼にはよく分からなかった。昭仁の話は続いていた。
「つまり、彼らの遺伝子解析結果と、その出生地――出来得る限り正確な時間と空間座標を基本データとした任意の――」
とかなんとか、よく分からないことを得々と、
「星の位置や重力波の影響、目標とされる人々の現在の居場所やそこに立ち現れるクライン体にボーイ・サーフェス、壁を乗り越えるために必要な重力子の量などをこの計算式から――」
とかなんとか、更によく分からない言葉で補足しようとしながら。とうとう灰原神人は言った。
「すみません、樫山さん」と、彼の話を止めながら、「難しい話はどうも苦手で」
一笑に付すなり急に怒り出すなりして帰ってもよかったが、ひょっとすると彼・樫山昭仁には、このお話を――この奇妙で突拍子もないおとぎ話を――信じる必要があって信じているのでは? そう考えたからである。彼は訊いた。
「結局あなたは、どうして彼らを探しているんですか?」と。
「どうして?」昭仁は戸惑った。この問いにどう答えればよいか分からなかったからである。「どうしてって――それは灰原くん」
何故なら、彼にとってそれは、あまりにも自明なことだったから。彼は続けた。それでも答えと言葉を選びながら、
「世界が君を、彼らを必要としているからだよ」と。「ちがうかい? 灰原くん」と。
彼の、灰原神人の母親は、新たな仕事と恋に邁進した結果、若い恋人――そいつは彼よりひとつ年下だったが――が運転する車に乗って事故で死に、彼の、灰原神人の父親は、妻の葬儀に顔も出さず、息子を彼の下へと呼び戻した。葬儀から何年も経ったある春の日に。何故なら、彼が末期ガンだと分かったからである。昭仁は続けた――そのリストの、
「そのリストの、一番上に君の名前があったんだよ?」と彼の肩に手を置いて、抑えてはいるが興奮した口調で、「それは世界が、もっとも君を必要としているってことじゃないかい?」と。
*
「それは、そっちの都合でしょうよ、祝部さん」と小紫かおるは応えていた。彼の上司というか元上司のような存在である祝部優太に、「世界があーだのこーだの、結局そちらの、そちらの会社がやってることの言いわけでしょう?」
ここは、先ほどかおると深山が出会った橋の上から武蔵関方面へと向かった、そのほぼ中間地点にあるテナントビルの一室。ガランとした室内にはデスクがひとつにホワイトボードがひとつ、それに事務用のパイプ椅子がいくつか置かれているだけで、祝部優太は、休日のお父さんよろしく――実際彼は、もともと本日休日だった――地味なシャツに黒のパーカー、それに紺のダウンジャケットを羽織った格好で、そのひとつに座っていた。暖房はつけておらず、彼の靴は安物の白のスニーカーだった。かおるが続けた。
「俺は俺で好き勝手生きて行きますし、そちらのご迷惑になるようなこともしませんよ、めんどくさい」と。それから部屋の隅にちょこんと座る深山を一瞥、「それにひとり増えたんでしょ? ちょうどいいじゃないですか、ひとり増やして、ひとり減る。今後はふたりで上手くやってって下さいよ」
祝部優太は黙っていた。顔を斜め上に向け、目も口も閉じて、会社からの指示と、かおるの言葉と、彼への想いみたいなものを同時にいくつも天秤にかけながら――彼が逃げ出したくなる原因を作ったのは優太だった。
が、もちろんそれも、会社からの指示に従ってのことだったし、あの場面で頼めるのはかおるしかいなかったからである――沈黙が続いた。
「あのー」と突然深山が口を出した。一応は遠慮している感じに、「こんなに嫌がってるわけですし、ほっといてあげればいいんじゃないですか?」と、それでも少しイラつきながら、「働きますよ、わたし。この『パープル・マン』の分も」
「あ、こら!」優太が叫んだ。「深山さん!」
がしかし、
「んだと、こら!」と時すでに遅く、かおるは彼女に飛び掛かっていた。「いまなんつった! このクソあま!」
この『パープル・マン』とは、アメリカンコミックスに登場する悪役のひとりで、会社の一部の人間が、かおるの能力を揶揄し卑下する時に使う別称でもあった。もちろん、畏怖の意味も込めてだが。
「報告書見たわよ」深山は答えた。涼しい顔で、「ウソ吐き、ペテン師、女性とまともに会話も出来ないクソ野郎」とそれにやっぱりイラついて、「ほんと最悪よね」自分も悪いことはそれなりにして来たが、「なんて名前だっけ? あのひと」だからと言って、自分が愛した女にあんなひどいことはしないし出来ない。「ああ、そうそう、カエデさんだ。佐久間カエ――」
小紫かおるは、その能力のせいで、他者との健全なコミュニケーションを取ることが難しくなっていた。
そう。それは例えば、女性に対し、仮に相手を恋人にしたり、自分の望むように相手に奉仕して貰えたとしても、それが相手の本心から来る行為なのか、自分の能力に従ってのことなのかが、かおる本人にも判断が付かないからであった。かおるは叫んだ。拳を固く握りしめ、
「このクソアマ!」とその拳を深山の顔面目掛け、「そのでけえ口閉じねえと!」
ボゴッ。
と鈍い音がガランとした室内に低くひびいた。そうして、
「いっつ……」と声を漏らしたのは、深山でもかおるでもなく、祝部優太だった。深山をかばい、かおるの怒りを彼は、彼の後頭部に受けたのである。「やめろ、ふたりとも……」
どいつもこいつも、自分の力を過信するどころか、それが特別な力であることすらすぐに忘れる。だから、それが悲劇につながるんだ、バカ野郎、と。優太は続けた。
「彼女のことは」と先ずは深山に、「もう、二度と、口には出さないでやってくれ」
それから、
「彼女のことは」と次にはかおるに、「あれは、完全に俺のミスだ。悪かった。許してくれ。お前が責任を感じるのは間違っている」と。
今日、祝部優太が休日を返上しなければならなくなった理由。それは、深山千島を使って小紫かおるを彼のところに連れ戻すこと、それが難しい場合は、彼の手でかおるを――将来必ず大きな課題となるであろう『パープル・マン』を――消すことだった。優太は続ける。
「帰って来てくれ、かおる」と。ずれたメガネを直しながら、「お前が必要なんだ」と。
ウソ吐き、ペテン師と叫んだ深山の言葉を、自分のことのように想い出しながら。
(続く)




