その4
部屋の寒気を肩に感じて山岸まひろは目を覚ました。ここはどこだろうか? 見慣れた高い天井がそこにはあった――ああ、ここは祖母の家のリビングだ。
どうしてここに来たんだっけ? なんだかひどく長い夢を見ていたような気がする。とても楽しくて、嬉しくて、しかしそのせいで、誰かを傷付けてしまった、そんなような夢――とても大切な誰かを傷付けてしまった、そんなような夢。
毛布を掛けてくれたのは祖母だろうか? とても温かい虹色のアフガンが彼女の上に乗っていた。こんなの持ってたんだ?――その立体的な編み目模様に指をかけた瞬間、彼女の目に涙があふれた。
「え?」
と山岸まひろはうろたえた。涙そのものにというより、その涙を流させたその感情に。何故なら彼女は、これまで、そんな感情を抱いたことはなかったから、なかったことになっていたから。
明るく光るリビングの中、そこに一瞬、あるいは無限に、深くふかい暗闇が訪れ、そのひと隅に、折り重ねられた無限の先に、ひとりの女性が歩いて行くのが見えるような気がした。曲がりくねっただらだら坂を、今夜の食材を肩に担いで歩いて行く女性の姿が。意識しようとすればするほど遠ざかり、意識はしてもゆらめき認知することが難しかった。
「え?」
と山岸まひろはうろたえた。涙がなおも厚く目にたまり、解け続ける雪のように彼女のほほを流れては落ちて行った。いつまでもいつまでもいつまでも。それは、くり返しになるが、彼女にとっては初めての感情だった、そういうことになっていた。
こういう感情にどのような言葉を付けてよいか、無知無学なこの作者などは回答にこまるが――それでもごめんね、まひろくん――きっと古の賢人たちも、その感情ばかりには、ありきたりな言葉しか付けられなかっただろう――「愛」と。
*
そう。そうしてこの時、彼女の兄・山岸富士夫もまた、その感情のために、その身を強ばらせていた。こちらは流石に、厚い涙などは流していなかったが、それでも、遠くの森が風で大きくゆらいでいるのは分かった。
「もう、そんな顔しないの」妻の美紀が彼に言った。「ただでさえこわい顔が、よけいにこわく見えるわよ」彼のほお骨の辺りをやさしく撫でてやりながら、「ずっと分かってたことでしょう?」と。
彼らの出会いは十三年前――いや、実際にはもう少しさかのぼるのだが、本当の意味で出会ったのは十三年前の秋。
と言うのも彼女は、もともと富士夫の部下のひとりだったのだが、その数年前、最初の婚約者とひどい別れ方をした彼女を、「このままでは業務に支障が出る」と富士夫が相談に乗ったため、そこから徐々に、互いが相手を異性として――というかひとりの人間として――見始めることになったからである。
まあ、もちろん。そうは言っても富士夫も男なので、それまでにお付き合いした女性も何人かはいたし、その中には当然、「恋」や「愛」といった感情や、それに近いものを抱かせる相手もいるにはいたのだが、美紀の、すこし崩れた歯並びや、胸もとの小さなほくろ、それに自分や子どもたちをあやすときの白くうすくちいさな彼女の手、そんな事柄たちに触れたときに感じる、あの、言い知れない感情にまさるものはなかった。薬の匂いがやけに鼻をついた。途中のエレベーターで泣き崩れる老婆を見た。美紀の右手を、やさしく、にぎり返した。
「あきらめたくない」富士夫は言った。しぼり出すような声で。
「そうね」美紀が答えた。「私だって離れたくないわ」
隣の病棟では、今日もまた、どこかの誰かが静かな音で旅立って行ったらしい。
「あきらめてたまるか」富士夫はくり返した。
「そうね」美紀は答えた。「でも、どうにもならないことだってあるわ、現実だもの」
それから彼女は、残った左手で、彼女の夫の、小さな目やとがった耳、それにふたりだけの時には――いつもなら――途端に饒舌になるその大きな口に触れてやった。まるで初めて彼に触れたときのように。
「金ならある。もっと別の病院を――」富士夫が言いかけ、
「そうね」そんな彼を彼女はたしなめた。「子どもたちのこと、お願いね」
前にも少し書いたが、彼女・山岸美紀は、ある遺伝性の病気を患っており、持ってもあと数年の命だった。
*
どさっ。
とすこし無造作に、椅子の上にバッグは置かれた。
部屋には他にも、小さな荷物置きや低いテーブル、それに居心地の悪そうなソファなんかもあったが、それらは既に、他の荷物に占拠されていた。
「すまないね、散らかっていて」そう言うと男性は、壁に備え付けの机へと向かい、そこに置きっ放しにしておいたノートパソコンの電源を入れた。「すぐ座る場所をつくるから――コートなんかはそっちに」
男性に言われるままに灰原神人は、入り口ドアの横のクローゼットを開くとハンガーを探し、着ていたダッフルコートをそこに架けた。ウワバミ象のニット帽をどうしようか悩んだが――彼の髪の毛はぼさぼさだった――やはり失礼に当たるとでも想ったのだろうか、それを脱ぐと、ダッフルコートのポケットに無理やり押し込んだ。クローゼットに置かれた小さな鏡で髪の毛を整えた。鏡の奥に、ちょっと小洒落たハンチング帽を見付けた。
「空いたよ、すわって」男性が彼を呼んだ。ソファの上の荷物――本やノートやレポート類――をドサドサドサッとベッドの上に移動させ、「ほんとはもっと広い部屋をお願いしたんだが、一週間足らずの滞在だとこれが限界だと言われてね」
ここは、都内某所にあるビジネスホテル。東石神井の駅でこの男性・樫山昭仁に声を掛けられた灰原神人は、彼に誘われるまま、彼が投宿しているこのホテルまで付いて来ていた。家では今日中にやるべき仕事が彼を待っていたが、それでも、病院への見舞いで気は滅入っていたし、自分の事を「探していた」と言う昭仁に、とても興味を惹かれたからである。
「ほら、これだ、見てくれ」昭仁が言った。灰原の腰がソファに着くかつかないかのタイミングで、立ち上げたばかりのパソコンを目の前の机に――と言うか、机の上に積まれた本たちの上に――置きながら、「これを作るのに、“彼ら”と手を組んだんだ」
それはまるで、無数の文字が並べられた暗い海のようだった。黒い画面一杯に並べられた平仮名や片仮名や数字やアルファベット、それに漢字やキリルやアラビア文字なんかが白や緑、あるいは青や黄色に変化しながら目まぐるしく入れ替わっては立ち替わって行く。それはまさに、月の消えた夜に立ち現われては消えて行く静かな波の調べのように、その日の彼にはそう見えた。が、これは――?
「そう。これは」昭仁は続けた。うれしそうに、「これは君の名前だろう?」いくつかキーをクリックしながら、「いや、たしかに君の名前のはずだ」と何かのリストを開きながら、「君の名前が、一番初めに出て来たんだよ」と。
そう。そうして確かに、そこには、開かれたリストの一番上には、『Shinji 灰原』の文字が並べ置かれていた。
(続く)




