その3
それは、どこか遠い列車の風景だった。
列車のまん中には、身長2mはあろう肥満傾向の大男が、毛皮えりの若い助手ふたりを従え挨拶のようなものをしていた。彼の隣には通訳だろうか、バラのブローチを刺した黒貂コートの中年女性が、彼と、彼の前に居並ぶ異国からの一団――きっと巡業中の劇団かなにかだろう――の橋渡しをしているようだった。
その風景――鉛筆スケッチに軽い彩色を施しただけのもの――は壁に架けられタイトルはどこにもなかった。
「やっぱりすごいですよね、美里さん」森永久美子が言った。ここはひき続き、新年パーティー真っ只中の喫茶店、青い扉の『シグナレス』である。
「わたし、絵のよしあしは分かりませんけど」佐倉八千代は応えた。彼女の手を取り、イスにすわって、「この絵もやっぱりステキなんだなってのは分かります」
ふたりのワルツは終わっていた。彼らは今度は、この店の壁に架けられた絵画類――それは、この店のオーナー逢坂美里が描き続けて来た絵画たちだった――を、まるで初めて見るかのように鑑賞していた。八千代が続けた。
「あのひとのスピーチ? あいさつ? を聞いている人たちの顔は見えませんけど、みんなが感動しているのは分かりますもん」
絵の中の大男は――彼は聴衆たちの国の言葉も話せたけれど、それでも敢えて――彼の国の言葉で不愛想で短い歓迎の言葉を述べ、それを黒貂コートの女性に通訳させているところだった。彼はこう言っていた。
「皆さんの来訪は平和への行進の第一歩です」と。そうして、「『砲声ひびくとき詩神の声とだえ、砲声絶えるとき詩神の声聞こゆ』です」と。
彼の国の隣国への全面武力侵攻はそろそろ五年目を迎えようとしていた。もちろん、そのことに対し彼女たちに何がしかの責任のあろうはずもないが、それでも、そのことを想い出しでもしたのだろうか、佐倉八千代は涙を流した。
「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか? 八千代さん」森永久美子が言った。彼女との手はつないだまま、ハンカチを探した。
「ごめんなさい、ごめんなさい」八千代は応えた。彼女たちのワルツは終わっていて、音楽も、パーティー客の歓談も、いつかどこかへ消えていた。「ごめんなさいね、森永さん」
もちろん、これらの事々に対し、佐倉八千代に何がしかの責任のあろうはずもなかったが、それでも彼女は気付いていた。つないだ森永の手が本物の彼女の手ではないことに。いまいるこの場所も、本物の彼女たちの居場所ではないことに。
「それでも泣かないで下さい」森永久美子は応えた。彼女の涙を――これは本当に――優しく拭いてやりながら、「過去は変えられなくても、未来はまだ、選べますから」
ここは、佐倉八千代の見ている夢、過去の記憶、あるいは一度として現在になったことのない未来の想い出の中、であった。
*
静かな午後に外の光は乱反射を続けていた。まるで飛び散ったガラス細工の花束のように。
マリサ・コスタは、それら光に目もくらむと目をつぶり、右手でそれをさえぎろうとして今朝見た夢を想い出した。見るつもりもなかった悪夢を。
「あら、ごめんなさい」白衣の女性が言った。そんな彼女の様子に気付き、「うっかりしてたわ、ブラインドを閉じるわね」
彼女は美しく、未亡人で、四十代の中盤、すらりとしていて、十六かそこらの息子がひとりいた。
「さて」席へと戻りながら彼女は言った。どこか日本人らしからぬ身のこなしで、「お母さまとのお話でしたわよね」
部屋は温かくおだやかで、柔らかなホワイトで統一されていた。女性の声にははっきりと、自分はあなたの敵ではないのだという意思表示が見て取れた。ただ、部屋の中には低く構えた寝椅子もなければ、その枕もとに彼女が座ることもなかったけれど。彼女たちは、部屋の中央に置かれた円テーブルに向かい合って座っていた。マリサは応えた。
「母に限った話かどうかは分からないんですが」今朝見た夢を想い出そうとしながら、「妹や、ひょっとすると姉のことも関係してくるのかも知れません」
「お姉さま?」女性は訊き返そうとして、すぐにその口を閉じた。彼女の後ろには、一枚の絵が掛けられていた。草を食む白い牝牛と、その横でとおい葬礼の列を眺めるひとりの少女の絵である。
「妹は本当に頭のいい子でした」マリサの話は続いていた。女性の一瞬の躊躇いに気付く様子もなく、「かわいくて、性格もよくて」だから母は彼女ばかりをかわいがっていたし、「小さい頃は、私もよく面倒を。オフェリアはまったくしませんでしたが」
「オフェリア?」女性が訊き返した。
「ほら、双子の姉の」マリサは答えた。「快活で、物怖じしない人なんですが、子どもの面倒だけは苦手で」
「あ、そうね、そうでしたわね」女性も応えた。手もとのノートに何事かを書き加えながら、「どうぞ、続けて」
マリサは続けた。主に彼女の妹のことを。その想い出話を。彼女が事故で亡くなり引き取った甥っ子のことを。彼と夫が、まるで本物の親子のように仲よく接していることを。時折り姉のオフェリアや、彼女自身の排卵障害・子宮因子のことなどの、言い難い話題にも触れながら。
「それは、大変でしたわね」女性は言った。見えないようにメモを取りつつ、彼女に先を促がしながら、「どうぞ、もっと聞かせて」
が、しかし、この「お母さまとのお話」として始めたこの対話に、問題の母親の話が出ることはついぞなかった。彼女はただただ、若くして亡くなった妹と、いつ会えるか分からない双子の姉のことばかりを話していた。まるで、そうすることで、母のことを、年を経るごとに彼女に似て来る自分のことを、話さなくてもすむ――と、まるで窓の向こうの彼女が望んでいるかのように。
「なるほど」とうとう女性は言った。「本当にステキなお姉さまと妹さんだったんですね」
「ええ、それはもう」マリサは答えた。「妹は本当にかわいくて、賢くて、我が家のアイドルでしたし」
もちろん。彼女の母親との関係が、彼女が実の子供を、娘を、持てなかった理由になろうはずもないが――彼女は続ける。
「それに姉は、オフェリアは、いつでも私の味方で――」と自身の右目が、小さく痙攣し、同じく右手も静かに震えていることに気付き・戸惑いながら、「私が、大変なときは、彼女が、彼女が? 私の? 私の代わりに――」
ハッ。
となってここで彼女は目を覚ました。締め忘れたカーテンのすき間から、まばゆい光が迷い込み、まるで目もくらむばかりだった。
「オフェリア?」光から逃げながら彼女はつぶやいた。母親との、母親とオフェリアとのことを想い出したのは、実に数十年ぶりのことだった。カーテンを締めた。窓に写った自分が、かるくほほ笑んだ気がした。
(続く)




