その2
隣国の大統領が内乱罪で弾劾訴追されたのが昨日のことで、数日後に彼は逮捕された。どうやら、彼の国の民主主義は無事機能していたらしい。
関西地方の大地震から今年で三十年だそうで、テレビやラジオはそのことをくり返しているが、当事者の記憶が薄れていることは否めないし、またまったく無関係だったエリアの人びとにとっては、「ふーん」という感想以外持てないのが正直なところなのかも知れない。
中東地方の停戦はようやく合意がなされるそうだが、だからと言ってあの国による一方的な殺戮・民族浄化が止まるかどうかについては、大方の人が懐疑的だし、日々のニュースは我々に、あの国が圧倒的な軍事科学で生産する死体の総計を常に教えてくれてもいた――くそったれが。
と、ここで小紫かおるはそうつぶやいた。彼の両隣にはグラマーかつセクシーかつキュートなヒップの双子がピッタリくっ付き座っていたが――彼女たちは彼の声と言葉に“誘惑”され付いて来ていたのである――そんな彼女たちを疎ましく想いながら。
「ねーえ?」双子の姉がささやき、
「どうしたの?」とその妹が彼の胸にその胸を押し付けて来たが、「むずかしい顔して」
「うっせえな」吐き捨てるように彼は応えた。「さっさと服着てどっか行けよ、この淫売ども」
すると、彼女ら双子は、この言葉に反感を覚えるどころかそのまま、言われるがままに服を着て、優雅に部屋を出て行った。ふたり楽しく談笑しながら。
そうして、それから更に数十分後、小紫かおるもまた、脱ぎ散らかしていた服を着るとひとり部屋を出て行った。カギは掛けないまま。
一階に降り、マンションを出て、向かいの公園でポカンと口を空けて立っているその部屋の主に、
「わるかったな」と声を掛けてやった。「もう、戻っていいぞ」それで十分だった。「俺のことも双子のことも、すべて忘れろ」
それから、そのあと彼は、部屋の主を見送ると、まるで何かの映画みたいな青空と、溶けた雪に光を乱反射させるその風景に、悪態のひとつも吐きそうになったのだが、
「なあ、おい、あんた」と呼び掛ける男の声に、それを止められることになった。「あのひと、どうかしたのか?」
ふり返るとそこには、熊のようなひげ面の大男がいた。しゃべり方や着ている服のセンス、全体的な身のこなしから堅気の人間とは到底想えなかった。が、それはまるでヤクザと言うよりは、そう、
「あのひとってどのひとです?」小紫かおるは訊き返した。「刑事さん?」
「あのひとだよ」熊のような大男、左武文雄は答えた。慣れているのだろうか、職業を当てられたことに驚く風もなく、ふらりとした足取りで去って行く例の部屋の主を指しながら、「いやにボーッとしてるが、あんたいま話してたろ?」
彼はこのすこし前、同じくらいにボーッとした双子の姉妹を見たばかりだった。かおるは答えた。
「ああ、きっと催眠術にでもかけられているんですよ」と。「でも安心して下さい。ひと晩寝ればすっきりさわやか、すべてを忘れて元気になりますから」と。
「は?」左武文雄は訊き返した。「あんた、いったいなにを?」
「うっせえなあ」かおるは応えた。突然口調を変えて、「今日は朝からイライラしてんだ。さっさと消えねえと、てめえの銃で自殺させるぞ、このクソ刑事」と。
事実彼はイライラしていた。その言葉で人を死に追いやれるほどに。もちろん、イライラしていたのは、今日だけのことではなく、この数ヶ月間ずっとイライラしていたのだけれど――一人の女性の印象が、記憶のあちらこちらに現われては、彼を戸惑わせていたのである。
「あ?」左武文雄も応えた。こちらもガラリと雰囲気を変え、今すぐにでも彼を殴り倒してもおかしくない様子だった。がしかし、「おい、こら、アンタ。いまなんつった?」
「あー」へらへらと笑うかおるに、「すいませんねえ、刑事さん――黙れ、動くな、息を止めろ」
そう言われるがままに口を閉ざすと左武は、そのままそこから動けなくなっていた。もちろん、
「うっ、うぅー」辛うじて呼吸だけは続けられる様子だったが。
「ふん」かおるは続けた。「なかなか賢い身体してんね、刑事さん」右手の指二本をそれぞれ、左武のまぶたに当てながら、「だが、まあ」そうしてそれらを下ろしつつ、「いま見たこと聞いたこと、記憶の奥にしっかりしまって、黙ってこのままどっかに帰りな」
このとき彼が「しっかりしまって」と言ったのは、彼の能力では記憶の消去や外部取り出し、それに改竄と言った相手の脳に直接働きかける操作は出来なかったからである。
*
「すみませーん。小紫かおるさんですか?」
と、それからまたしばらくがして小紫かおるは声を掛けられた。南に向かう橋の上で。今度の相手は、熊のような大男ではなく、どこか白い中型犬を想わせる細身の若い女だった。
彼女は、この寒空の下、辛うじて黒のコートを羽織ってはいたものの、下はショートパンツに短いブーツで、そのきれいな両足を見せびらかしているようにも見えた。もちろん、彼女にそんなつもりのあろうはずもなかったが。
「ちっ」かおるは舌打ちひとつして、そのまま口を閉じ、橋の上から川を見詰めた。解けた雪のせいで水の流れは速く、またとても冷たそうだった。
「あのー」女が言った。気さくな感じを演出しつつ、右手ひとつをひらひらさせて、「聞こえてますー? 私の声?」
自分の名前を知っているということは、この女も“会社”の一員か関係者なのだろう。ひとりで来たのは、何かの能力を持っているからなのか、それとも色仕掛けでもさせる気なのか――それにしちゃあ色気がねえが――あるいはただただ抜けてるバカか――って、ああ、もう、めんどくせえ。
「おい」小紫かおるは叫んだ。小さく。しかし言葉に存分の力を乗せて、「そっから飛び降りろ」ここ数日のむしゃくしゃをぶつけるつもりで、「頭から。勢いよく。下の川めがけて」
が、しかし、
「あのー」と素知らぬ感じで女は応えた。なんだかとってもすまなさそうに。「祝部部長さんに頼まれて来ただけなんですよお、私。ひとりで」と今度は両手をひらひらさせて、「そんな私に効くと想います? あなたのそれ」と。
*
「あっはははははは」
娘の部屋から大きな笑い声が聞こえ、祝部優太は目を覚ました。ソファの上で。なんだか長い夢を見ていたような気もするが、時間は10分と過ぎていなかった。念のため、ソファのひじ掛けに置いたスマートフォンを確認してみたが、深山千島からの連絡も、もちろん小紫かおるからの連絡も入ってはいなかった。
「ふん」とため息をひとつ吐いた。テーブルに置いた眼鏡を掛けて、「ま、なるようにしかならんだろ」
窓の外を見るともなしに眺めると、せまい庭では妻の守希が、なにやら忙しそうに立ち働いていた。三連休の中日をどこにも連れて行ってやれず、仕事の連絡を待っているだけの男に、悪態のひとつくらい吐いてもよさそうなものだが――、
「ふん」とふたたびため息を吐くと彼は、「ま、慣れているんだろうな」
と今度は、そうつぶやき苦笑して、ソファから立ち上がった。庭の方へ向おうとしたところで、
「あっはははははは」
という娘とその友だち――たしか、「せんだ」とか「せんば」とか――のふたたびの笑い声にバランスを崩し、ふたたびソファへと座り込んだ。たしかケンカをしたとか何とか言っていたような気もするが……、ま、若い女の子の言うことなんて当てにはならんな、とくに我が家のお姫さまは。
「さて」
とそうしてふたたび彼は立ち上がると、庭にいる妻のもとへ行こうとして、
プルルルルルルルル、
プルルルルルルルル。
というこの家の電話――すっかり使わなくなった固定電話の呼び出し音に足を止められることになった。
「まったく」踵をかえして電話に向かい、受話器を取った。「もしもし?」
『祝部さんのお宅ですか?』聞いたことのない男の声だった。
「ええ、はい」優太は応えた。「祝部ならうちですが」
『祝部ひかりさんのご自宅?』
「ええ、はい。そうですが」
『祝部ひかりさんは、ご在宅でしょうか?』
「ひかりは私の娘ですが」警戒しながら優太は続けた。「失礼ですが、どちら様で?」
『あ、これは失礼』男は答えた。『樫山と申します』どうやってここの番号を知ったのかは結局教えてくれなかった。『樫山昭仁。ひかりさんの件で、実は折り入ってのお話が』
(続く)




