その13
日が傾いた花盛りの庭を眺めながら石橋伊礼は、奇妙な既視感――いつもの預言の風景ともまたちがう奇妙な既視感――をおぼえていた。この家の間取りにも、ふと見上げた高い天井や、揺り椅子にすわる老婆の佇まいにも。
「うん?」石橋伊礼は考えた。「本当に私は、この老婆に会ったことがないのだろうか?」
奇妙な既視感もそうだが、なぜ今回彼女が、面識もなければとても有名とは言い難い自分などを指名して来たのかがよく分からなかったからだ。
誰かの紹介? それともたまたまホームページでも見ただけ? いくつか探りを入れてはみたが、なんだかとてもひと当たりのよいほほ笑みにはぐらかされるだけだった。
「いかがですかな? 中身の方は?」
と、ここで突然音もなく、男が背後から声をかけて来た。びくっとなってうしろをふり返ると、そこにはこの家の居候? 協力者? だという大柄の男が立っていた。二人分の紅茶のお代わりを持って。
「え? あ、はい」伊礼は応えた。こちらの男に既視感はおぼえなかった。妙に赤い顔と黒いあごひげが何かに似ているなとは想ったが、「中身の方は、特に問題はないかと想います」読んでいた書類を、目の前のテーブルに置きながら、「こちらすべて山岸さんの自筆で?」
「文面は私が」赤い顔の男が答えた。老婆の代わりに、「奥さまの意向をもとに考えましたが、そうですね、文書はすべて、奥さまの直筆です」
「なるほど」伊礼は続けた。唇をかるく噛み、「であれば、過不足のないとてもしっかりとした遺言書ですので――」とすこし考えてから、「本日、行政書士の私を呼ばれたのは、私の方でこちらを預かって欲しいということでしょうか? それとも最近なら、法務局の遺言書保管所に預けるという方法もありますが――」そう続けようとした。したのだが、ここで、
「それももちろんありますけどね」と、わらうような歌うような老婆の声にそれを止められた。「まずは中身の裏取りを」一応、自分が把握し調べた財産はそこにすべて記載したつもりだが、「抜け漏れがあっても困りますからね」
「あ、なるほど」伊礼は応えた。初歩的なことなのに、なぜだか聞き忘れていた。「それでは、そちらの調査を」が、それも仕方のないことだった。というのも、
「なんですけどね」と続ける老婆の目的は、本来別のところにあり、「石橋さんにお願いしたいのは、もっともっと大事なことでして」その空気に彼も影響されていたからである。
「大事なこと?」と伊礼は訊き返し、
「他の弁護士さんや書士さんには出来ないことでしてね」と老婆がにやりとわらったところで、
ガラガラガラガラッ。
と、玄関扉のひらく音はした。
「お、来られましたな」赤い顔の男はつぶやき、
「おばあちゃーん」と老婆の孫のひとり、山岸まひろの声がそれに続いた。「来たよー、急用ってなにさー」
*
「遺言書?」席に着くなりまひろは言った。「やめてよ、縁起でもない」数ヶ月前に父親を亡くしたばかりなのに、「おばあちゃんまでそんなこと言い出すなんてさ」と。
「なに言ってんだい」祖母は応えた。「こんなの遅すぎるくらいさ」自分も色々財産を抱え込んでおり、「死んでアンタら兄妹をごたごたさせるのがイヤなんだよ」
「それはまあ、そうかも知れないけどさあ」と困り顔でまひろは言い、
「大丈夫、大丈夫。遺言書書いたからってすぐに死ななきゃいけないって法はないんだからさ」と言って祖母は笑った。
それから彼女は、やさしくまひろの手を取ると、「それより、ほら、ちゃんとご挨拶して」と、彼女に伊礼を紹介した。
「こまった時には気軽に相談、
あなたの街の法律家。
行政書士の石橋伊礼さんだよ」
とふたたび、わらうような、歌うような声で。
「あんたもなにか悩むようなこととかあったら、すぐに石橋さんに相談するんだよ」今日まひろを呼んだ理由、“もっともっと大事なこと”とは、彼と彼女を引き合わせる、近付けさせることだったからである。「特に、未来のこととか、自分がどう進めばいいのか分からなくなったときとかにね」
もちろん。
この対面が彼らの記憶に残るかどうかはまた別の話だし、伊礼が読んだ遺言書も本物であるかどうかから疑わしいのだが、それでも、ただただ彼らを近付けさせた、互いに顔を見合わせさせたことこそ、彼女的には意味のあることであった。
何故なら彼女は、伊礼の『預言』の能力を知っていたからである。
*
さて。
と言ったところで場面は戻る。どこに? 花盛りの家から西に数kmほど行った、ある小さな一軒家に。
そう。
例えばそこのキッチンには、ずっと使われていないハイライトのライターや、こちらもずっと使われていない、すこし気取った形のウイスキーグラスなんかが置かれていたりする。そんな一軒家に。
そう。
そうしてこれらはいずれも、この家の主人が結婚前に買い求めたものであり、そうしてこれらはどちらも、この家の主人が、彼らの子どもを“授かった”時に、もう二度と使うまいと決め、そこにしまったものであったりする。そんな一軒家に。
そう。
だからそのため彼は叫ぶ、「おーい、いま帰ったぞー」と。玄関のカギを閉めながら、奥の部屋に向かって。
が、しかし、そんな彼の声は、この家の他の住人――長年連れ添った彼の妻と今年17才になる彼の娘――には聞こえないのか気にされないのか、いずれにせよ届かないようで、返って来るものと言えば、
アーッハッハッハッ。
という彼女たちのわらい声くらいのものであった。そのため彼は、
「やれやれ」そうひと声つぶやくと、相変わらず脱ぎっぱなしの娘のスニーカー(最近買ったばかりのもの)を揃えてやってから、わらい声のする方向(彼の家の台所)へと向かった。そうして、
「どうした、いやにご機嫌だな」と、台所に入るなり彼は訊いた。妻と娘の顔を交互に見ながら、「なにかいいことでもあったのか?」
「あら、おかえりなさい」妻が言った。質問には答えず、「なんだか今日ははやいわね」
「出先から直接だったからね」彼も応えた――なにかあったのは娘の方だろうか?「ただいま、お姫さま」
「おかえり、お父さん」娘が応えた。なんだかニヤニヤした顔で、それからサッとそっぽを向いて。
すると、娘のこの態度がよっぽどおかしかったのだろうか妻が、
「あのね、あなたね、この子ったらね」とわらいながら言い出したので、
「あ、だめだめ、お母さん」と娘がそれを止めにはいった。「さっきも言ったでしょ、女同士のひみつよ」
「いいじゃない、お父さんに言うくらい」
「お父さんだからダメなの」
「ここまで言ったら、どうせ同じよ」妻は続けた。「あとは相手の男の子次第」
「男の子?」彼は訊き返した。台所で手を洗いながら、ハイライトのライターとちょっと気取ったウイスキーグラスを一瞥して、「いったいどこのどいつだ?」と少し芝居がかった口調で、「うちのお姫さまにちょっかいだそうって不届き物は」
「ほらあ、だから言ったじゃん」娘がわらった。「めんどくさいって」
「大丈夫よ、お父さんも冗談で言ってるんだから」妻もわらった。「ねえ、あなた?」
「それは相手次第だな」彼は答えた。憮然とした態度で、「俺のお眼鏡に適うかどうか」引き続きの芝居がかった口調で、「体育祭で一緒に踊ったあのインテリか? それともイケメン気取りのあの長髪か? まさかお前、あの筋肉デブじゃないだろうな? あの野球部の。あいつはぜったい将来女を泣か――」
「ぶー!」娘は答えた。「お父さん、必死過ぎ」とまたわらって、「どの子もちがうし、そもそもそんなんじゃないし」
「えー、そうなの? ひかりちゃん」妻が横から割り込んで来た。こちらも続けてわらいながら、「私にはそういう風には聞こえなかったわよ」
「だから、たまたま朱央に再会して、話が弾んだだけだって言ってるじゃない」娘が言った。
「“朱央”?」彼は訊き返した。
「ほら、小学校の時いたでしょ」妻が言った。そうして、「長野に引っ越した、清水さんとこの」
「あー」とここで彼は想い出した。「あのちょっとナヨっとした子か?」娘の横を付いて歩く小さな男の子と、「ぱっと見女の子みたいな?」それからついでに、余分な記憶も一緒に。「あの子、お前のこと好きだったよな?」と。
そのため、ここで娘・祝部ひかりは固まった。
「え?」と両手を上にあげながら、「朱央が?」
「なんだ、おまえ知らなかったのか?」彼は続けた。「あの子、泣いてたんだぞ」娘の顔がまっ赤になるのがおかしかった。「引っ越しの日、お前にかくれて、お前と離ればなれになるのがイヤで」
「うそ? うそ? うそ? うそ?」赤くなる頬をおさえながらひかりは叫んだ。足をジタバタさせながら、「うそよ、うそ、うそ、そんなの聞いてないわ」
「まあな」彼女の父親――正確には養父――祝部優太は答えた。「男同士の秘密ってやつだ」
そうして彼は笑った。
あーっはっはっはっ。
と大きく口を開けて。
ハイライトのライターと、ちょっとお洒落なウイスキーグラスが不要になった今の生活をありがたく想いながら。
なかば強引にこの子を“授けて”くれた会社と運命に感謝しながら。
問題の手帳がどうなるか?
そのことが少し頭をよぎったが、それでもいま、彼はわらった。娘の笑顔に。メガネの鼻あてを気にしながら。
(続く)




