その1
前日から降り始めた雪はいつの間にか止んでいた。テレビやラジオの話では、この台地一帯に、黒い平地や森や街角やもっと遠くの海や川や山の境界線まで、その雪は降り積もったそうだが、いずこの神の恩寵か、いつかの女神の気まぐれか、それらの雪は、午後も半ばを過ぎるころには、一部を残して、すべてが解けては流れ消えていた。佐倉八千代は浮かれていた。彼女はいつも浮かれていたけれど、それにも増して、いまにも踊り出しそうな勢いで、と言うか半分踊り出しながら、
「ちょ、ちょーっと、八千代さん、ストップ!」
と恥ずかしがる森永久美子の手を引いて。即席で作り上げた『シグナレス』のダンスフロア――要はイスとテーブルをいくつかどけてスペースを空けただけの場所――へと彼女を誘い出しながら。
そう。
佐倉八千代は浮かれていた。もちろん彼女はいつも浮かれていたけれど、この日は特に。
何故ならいまは、雪は止み、雲は去り、バイト先の新年パーティーは計画通りに実行され、彼女のアップルジュースには少量のアルコールが混入されていたからであるし、もちろん混入させた犯人は友人の木花エマであるし、その少量アルコールのせいで彼女の共感覚知覚は、いつもなら気付かないふりをしている彼女への好意を――こころからの好意を――彼女に気付かせてしまっていたからだし、店内の有線ラジオからは季節外れの素敵なワルツが流れていたからである。
そう。
ここは、これまでして来たお話よりも少し昔、六ヶ月ほど過去へと遡った、いつもの街の、いつもの小さな喫茶店、青い扉の『シグナレス』である。有線ラジオは歌っていた。
『おっかない親戚のおじさんも、
酔っ払ってハッピー・ゴー・ラウンド。
ふたり秘密の合図を忘れて、
うつむいていた。』
とかなんとか、七月の教会を舞台にした――今年の夏を森永久美子は見られないだろうが、それでも――軽快なワルツを。もちろん八千代にも森永にもダンスの心得などはなかったけれど、
「ちょ、ちょっと八千代さん、踊れませんよ、わたし、ダンスなんて」と戸惑う森永を、
「いいから、いいから、私にまかせて下さいよ」という八千代が無理やりステップを踏ませる形になるのであった。
そうして、あまりにもたどたどしい二人のワルツに周囲は当初、戸惑いと苦笑を禁じ得なかったのだが――八千代は無意識に男役を踊っていた――次第に溶け合い音楽に乗るふたりを見て、
「ねえ、踊りましょうよ」と言い出すご婦人や、
「教えて、教えて、あれ教えて」と父親にせがむ女の子なんかも現われるほどであった。有線ラジオは歌っていた。ひき続き、
『真っ白いドレスの君がいた。
あの日のメリー・ゴー・ラウンド。
僕は天国に続く芝生の、
丘を見てた。』
とかなんとか、何故だか同じ曲をくり返しくり返しくり返ししながら、まだ来ぬ七月を――出来れば来て欲しくない未来を――八千代に想い出させながら。
*
雪が解けて水になり、その水たちに午後の日射しが当たっていた。線路の先では時空が歪――あ、いや、実際には、複雑な光の乱反射が彼にそう錯覚させただけなのだが――時空が歪み、日陰に残った昨夜の雪からは、動かしがたい過去の記憶が見えていた。
彼、灰原神人は、背が高く、ひょろりとしていてなで肩で、とても温厚そうな顔をしたまま、よれよれのダッフルコートを着ていた。頭の上には、これまたよれよれの――ウワバミ象のマークが入った――紺のニット帽が乗せられていて、濃くきつい彼のくせっ毛は長く、救世主然とした彼のひとみを見えにくいものにしていた。
「そこ、いいかな?」初老の男性が彼に声をかけた。「荷物、置かせてもらっても?」
ここは、東石神井台にある駅のホーム。三連休の中日のせいか、それとも、想いのほか雪が早くに上がったせいか、この駅には珍しく、ホームはひとであふれていた。
「あ、すみません」灰原神人は応えた。「どうも、気が付かなくて」
何故なら、彼がベンチの前に立っていたおかげで、こちらの男性は座ることも荷物を置くことも出来ていなかったからである。男性も応えた。
「いやいや、ありがとう」彼は肩と両手に大きな荷物をみっつも抱えており、そのひとつをベンチに置きながら、「おかげで助かるよ」と続け、そのまま自身もベンチに座った。
男性は、彼の娘とも息子ともあまり似ておらず、中肉中背、何か理系の研究者のようにも見えたし、また何かの文献学者か時計店の店主のようにも見えた。
「お出かけかね?」男性が訊いた。唐突に。
「え?」驚いた顔で彼はふり返った。一瞬、なにを言われたのか分からなかった。男性が続けた。
「雪はあがり、雲は去り、空気は澄んで世界は光で満ちている」自分は用事があるのでそうもいかないが、「君のような若いひとが外出するにはもってこいの日ではないかね?」
灰原神人は答えにこまり、そのまま愛想笑いで逃げ出そうかとも想ったが、困ったことにこの男性には、彼の娘とよく似た能力が備わっており、そのためついつい灰原神人は、彼に、ふだん人には話さないような事柄を、彼の私生活に関わる内容を、すこし、話すことになった。
「なるほど。そのお見舞いの帰りなんだね」男性は言った。「それはお喜びになっただろう」
「さあ」灰原神人は応えた。「喜んでるのか怒っているのか、苦しんでるのか憐れんでいるのか、僕にはよく分かりませんでした」
この駅には大きな病院の治療センターがあり、彼はそこから自宅マンションへと戻るところだった。
「いやいや、きっとお喜びになったさ」男性は応えた。「君は、いい人なのだね」
この駅には男性の自宅もあったが、彼はそこには寄らず、知人宅に預けていた荷物や資料を取りに来ただけとのことだった。もちろん、彼の娘や息子には帰国していることすら報せてはいなかった。
「結局、とんぼ返りになるだけだしね」男性は続けた。「会ったところで何か話せることもないし――」と、そこでハッとなって口ごもり、「ひょっとして私は、わるい人間かな?」そう続けて苦笑した。
そうして、それから彼らは、各々電車をふたつ乗り過ごしながら会話を続けた。くり返しになるが、男性の言葉には、彼の娘が持っているのとよく似た能力があった。電車が到着した。
ぷしゅー。
がたがたがた。
と、ここで流石に灰原神人は立ち上がった。
「あ、いけない」そう言いながら、「そろそろ行かないと」今日納品の仕事が残っていた。「すみません、楽しかったです。えーっと?」
「樫山だよ、灰原くん」男性は応えた。「樫山昭仁」
と、戸惑う彼に握手を求めながら、
「どうして名前を知ってるんだ? って顔だね」と、それでもその戸惑いは無視したまま、「それはね、探していたからなんだよ、君をね、灰原神人くん」と。
(続く)




