その16
「先ずは、このリストのひと達に話を聞くところからよね」
と樫山ヤスコが決意を固めていたころ、彼女のいる一軒家から西に3kmほど行った場所では、まさにいまヤスコが名前を書きとめようとしている人物、ペトロ・コスタが宙を舞っていた。と言うか、とある四階建て雑居ビルの上から放り出されていた。
「おじさん?!」
アーサー・ウォーカーは驚いていた。身長190cmはあろうペトロの巨体が放り投げられたこともそうだし、そんな彼を投げ飛ばしたのが、彼より何十cmも低い、細身のマリサ・コスタ――いや、彼女の身体を乗っ取ったひとりの女性だったから。
「おじさん!!」続けて彼は叫ぶと、ペトロの行方を探そうとした。が、
ガシッ。
とその襟首をつかまれ、うしろに、彼女、オフェリア・モンタルトの方へと引き戻されていた。強く。有無を言わせぬ力で。
「あんたはこっちよ、アーサー・ウォーカー」
彼女は言った。伯母と同じく柔らかな右手だったが、その力はとてつもなく強く、荒々しく、容赦がなかった。「あんたも持ってるんでしょ?」
「持ってるってなにを?」アーサーは訊き返した。ほぼ絶叫するような声で、「なにも持っちゃいないよ! おじさんを助けなきゃ!」と。しかし彼は、
ひょいっ。
とそのまま、首を持たれその場に持ち上げられてしまった。軽々と。これも同じ、彼女のほそい右手に。
「や、やめ……」アーサーは身をよじり、手足をばたつかせ、彼女の手から抜け出そうとしたが、
「どうやって私を見つけたの? ペトロにそんな力はないはずでしょ?」と、びくともせずにオフェリアは続ける。心なしか、彼女の周囲をうすい、ひかりのようななにかが覆っているように見えた。
「た……、たまたま……」アーサーは答えた。消え入りそうな意識の中で、「み……ちを……歩いてたら……」
が、もちろんこれはウソである。前にも書いたとおり、彼とペトロは、彼が改造したスマホとアプリとパソコンで、街を行く彼女を見つけ、その後を付いて来たのである。彼女はうつくしく、堂々としており、なにかを、あるいは誰かを探し街をさまよっている様子であった。
「ふん」オフェリア・モンタルトは続けた。右手にさらに力を入れ、「なら、連れて帰って色々訊き出してあげるわ、ぼうや」
「い……、やだ……」彼も続けた。そろそろ呼吸も止まりそうだったが、「お……ばさ……んを……か……えせ……」
「一緒に来れば会わせてあげるわよ」オフェリアが言い、「どのみち身体は分けられないけどね」
「くっ……そ……」アーサーの意識が途切れかけた瞬間、
「なるほど」そうペトロはつぶやいた。「するとアイツは、お前のホテルにいるってことか?」彼らの背後、頭上数mのところで、「それともそこに、なにかカギでもあるのか? あいつをこっちに呼び戻す」
「なに?」オフェリアはおどろき、後ろをふり返ると、そこにペトロは立っていた。先ほど宙に放り出してやったはずのペトロが。光で出来た、奇妙な板のようなものに乗って。
「俺はコックだからよく分からないがな」彼は続けた。新たな光を、今度は螺旋階段のように並べながら、「場所はそいつが見付けてくれるし――」
パシンッ。
と両の拳を互いに当てつつ――おまえの、
「おまえのその怪力も、身体はアイツのだってんなら、戦いようもあるだろうしな」
「ふーん」オフェリアは応えた。アーサーを地面に下ろし、ペトロに向かい合いながら、「わたしとやろうっての? ペ・ト・ロ・くんっ♡」
「“くんっ♡”はやめろ」ペトロは応えた。左足を前に、右足を後ろにするサウスポーのスタイルで、「ってかほんと誰だよ、おまえは」
それから――?
*
そう。
そうしてそれから、今度は南東に2kmも行かない場所で、佐倉八千代は眠り続けていた。と言うか、記憶と時間の中に閉じこもり続けていた。まるでマリサ・コスタが、鏡と記憶の中に閉じめられ、あるいは閉じこもり続けているのと同じように。
「ごめんなさいね、エマちゃん」扉の向こうで母親の声がした。が、もちろん、彼女の意識にその声が止まることはなかったし、仮に止まったとしても、いまの彼女にその意味は分からなかった。
コンコン。
と扉を叩く音が聞こえ、続いてそれは開かれた。ほんの少しだけ。
「八千代」という母親の声がして、
「あ、おばさん」という木花エマの声がそれを止めた。
開いた扉のすき間から廊下の灯かりが入り込み、八千代の勉強机をうすく照らした。あそこに見えるのは千切れたスケッチブックだろうか? 二言三言のやり取りのあと母親は、エマだけを残し階下へと降りて行った。
「ヤッチ」と言いかけてエマはハッとなった。
何故ならそれは、彼女が想像していたよりもずっと絵画的な美しさだったから。
ピンクのシーツを下に敷き、淡いブルーのアフガンをかぶった佐倉八千代の身体は、いま、右手を下に顔は窓の方を向いてベッドに横たわっていた。頭のまわりにはいくつもの小枕が置かれ、そのひとつだけが、彼女の赤い髪に触れているようだった。顔は見えないが、きっと口はかたく結ばれているのだろう。毛布の上で結ばれた左手と同じく。
雨が去って空は晴れ、カーテンのすき間からは出番を間違った月のひかりが彼女の髪とブルーのアフガンを優しく照らしていた。
大学帰りの木花エマは、画材を入れたトートバッグを肩に掛けており、この美しい光景を、いますぐにでも描き止めたいという衝動に駆られたのだが、ここでも彼女は、ぶるぶるぶる。と頭をすばやく横に振ると、トートバッグは床に置き、パタン。と小さく扉を閉めた。蛍光灯のスイッチを探そうかとも想ったが、それは止めておいた。
「ヤッチ」ふたたび彼女はそう言った。
ベッドの横の折りたたみ式の踏み台――八千代がずっと椅子代わりに使っていた子ども時代のそれ――にいきなり腰を下ろすと、八千代の肩と頭に向かい合った。腰とひざは少し痛んだし、長い足を持て余すことにもなったが、それには構わず――ねえヤッチ、と。
「ねえヤッチ、起きてよ」と、ブルーのアフガンの上に投げ出された彼女の左手を見つめながら、「起きたくない、起きられないのは分かるけどさ」と、彼女の肩にやさしく触れながら、「それでも、やっぱり今回のはおかしいって」
例の“アレ”を八千代がどう止め、あるいは誰かにどう止められたのかは、いまだ不明でもちろんそれも不思議だが、それとは別に、最近、東京都内および近郊で、森永のケースとよく似た事件がいくつも起きているらしい。
「司馬さんや小張さんも犯人を捜しているそうだけどさ」いまだ特定には至っておらず、「今度もまた、そういう能力――」八千代と同じような能力、「を持った人間の仕業なんじゃないかって、司馬さんは話してたよ」
ぴくり。
と八千代がその身を震わせた。目はまだ開いてはいないようだった。ここで名前の出た「司馬」とは、小張千秋の昔の同僚で先輩、警視庁捜査一課に所属する刑事のことである。
「あのひとはヤッチを、私たちを、この手の事件にはもう巻き込ませたくないようだけどさ――」
と、ここでエマは言葉を飲み込んだ。自分の考えがどれほど矛盾しているか、どれほど論理的な整合性が取れていないか、友の、八千代の、能力の恐ろしさや、それが自分や彼女にどのような影響を及ぼすか、そうしてまた自分が彼女を、八千代を、どれほど大事に、大切にしたいと願っているか、そのような考えたちが頭の中でうずまいて、だけれどしかし、それでもしかし、この言葉を発さなければならない自身の気持ちの寄る辺なさに慄然となって。エマは見詰めた。毛布の上に投げ出された八千代の左手を。それは、固く強く握りしめられていた。親指を中にして、つよく、つよく、つよく。
「ねえ、ヤッチ」とうとう彼女はこう言った。その左手を握りしめてあげながら、「それでもやっぱり、あんたじゃないと無理だと想うんだよ、これはさ」――犯人を捜して、森永さんの仇を取るのはさ、と。
ぴくり。
とふたたび八千代がその身を震わせ、エマは不思議な感覚に襲われた。つかんだ八千代の左手を通して。
そう。
それは八千代の超感覚知覚の一種で、彼女がいま閉じこもり捕らわれている記憶と時間、それをエマにも伝えるものであった。
「ちょ、ちょーっと、八千代さん、ストップ!」
とここで、何処からか、何時からか、森永久美子の声がして、彼女の意識と記憶は時間をさかのぼり、空間を移動して行った。八千代の意識と記憶とともに。
いつに?
ちょうどいまから半年ほど前に。
どこに?
彼女たちが勤める街の小さな喫茶店、青い扉の『シグナレス』。その新年パーティーに。
(続く)




