その15
「どうですか? すこしは落ち着きましたか?」
しばらくして不破友介は訊いた。この家特製のハーブティーを運びながら。
「うん。ごめん、不破さん」山岸まひろは応えた。リビング中央のソファに横になったまま、「おかげでだいぶラクになったよ」
部屋にはあわい線香のかおりが漂っていて、それが彼女を落ち着かせた。うすく開けた目の端に、祖母の遺骨を納めた白い壺が見えた。雪のようなその肌に、うすいひかりのようなものが散らされていた。彼女は続けた。
「……驚かないんですか?」
「うん?」と不破は訊き返した。しばし考えて、「ああ」と、やっと合点がいった風に、「それはもちろん驚いてますがね」そう言って続けた。
こう見えても自分は、仕事の関係もあって、世界の色々なところに行っては、色々な人や出来事に出会って来たが、それでももちろん今度のように、とつぜん何もないところから人が現われたり落ちて来たりという事態には会ったことがなく、そのため内心飛び跳ねるくらいに驚いていたのだが、如何せんこの年になると身体がこころに着いて来ないということはままあって、そのためはた目には、あまり驚いているように見えなかったのでしょうが――とかなんとか、よくまわるその舌と口で、ぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらと、相手がなんとなく、
「ああ、まあ、そういうことかも知れないな」
と想い込むまでくり返し、くり返し、くり返し、ぺらぺらぺらぺら、ぺらぺらぺら。とそのためまひろも、彼の弁舌に騙されたのか乗せられたのか、
「ああ、まあ、そういうものかも知れないな」
と先ほどまでのジャンプ酔いとはまた別のボーッとした感覚に襲われると、そのボーッとした感覚のまま、いま彼女が横になっている場所、祖母の、いまはもういない祖母の、花盛りの家のリビングを見まわした。
「なにか……?」不破が訊いた。彼女にお茶を出しながら。
「あ、いえ、別に……」まひろは応えた。ボーッとした感覚のまま、「なんか、変わらないなあって想って」出されたお茶に手を伸ばしながら。
この家にはいま、人は不破友介だけしかいなかった。まあ、もちろん。正確にいうと不破は「人」ではないし、先ほど見えた祖母の遺骨もあるにはあったが。
「四十九日が終わるまでは、この家に置いておけだとさ」葬儀のあと、彼女にそう伝えたのはまひろの兄の富士夫だった。「線香も、一日以上は絶やすな、絶対に。ということらしい」
どうやら、弁護士から渡された祖母の遺言書にはそう書かれてあったそうで、富士夫は続ける。
「それ以外は」肩をすくめ、遺言書をひらひらさせ、「財産分与その他については何も書かれていない。あとは墓への入れ方と、『みんななかよく。』のひと言だけ」
祖母らしいと言えば祖母らしい遺言書だが、財産分与は『みんななかよく。』やるとして、困ったのは遺骨と線香の番である。まひろも富士夫も他の家族も、他に家もあれば仕事もある。結局、次男の鷹士は捕まらなかったし、三男の茄夫の住まいは勝浦だ。
「さあ、残りでシフトをどう組むか?」と富士夫が袖まくりをしたところで、
「あの、それでしたら富士夫さま」と不破が自ら買って出て、いまのこの状況になっているのであった。「実は、咲子さまからも頼まれておりまして」
ふーん。
と、ここで山岸まひろは想った。ボーッとした頭のまま、なんだかボーッとしていると、祖母がまだここに、それこそここの二階辺りに、ボーッとした感じでいるような、そんな感じをボーッとしたまま受けていた。それから、
うーん?
と彼女は、その「ボーッと」をほんの少しだけどこかにやりつつ、不破と祖母の関係がいまいちよく分からないなあ、とそんなことを考え出してもいた。
うーーーーーーん?
どう見ても男女の関係ではなかったし、仕事や趣味の仲間ともちがう。変な話はよくしていたけれど。だけれど……、そう、だけれどずっと……、ずっと? うん。そう。ずっと。ずうっと一緒にいた。同じ屋根の下にずうっと。
うーーーーーーん?
とまひろは更に考えを巡らそうとしたのだが――、
ダメだな、なんだかやっぱり頭が……、あ、いや……、うん? そう。それに……? あ、そうそう、それに、いちばん……、いちばん分からないのは、こういう疑問――こういう疑問?――を持つたびに、こういう疑問を持つたびに、こういう疑問を持つこと自体の意味が分からなくなるような…………あれ?
トサッ。
と、ここでまひろの意識は途切れ、彼女はふたたび、ソファに倒れた。
ふーん。
と不破が、ちいさなため息を吐いた――すみませんね、まひろさん。
「すみませんね、まひろさん。今日、あの方も、こちらに来られていたのですが――」
と、やわらかな虹色のアフガンを彼女の上に掛けながら、
「それでもまだ、お会いさせるわけにはいかないようで」と。そうして、
うーん。
とふたたび、不破はちいさなため息を吐いた。彼は、この家の子どもたちのことを、それこそ彼らが生まれるずうっと以前から知ってはいるが、特に彼女にはつらいことばかりが起きているような気がする。
「これも、咲子さまに似ているからなのでしょうが――」
ふうっ。
とみたび、不破はちいさなため息を吐いた――おやすみなさいませ、まひろさま。
「おやすみなさいませ、まひろさま」と。「取り敢えず、いまの間は。きっと忘れてしまうでしょうが、あの方の夢でも見ながら」
まだまだお話は、中間パートに入ったばかりなのですから、と。
そうして――?
*
そう。
そうして机の隅のココアはすっかり冷めていた。茶色い檻になって、カップを半分ほど満たして。
そう。
そうして作業机の真ん中では『リスト』がいまも作られ続けていた。と言っても、本当に作っているのは、なんだかよく分からない雲の中の計算式だかアルゴリズムなのだが。
そう。
そうして、その机の前で樫山ヤスコは考えていた。というか何も考えてはいなかった。ただ、なにかを決断しないといけないのだが、そいつがなにかが分かるのを、そいつが肩を叩くのを、もしくは背中を蹴っ飛ばすのを、ただただボーッと待っているところだった。なんだかよく分からないリストが、なんだかよく分からない計算式だかアルゴリズムだかに則って、実はなんにも知らされていない目的だか目標のために作られ続けているのを眺めながら。机の隅のココアに目をやった。
「これ、いつ淹れたんだっけ?」彼女は想った。想った瞬間、
『使われないものは重荷であり、
使われるものは、
そのとき作り出されたものだけである。』
という格言だか箴言だかが頭に浮かんだ。それから、
「これ、誰のことばだったっけ?」続けて彼女が想った瞬間、今度は、
「きょう来られたのは」と言う男の声が頭に浮かんだ。あるいは想い出された。男、あるいは花盛りの家の悪魔の。彼は続ける。
「きょう来られたのは、お母さまのヒトミさま、それに夢に出て来た知らない誰か、それに、お父さまが残された手帳――というか『リスト』について、咲子さまがなにか知っていたのでは? と考えられたからですよね」
となんだか意味深に。
が、しかしこのあと悪魔、あるいは不破友介と呼ばれる男が語ったのは、意味があるのかまったくないのか、本当の、あるいは裏の意味があるのかないのか、それすらまったくよく分からない、事柄・戯れ言ばかりだった。
「まひろさまはあまり泣かれませんでしたな。もうもう外で牛が鳴こうと」とか、
「ヒトミさまにタバコを止めるよう言ったのはわたしなのです。お酒は止められませんでしたが」とか、
「それで奴らもとうとう秘密を公表することにしました。涙もろい連中が騒ぎ出すのを止めるためにとかなんとか、クソみたいな理由で」とか、
「しかしわたしはそこにいました。悪魔も天使に見える地獄に」とか、
「そこで咲子さまと出会ったのです」とか、
まあ、その他いろいろを。そもそも何かものを考えながら話しているのかいないのかもよく分からない調子で。ヤスコは想った。机の隅のココアに手を伸ばしながら、
「あのひと結局、このリストについては、なにも言わなかったわね」と。それから、
「あれ?」と伸ばした手を引っ込めながら、「なんで『リスト』のこと知ってるんだっけ?」
と、昼間出されたマドレーヌの味を想い出した瞬間、
『Was man nicht nützt,ist eine schwere
Last, Nur was der Augenblick erschafft,
das kann er nützen.』
という格言だか箴言だかをつぶやく声が聞こえた。そうして、
ピィーッ。
とパソコンあるいはリストから彼女を呼ぶ音が聞こえ、彼女はそいつに肩を叩かれ背中を蹴っ飛ばされた。リストに新しい名前が追加されていた。相も変わらず直ぐには判読出来ない文字列だったが。
「うん」彼女はちいさくつぶやいた。父はもうおらず、母には連絡が取れない。「だったら」結局これがなんであれ、「“私たちの人生は、私たちで語らなければならない”」
追加された名前をノートに書き止め、彼女はそれを解読し始めた。このリストがなにを意味するのか? それはまったく分からないが、それは自分で見極めればいい。先ずは、
「先ずは、このリストのひと達に話を聞くところからよね」と。
そうして――?
(続く)




